現代wiki風 宮本武蔵
感想より
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とのことで
宮本武蔵
宮本 武蔵は、安土桃山時代から大坂時代初期にかけての武将、大名、政治家、官僚、芸術家。
【生涯】
天正12年(1584年)?-慶安2年(1649年)
現在の山陽道美作郡で生まれる。なお出生年は正確には不明。本人が「本当は何歳だか良く分からない」と言った記録が残っている。
出生地についても異説があり、生まれたのは播磨で、そこから何らかの事情で引っ越して美作で育ったのだとも言われるが詳細不明。
父親は新免一馬(無二斎)。剣術家、郷士、地侍。ただしこれも曖昧。同時代の宇喜多家の記録に新免一馬は残っているが、その息子の記述は無く、唯一、美作藩家老北川家の文書に「殿の本姓は新免であったから武次郎君にその姓を与えることは当然」といった旨の記載が残っており、ただしこれも、新免一馬と、武蔵との関係を示すものではない。
武蔵本人は生涯、父親の話はほとんどせず、その話になると不機嫌になって黙り込んだというので、結局正確には分からない。
【関ケ原の合戦後、追われる身に】
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに宇喜多家の手勢として参加する。足軽として参加したという説と、徒武者として参加したという説がある。ただし足軽だったとする記録は宮本家文書のみで、他の関ケ原関連の文書では全て一致して徒武者となっている。当時、徳川家康が「馬乗りでも無い一介の徒武者風情に打ち取られるとは不甲斐なし」と武蔵と松平忠吉について発言した記録も残っており、やはり下級でも武士では無かったかと思われる。
徳川家康の四男、松平忠吉を打ち取って一挙に名を上げる。大柄な体格の武蔵が松平勢を蹴散らして、あっという間に忠吉の首を取る光景は非常に目立っていたらしく、その模様は関ケ原に参加した複数の家の記録に残っている。(黒田家・井伊家・宇喜多家など)
しかし関ケ原後、故郷の美作に帰った武蔵は、忠吉殺害犯として、小早川家より討手を向けられる。これは徳川家康の命令によるものだった。討手を返り討ちにした武蔵はそのまま故郷を離れ、大坂に潜伏する。
この家康の命令は当時から評判が悪く、「将でも無い一介の徒武者に、戦の責を負わせるような理不尽な振る舞いはなさるべきでない、一軍の功も責も大将に帰するべきであり、そうでなければ配下の者が安心して働けなくなる」と本多忠勝が家康を諫めた記録が残っている。しかし家康は強行し、これが千慮の一失となった。
慶長7年(1602年)、武蔵は大坂の廻船問屋、淡路屋で働いているところを発見され、淡路屋に伏見奉行所より引き渡すよう通達が来る。淡路屋店主はこれを無視して武蔵に逃げるよう勧め、武蔵もそれに従って逃亡する。
【伏見京都の乱】
大坂から逃亡中の武蔵は、伏見街道で偶然、小早川家からの討手、柳生宗章に会う。その場で二人が名乗りを上げて切り合いを始めようとしているところに、伏見奉行所の手勢、さらに京都所司代の手勢も駆けつける。それを見ていた見物衆の中から、旧宇喜多浪人などを中心とする浪人勢が次々と参戦、人数は奉行所手勢を上回る程になり、そのまま大乱戦が起こる。徳川方は奮戦したものの数の差に敗れ撤退。敵が崩れた所を見た武蔵は先頭に立って追撃をかけ、一挙に伏見奉行所を落とす。
勢いに乗る浪人勢はそのまま京都所司代にまで攻め込み、板倉勝重の首を上げる。このころまでにすでに数千にまで数が膨れ上がっていたという。情勢を非と見た徳川方は京都を放棄して撤退を始め、これにより武蔵一党の浪人勢が、京都を事実上占領する状態となる。
武蔵一党は数か月にも渡り京都、二条城を占拠していたが、同年10月、備前の大名、小早川秀秋の死の一報を聞くや否や、京都を放棄、備前に向かう。一部は陸路で向かおうとして播磨の大名、池田輝政の手勢に打ち取られるが、主力は大坂で船を調達し迂回し、無事に備前に到着する。
【備前の混乱】
