外伝その三 最後の御奉公
感想より
>旧主なんだから宇喜多秀家、なんとかしてやれよ!
ということで
西暦1645年、寛永20年。
時の関白は豊臣秀頼、既に当時は太閤であったが。
武家の棟梁として実際に政治を見ることも既に20年以上が経過している。
寛永の治と呼ばれる平和な時代を築き、豊臣家の繁栄は揺るぎない。
年齢も50を超えている。誰もが認める国家の柱石。
しかしそんな円熟した名政治家、豊臣秀頼をもってしても。
思案に余る事態が起こってしまった。
彼は先代(正則)、先先代(秀吉)が築いた平和な世に生まれ、育ってきた。
戦争は知識として知っていても、実際には……
起こさないように努力してきて、起こさずに済ますことに成功していたのだ。
だが……今回の事態は……
周囲の家臣たちと相談するも……
毛利、島津、前田、上杉の四大老も既に戦争を知らない世代である。
(徳川はまだ大老になっていない)
戦争を知る古老はほとんど死に絶えてしまっている……
「誰かいないか、信頼できる識見をもった人物で……戦争を知る……」
大老衆、奉行衆に聞いても、はかばかしい返事が……
悩む秀頼だが……不意に思い出す。
「そうだ! 作州翁はまだ、生きていたはずだな!」
既に隠居して長い、元美作藩藩主、宮本武蔵、この年、60歳。
急遽、秀頼公に呼び出される。
武蔵、最後のご奉公であった……
「やれやれ、この老体をわざわざ呼び出されるとは……」
そういいながらも武蔵の身動きは若々しく、老人臭さは無い。
髪は白く、顔も皺が刻まれて、そこは年相応だが。
鋭い目つきや、その目から覗いて見える明晰な知性にも衰えは見られない。
「すまんな、作州翁。しかしこれは、お前にもある程度は、関係ある話でな。」
「と、仰いますと?」
「『高砂守』殿からの緊急連絡だからな。」
「宇喜多の殿ですか……また懐かしい名前を……」
宇喜多高砂守。そう、宇喜田秀家である。
※高砂:台湾の古称。この時空では武蔵が台湾台湾と連呼するので台湾という名称も既に通用する状態だが、本来は台湾と呼ばれるのは結構後。
今は昔の関ケ原合戦……
宇喜田秀家は関ケ原戦後、一時、九州に隠れていたりしたが、結局、徳川に見つかって関東に連れていかれる。宇喜田秀家自身は関ケ原で最も手強く、徳川軍と戦いはしたが、彼自身はどう考えてもこの戦いの主導者では無かった。戦いを起こした政治的主犯、石田三成等とは異なり、あくまで誘われて参加しただけである。
それに宇喜田秀家は、前田家の姫を正室にしてる他、多くの諸侯との縁を持っており、徳川としてもそう簡単に処分できる人でなかったため、しばらく関東で預かってどうしたもんだか迷って、その末に結局、八丈島に流されるのだが。
この時空だと、徳川がそうして関東で迷っている間に、事態が急変。
ああっという間に徳川自体がボッコボコにされる。
さて戦後、宇喜田秀家、どうするか。
これは徳川も困ったが、豊臣方も困った。
彼の旧領、備前美作は、今は福島正則の領土で、そのまますぐに豊臣直轄領となっており、そこに今さら宇喜多秀家が入り込む余地は無い。宇喜多の旧臣も、その数は多いのだが……実は既にほとんどが福島、豊臣の家臣になっており、ぶっちゃけ宇喜多の臣であった時代より待遇が良い、天下の直参である。
戦国乱世の精髄のような、実力オンリー下剋上上等の世界で生きていた備前の宇喜多勢は、相手が強い分には、あっというまにそっちに靡いてしまう習性を持っている者がほとんどであり、今ではもう現状に満足してしまって、宇喜多の殿とか、今さら来てもなあ……という感想で。
実際ね、宇喜多家を興隆させた先代、宇喜多直家ならともかくね。二代目のボンである宇喜多秀家は、実は家内統治もそんなにうまくいっていたとはいえず、重臣同士の内紛が起きて、それを止められなかったりとかしたし……それでも負けるまでは一応従っていたけど、負けたからには、あっさり見限った、そゆこと平気で出来るのがほとんどの宇喜多旧臣の実情であったので。
宇喜多秀家は浮いてしまった。まだ二十代、若い。しかし前田利家の娘婿でもあるし太閤秀吉に息子同然に可愛がられていた人であるのも確かだし。
北政所様からも、秀家が何とか身の立つように計らってやってくれと、福島正則のところに嘆願が来て。
そしてそれがそのまま何とかしろと、武蔵の所に回ってきた。
さて、どうすんべ。
「というわけなんですが、どうしましょ。」
「ううむ……殿が……しかし今さら……」
俺と一緒に悩んでいるのは明石全登殿である。
この人は俺なんかと違って、れっきとした高官、宇喜多家の重臣だった。
しかし明石殿は明石殿で事情がいろいろあって……
まず明石家自体、宇喜多家より古い、備前の豪族なのである。
新興の宇喜多家に負けて、傘下についた家に過ぎない。
さらに明石殿は非常に優れた人物であったので太閤秀吉に目をかけられて……
宇喜多の臣ではあるけれど、特例で豊臣直臣格、十万石を与えられている。
だから豊臣家に恩義を感じており、それで関ケ原後、一回は九州にいって黒田殿のところにいたのだが、大坂に戻ってきて秀頼公に仕えることにしたのだ。
今では備前の旧領中心に十万石以上、既に持っており、他に豊臣家の親衛隊の総指揮官としての仕事もあり、毎日が充実しており、現状に満足している。
だが同時に、明石殿の妻は……宇喜田秀家の姉なんだな、これが。つまり義理の兄弟でもあるのだ。君臣というビジネス関係だけでなく、実際に身内の話でもあるわけだ、明石殿にとっては。
ちなみに明石殿は有名なキリスト教徒、一夫一婦を厳格に守る人なので、奥さんのことを大切にしており仲の良い夫婦である。その妻の、弟であるから……
冷たく追い払うとかは出来ない。
当面、明石家に滞在してもらって、客人として身内として、不自由のない生活を送らせるくらいは当然だがしかし。
そっからどうするべきか。
明石全登も悩んだ。
さてそれに対して武蔵の方は、実はそれほど真剣に悩んでいない。
武蔵も名目上は確かに宇喜多浪人ではあったが。
実際には会ったこともない人だし。
俺にはほぼ関係ないよなー別にこのまま飼い殺しでもいいじゃんと。
かる~く考えていた、無責任に。
だが実は、これもこれで、元宇喜多家中の典型例の一つである。
旧主とか今さら関係ないしーと気軽に思えるその思考。
それこそが宇喜多直家の残した正しい宇喜多の家風だ! と主張しても……
あながち間違いでも無い。戦国一の悪人、宇喜多直家の興した家だもの!