武蔵一党は首魁の武蔵はじめ、主力は宇喜多浪人であり、備前は地元であった。自分たちの人数で倒せる程度の小領主を襲って首を上げ、領土を乗っ取るなどの非道を繰り返し、たちまち勢力を拡大する。当主死亡で混乱中の小早川家は有効な対策を取れず、武蔵一党のみならず、備前美作全土で、夜盗や切り取り強盗が猖獗する騒ぎとなり、備前岡山は大混乱に陥る。
【福島正則との出会い】
隣国、備前岡山の混乱に耐えかねた、安芸広島城主、福島正則は慶長9年(1604年)、2万の軍を率いて備前に乗り込む。迅速に備前の混乱を収拾し、翌年には武蔵一党を追い詰め、そのほとんどを切り捨て、首魁の武蔵も捕縛される。
詮議した上で切り捨てるつもりで目の前に武蔵を引き出した正則だが、その余りにも堂々とした態度、一切悪びれない見事な胆力に感嘆し、その場で縄を解き、自らの家臣に加わるよう命ずる。武蔵もこれを受け、以降、福島家に仕える。
この時、武蔵は、福島家にこのままでは未来が無いこと、毛利と同盟して世を再び戦国に戻し、未来を切り開くべきことを正則に進言したと言われる。当時の情勢から考えて余りにも無謀な内容であるためどこまで事実であるか不明であるが、その後の福島正則の行動から考えると、少なくとも類似の内容の進言を行い、しかもそれを正則が受け入れたことは間違いない。
【福島家時代】
当初は百石程度の軽輩として採用されたらしい。しかし福島家と毛利家の同盟成立後すぐに二百石に倍増されている。毛利家との同盟に武蔵が何らかの関りを持っていたことは間違いない。播磨侵攻作戦においても活躍し、複数の兜首を上げ、五百石に加増されている。第二次山崎合戦においても多くの手柄を上げ八百石程度に。
慶長13年(1608年)の福島正則、大坂入城時には千石取り、物頭格。群を抜いた武勇を持っていたことは確かである。
【大坂入城後】
福島正則の傍仕えとなり、補佐として文官的な仕事を始める。この方面でも非常に優秀であったことが、この段階で初めて分かる。正則に信頼され、多くの仕事を任せられる。まだ奉行と呼ばれていなかったがこの段階から既に、実質的にはそれだけの仕事をしていたと思われる。
【天下再統一の過程】
福島正則による天下再統一の過程においては主に文官としての仕事で活躍する。前線に出ることは少なくなった。しかし慶長15年(1610年)の黒田始末(北九州包囲網)においては、軍監として従軍した記録が残っている。また最後の大戦となった慶長17年(1612年)の第二次小牧長久手合戦においては奇襲部隊を率いて徳川方に大打撃を与え、「天下一の剣豪」との称賛を、福島正則より与えられている。
【奉行職時代】
慶長18年(1613年)、上杉、徳川、伊達の当主が揃って大坂城に伺候、全国の大名が豊臣の名の下に服従し、天下の再統一が成された。武蔵は三奉行の筆頭奉行に正式に任命され、美作津山十万石を賜る。貿易振興政策、大老の権限の明確な法制化などの仕事をわずか数年で片付け、元和2年(1616年)には奉行職を辞し、故郷に帰っている。その後、その政策が非常に優れたものであったことが認められ、随時、加増を受けて、最終的には美作二十万石が彼の領土となる。
あまりにも早い隠棲に、体調でも悪くしたかと福島正則が気遣った記録が残っているが、武蔵はそれに対して、筆頭奉行でいるということ自体が重病に等しい、石田三成で無くても必滅の病、最低限の仕事はしたからこれ以上は勘弁してくださいと頼み込んだという。
今後必要なことがあったら諮問には答えるという旨は約束したので正則も最終的にこれを許した。以降、行政官として最高職である奉行の任期は、最長でも五年と定められ、大坂時代末期までこれは続いた。
【美作時代】
相次ぐ戦乱に疲れていた農村に気遣い、年貢の一時的減免処置を最初に行い、領民からの支持を集める。しばらく誰も使っていなかったので荒れていた美作津山城の修復は数年がかりでゆっくりと行い、武蔵もしばらくは仮小屋住まいだったという。