真剣に考える明石全登、実はテキトーな武蔵。
とりあえず考えても結論出ないから先延ばしとなった。
そしてそのままズルズル数年経過……
いや、ものすごく忙しい時期だったからね。戦後復興で。
仕事は幾らでも……
そして数年後、貿易振興策の始めとして、台湾遠征隊の派遣が発表される。
そのときに……
暇で暇で溜まらなかった宇喜多秀家、自分から志願してそれに参加。
急に言われて焦ったが、まあ確かに、彼ほど圧倒的に身分高い人がいた方が。
派遣部隊にもまとまりが出来るだろな。
なんといっても備前中納言だった人だから。
そういうわけで
え? いいのか? 本当に? などの周囲の言葉に耳を貸さずに。
武蔵はその志願を承認、台湾遠征部隊の将として行ってもらうことに。
「では、先の中納言様、お願いします。」
「お主が……新免の倅か……」
「はい、初めまして……というのも変ですが。」
「そうだな……すまなかったな。」
「なにがでしょう?」
「松平忠吉を討ち取ったお主の武功……情勢に非あって逆に罪とされたとしても、その罪は総大将である私にあった。少なくとも絶対に、お主の罪では無かったのに……私にはお主を守ることができなかった。すまなかった。」
「古い話です、今さら気にしてませんよ。それがあったから今があるのですし。」
「そうだな……いや、それだけ気になっていたんだ。よし、では行く!」
「お元気で……」
宇喜多秀家と宮本武蔵は、秀家が旅立つ直前に少し会話した他には、ほとんど接触は無かったという。
いかにも貴公子らしい爽やかさを残して宇喜多秀家は台湾目指して旅立った。
「あー……やっぱり、いい人だったよな……もっと早くに会っていれば別の可能性もあったかも知れないが……考えても仕方ないか。」
秀家は意気揚々と、開拓部隊を連れて台湾に向かい……
これは結果オーライ的に上手く行った、確かに。
元の大老、中納言、宇喜多秀家程の人物が将を務めるほどに……
台湾派遣軍は、本気でやってることなのだと、皆が認識したし。
そして宇喜田秀家は、ある程度の宇喜多旧臣と、その他大勢の元浪人勢と共に、現地で大変に苦労した末に、数十年の年月をかけて立派な日本人町と、稲作畑作できる領土も広げて、既に台湾の現地領土だけで実質、十万石以上の規模を持つとまで言われ、貿易による収入も考えたらさらに倍くらい豊かに。
非公式だが、高砂守と通称されるようにもなり、現地の長、実質的に新興大名みたいになっているのだ、現状。
さて時間を巻き戻して、今の武蔵は60歳。
その時点だと……
「しかし宇喜多の殿は……既にかなりの高齢でしょう……」
「うむ、70を超えている。」
秀頼が答える。
宇喜田秀家は、八丈島に流されたのに、そこで長生きして、江戸時代も中盤に差し掛かるくらいまで……85くらいまで生きる人である。
下手したら武蔵の方が先に死にそうなくらい長生きする人なのだ。
「高砂守からの相談は二つ。まず一つ目は、この後の高砂領をどうするか、という問題だな。」
「宇喜多家が大名として続けば良いのでは?」
「ああ、それで良いと思っていたのだが……現地の実情からするとだな……一緒に開拓に苦労した宇喜多秀家の人望は高い、彼が指導者だと全員が認めているが……息子がな、その、それほどの器量の持ち主で無いとか……なんといっても開拓の最前線で日本中から、日本での仕事にあぶれた荒くれ者が次から次にやってくる場所、原住民や、明からの流民など相手に、常に半分、戦時であるような状態で……指導者に器量が無くては現状維持も難しい、今後の開拓の拡大も無理だろうと……能力優先で、血統ではなく、別の人物に指導者の役割を担ってもらうしか無いと、宇喜田秀家は考えているようだ。」
「ふむ……宇喜多家の血統で継いで、それに皆が納得するほどに……落ち着いた場所では無いということですか。仕方ないですな。では、その後継者候補は?」
「ああ、それがだな……高砂守が推薦するのは、徳川忠長なのだ。」
徳川忠長。
史実では駿河大納言、家光と将軍位を争って負けて切腹する人。
ここでは徳川家を飛び出て台湾にまで行っていた……
この時点で三十代後半くらいの年齢。
「ふむ……高砂の日本人は、まず半分以上が雑多な、まとまりのない、各地からバラバラに来た人数、ある程度まとまった勢力としては、旧宇喜多の勢力が一番強かったと思いますが……」
「徳川もな。元々、関東全土から東海道、尾張まで全部、さらに越前も、四国北部にも松平家はあったし、九州にも譜代が。それが今では関東南部から三河までだけでは家臣が多すぎて困っていることは変わらず。今の当主の、家光の弟である忠長が、まとまった数を引き連れて高砂に移住し……現状、宇喜多には及ばないが、第二勢力として力を伸ばしているらしい。」
「そして宇喜多の殿は、それと対抗するわけでもなく、逆に……次代を託す人物として、忠長殿を推しておられるということですか……」
「そういうことだ。武蔵、どう思う?」
「現地のことは現地に任せたほうが良いでしょう。」
「それで良いのか? 徳川家の嫡流だぞ?」
「そこは気にする必要、無いですな。なんといっても高砂は遠い。現地の意見を第一に優先するしか無いです。」
「……高砂を、豊臣家の領土として、強固に確保する必要は無いと?」
「無いといいますか……無理です。最初から。遠過ぎますから。直接に、強固に、我らが統治しようと意識しておられるなら……そこから変えてください、まずそれはどうやっても無理だと。その前提で、うまく付き合う方法を考えるべきです。」
なお武蔵のこの方針は近代の帝国主義全盛時代には弱腰であるとして非難の的になることが多かったが、現代まで来ると結局、武蔵の言ってた通りじゃねーかと、改めて称賛されることになる。
台湾はこの後、宇喜田秀家の後に徳川忠長が「高砂守」を襲名し、またその次も別の家の人間が継ぎ、その結果、後で独立した時も王国の形態を取らず、大諸侯による連立政権となった、最初から。だから近代になって民主主義を取り入れるのも日本よりも早くなり、それ以降の発展も日本よりも早かったくらいになった。
「……まったく、お主は……いつでもそうやって簡単に割り切るが……はぁ……なかなかそうは割り切れない者の方が多いのだぞ、特に我が手元の者達は……」
「頭の固い近習共は、そんなに言うなら一回、現地を見て来いと、台湾に放り込むべきですな。遠さを実感すれば考え方も変わるでしょう。」
「しかしそれで我が国の利益は確保できるのか?」
「南蛮から、台湾、台湾から、平戸。この貿易航路が確保されている限り……我が国は対外貿易によって無限の富を得ることができるでしょう。重要なのは拠点となる場所を確保することです。」
「ふむ……それが豊臣家の天下運営方針であると、何度も聞いているから分かるが、うん、なるほど……国内でもそうして来たし、それで上手く回っている……海外でも同じ方針を貫くべきか。」
「はい、私はそう考えます。」
「なるほどな。よし、分かった、それは良い。問題は次でな……」
「なんでしょう?」
「まだ確報ではないが……明が、滅びたらしい。」
「明が? 大陸の、大明帝国がですか?」
1644年。
女真族出身の新王朝、清の軍が山海関を突破して北京を包囲。
実は明はその前に、流賊出身の李自成によって皇室が滅ぼされていたのだが。
その李自成勢力を追い払ったのが、清軍ってことになるのだが。
その辺の細かい事情までこの時点の日本で分かるわけなかった。
「うむ、韃靼の……長城の北の騎馬民族らしいのだが……ヌルハチとか言う変な名前の男が大暴れして、北に新たな国を興し、しかしそこで死んで一段落したと聞いていたのだが、逆にそこからその後継者が盛り返して、ついに北京を落としたとか。明の宗室は滅び、韃靼族が今では北京の主らしい。」
「明はボロボロでしたからな。豊家の朝鮮遠征でも、かなり国費を食い潰したようですし、その後の内乱でも。明の統治が行き渡っていなかったから我らが台湾で好き放題やれていたわけですが……今後はどうなるか。」
「うむ、これまでも高砂守は現地の明政府の出先機関とは交渉してそれなりに上手くやっていたのだよ。だがその明が滅びたとなると、さてどうするか?」
「よし、これは好機です。やっちゃいましょう。」
「ん? どういうことだ?」
中国の王朝が強いとき、周辺国はそれをビビって大人しくしてる、せざるを得ないものである。
しかし中国の強力な王朝が滅びたときは……周辺民族が一斉に中国の領土の蚕食を始める。これは紀元前より続いてきた中国と周辺国の伝統的関係である。
漢が滅びた後も、周辺民族が雪崩れ込んで、わやくちゃにして、魏晋南北朝時代の混乱があり、唐が一時盛り返すも、また滅び、そしたら五代十国の混乱が。いずれも周辺民族が中原に雪崩れ込んだのが混乱が長引いた主因である。そういうもんなのである。
東洋の伝統と礼儀に則って、ここは中国侵略しときましょう!