帰郷後、数年で結婚。妻は「お竹の方」。津山の郷士、豪農の坂本家の娘だという説が有力だが、実はもっと身分の低い娘を、その養女にさせたという説もあり、正確には分からない。武蔵は生涯、この妻以外とは子を為さず、つまり美作藩にとっては武蔵に並ぶ程の重要人物となったので、その出生に多少、怪しい所があっても藩を上げて揉み消したようだ。武蔵より二十歳年下だった程度しか分かっていない。
慶安2年(1649年)死亡。大往生だったらしい。享年65歳。贈正四位。
【奉行職時代の事績と評価】
「顔に似ず頭も切れる」と複数の記録に残っている。
全国の金・銀・銅の鉱山の直轄地化、平戸の確保と貿易港としての発展、台湾開発と東シナ海ルートの航路の日本船による独占などの経済政策は、ほとんどが武蔵の提言によるとされている。
豊臣政権下では百万石を超える大名が複数存在したが、それを危険視する意見に対して武蔵は「平和な時代になれば無駄に広い土地の住民を養うだけで赤字になる。領土の広さを誇るなど田舎者の戯言だ」と発言した記録が残っている。
政治職である大老の職権と、継承の順序、序列の入れ替わりや、行政職である奉行の職権と、就任の手順、任期などを定めた「豊臣家法」の原型を定めたのも武蔵であると言われる。最初期の「豊臣家法」は、わずか20項目の箇条書きで、署名も初期の三大老、福島正則、毛利輝元、島津義久だけである。
豊臣家と朝廷とは元々、非常に友好的な関係であったが、余りにも仲が良過ぎるのも問題であるとして、武蔵は「禁中法度」を作って朝廷に押し付けるようにと大老たちに奏上して受け入れられる。これにより儀礼的な面では朝廷が優先されるが、実力的な面では豊臣家が優先されるという原則が明確になった。
「禁中法度」の制作、実行者であるということで公家には嫌われる。「あいつは昔は伏見京都を焼き払った匪賊の類」等と日記に記した公家もいるほどだ。しかし平気でそこまでやった男だということで怖がられていたので面と向かって言う勇気のある公家はいなかった。
だがやはり公家には嫌われていたので官位はそれ程、高くならないままだった。なお本人はそのことを全く気にしていなかった模様。
【家族・子孫】
長男、武一は真田幸村の娘を妻として、二代目藩主を継いだ。
次男、武次郎は美作藩次席家老、本平家の娘を娶り臣籍に降下し、新免家当主となる。新免家は家老であり、また分家でもあるという立場で続き、大坂時代中期には新免家から宮本家に養子として入り、そのまま当主になった人物もいるが、両家は同根だし、ほぼ一体化していたので問題にならなかった。
長女、小竹は美作藩筆頭家老、北川家に嫁入り、生まれた子供は順当に北川家の当主となりそのまま続く。
なお美作藩では武蔵の遺言として、「宮本家に子孫が絶えれば新免家、新免家にも絶えれば北川家から当主を選べ」との家訓が残っている。それでも無理だったらどうしたら良いですかとの家臣からの質問に対しては「そこまでしても無理だったら天命だから諦めろ」と断言したという。
次女、笹は明石全登の息子の所に嫁入りした。明石全登と武蔵は年齢は結構離れているが仲が良く、昔から約束していたらしい。
武蔵の父母については、父は新免一馬だったという説が有力だが正確には不明。
なお母の名前は全く分からない。一定以上、身分の高い武士出身ならここまで両親不詳というのはありえないので、やはり低い身分からの成り上がりだったのだろうと思われる。
妻、お竹の方は武蔵の死後、十年ほど生きていたようだが、ほとんど記録に残っていないので不詳。
【芸術家としての武蔵】
故郷の美作で、嫡子が18歳になった頃に隠居し、それ以降の武蔵は趣味の絵画や彫刻に没入した。晩年の短い期間で驚くべき量の作品を作っている。
国宝「十二夜叉像」
方広寺に奉納された。木造。一般観覧は祝祭日のみ。>アクセス
武器を構えた十二神将の動きの躍動感の評価が高い。
国宝「不動明王半跏撃剣像」
成田山不動尊、明王院に現存。木造。一般観覧は祝祭日のみ。>アクセス
今にも剣を振り下ろして来そうな不動明王の迫力が魅力。
重要文化財「薬師如来小像」
宮本家所有、安国寺保存。一般観覧なし。
娘が初孫を産んだ時に子供の守り仏として作ったと伝えられる。他の作品と異なり穏やかで静かな仏像であるというが……見られないのが残念。宮本家によるとこれは武蔵が純粋に家族のために作った仏像、完全に家の私物であるので公開する気は今後とも無いとのこと。
重要文化財「枯木鳴鵙図」
水墨画。百舌の緊張感ある佇まいと寂しげな風景が特徴。
大坂、豊臣美術館所蔵>アクセス
重要文化財「大坂城遠景」
水墨画、風景画。当時の大坂城の威容がそのまま写し取られている資料的にも非常に貴重な絵画。豊臣秀頼の許可を得て、一年で仕上げたという。
大坂、豊臣美術館所蔵>アクセス
重要文化財「津山落秋雁図」
水墨画、風景画。美作津山城から見た秋の景色が描かれている。
津山市、宮本美術館所蔵>アクセス
他にも多数の作品があるが、大体、半々で大坂豊臣美術館か、津山宮本美術館が所蔵している。常に公開されている訳では無いので事前に公開日程を調べること。
武蔵の作風は大胆で写実的、躍動感があり迫力に満ち、鋭く強い一方で、華やかさや柔らかさに欠けると言われる。
それまでの時代の日本の画家などとは画風も異なり、絵画についても彼独自の一流のやり方を自ら編み出した、師匠などはいなかったようだ。
宮本美術館所蔵の作品には、美作の風景画、日常的な写生画などが多く、中世の絵画というよりは近代絵画に近い感性で描かれていると言われる。
【逸話・エピソード】
・伏見襲撃後、浪人衆を集めて「我に続け、二条城を落とし、所司代の首を取る」と宣言して自ら先頭に立って京都に突撃し、見た者は皆、これほど大胆不敵な男は見たことがないと思ったという。(北川家文書等)
・宮本家と京都、朝廷の微妙な関係は維新時までも後を引き、維新後の旧大名家の叙爵でも、宮本家だけ本来の格より一つ下の位を授けられそうになり、豊臣家が慌ててフォローした経緯がある。歴史上、実際に軍を率いて京都に乗り込み京都で暴れたという人物は宮本武蔵が最後であるため非常に印象が悪いようだ。
・元和御前試合において、疋田文五郎、富田越後、東郷重位など複数の人物が、世話係の木村重成に「あの御仁は出場者だと思うがどこの誰か」と、武蔵のことを指して尋ねたという。その度ごとに、いえ美作殿は審判の予定です、出場はしませんと説明するのが面倒だったと木村重成が日記に残している。なお「あんな人物が審判で横で見てられると気が散る」と柳生宗矩が文句を言っていたらしい。
・試合開催前に柳生兵庫が「伯父を討ち取ったのは貴方か?」と武蔵に直接に尋ねた所、「五郎衛門殿は戦場で鉄砲に倒れたが、それに先立って単身20人以上を切り捨てておられた、流石は柳生家の男と感心した。」とにこやかに返されて、柳生兵庫もそれ以上の追及は出来なかった。
・巌流、佐々木小次郎は、示現流、東郷重位との試合で負けが宣告されるも納得が行かず、審判の武蔵と一触即発になったが、武蔵は木刀一本を構えるだけで、真剣を帯びて今にも抜きそうな小次郎を圧倒し、「抜くなよ、御前で抜けばタダでは済まんぞ」と一喝した所、小次郎は結局引き下がった。
・東郷重位は途中で負けた後、すぐに薩摩に帰ったが、帰郷後、誰が一番印象に残ったか弟子に聞かれて、「新陰流などは昔から知っているし、知っている通りだった。それよりも作州殿の威迫に及ぶ者無し。我が剣、未だ彼の鬼人に及ばず」と答えた。
・宇喜多秀家と宮本武蔵の間には接点が非常に少なく、秀家の大坂滞在中にも訪問した記録などが全く残っていない。このことから武蔵は宇喜多家中では無かったのではないかという説がある。
・茶道にも堪能であったが、意外とその道では定石通りの落ち着いた茶を好んだ。古田織部の前衛的茶道を馬鹿にして大喧嘩した記録が残っている。千宗旦とは仲が良く活発な交流を持った。千宗旦が武蔵の芸術的センスを絶賛し、武蔵の絵画を茶会で使うことを好んだのが、武蔵の作品が現代でも評価が高い大きな原因である。現代でも千家系の茶道家元では好まれている。なお織部系では現代でも嫌われている。
この項目は人物に関する書きかけの項目です
今後も加筆・訂正などされるかもしれません
・補足エピソード書いてると次から次に書きたいことが……
・説明せずに飛ばした部分、大量にありますからねえ……
・とりあえず今のところはこんなもの、また考えて補足修正、あるかもです