とは言っても大陸に手を出すのは良くない。あそこは無間地獄の泥沼だ。
だから具体的には……
「台湾に出す船を倍か……それ以上に。これまで以上に大量の人口を運びましょう。それで一挙に台湾における支配領域を増やす! 現在は北東部の一部を中心にして徐々に開拓している程度……北部の平野、台北を目指して、やっちゃいましょう!」
「待てコラ。台湾のことは向こうに任せろと言ったばかりのくせに。」
「ええ、向こうに任せますよ? ただ我が国の失業者問題……過剰に多い武士階級、それを養うための赤字経営が、どこの大名家でも悩みの種ですから……その中で豊臣だけがその問題はほぼない状態で独り勝ちだったわけですが……せっかくの好機です、国内の武士人口過剰問題を解決するために、最高の機会!」
「こっちは余分な人員を送るだけ……あとのことは台湾に任せると? それもかなり無責任な、ひどい話……」
「こっちは失業者問題を片付けられて喜ぶ、向こうは日本人人口が増えて喜ぶ、どちらも喜ぶ、まったく問題ありません!」
「そう言われたら、そんな気もするのだが……しかし本当に大丈夫か……」
国内で戦争が終われば、武士が余る。
多すぎる武士をどうするか、豊臣秀吉は朝鮮征伐に使おうとした。
史実の徳川家康は容赦なくリストラした。さらに歴代の将軍が多くの大名を取り潰し、その度ごとにまた失業者が世に溢れ……この問題は江戸幕府においては結局最後まで解決されなかった。幕末だってこの種の浪士と呼ばれる連中が大暴れして、最終的に幕府まで倒れる騒ぎになったのだし。
台湾は日本と似た島国であるが、位置的に、亜熱帯から熱帯近く。気候もかなり違うし風土病もある、灼熱瘴癘の地と、中国の史書に書かれるような場所だ。日本から送り込まれた人間の三分の一は、疫病であっさり死ぬ状態であったと記録に残っている。近代まで開発が進んでなかったのも理由がある、大陸から人が移れば片端から疫病で死ぬという以外に、台湾は地形も日本と似て国土は山がちであり、山に依って生きる「山の民」とでもいうべき原住民が昔からの住人、亜熱帯の山岳と森林、森の恵みの豊かさは温帯の日本の比では無い。日本では弥生時代に駆逐されたような、山に依存して狩猟採集生活を送る人々が現役で大量にいて、しかも彼らが強いのだ。山の間の狭い平地を開拓するのにも彼らが邪魔になりなかなか捗らない。
だから台湾の開拓には人口がいくらいても足りないくらいであり、日本国内の余った人員を幾らでも注ぎ込める! それに台湾は九州くらいの島だからまだまだ余裕があることを武蔵は知っていたので平気。
この頃から明確に、「台湾開発組」と「貿易従事組」に、海外に行く人間にも違いが出てきている。台湾開発組でもトップは貿易にも大きく関わっているが、下っ端はひたすら開墾を頑張るだけである。貿易組は豊臣家の直参であり、はっきりいってこの時代ではエリート、マカオやルソンまでも出かけて現地人と交渉して、台湾経由で日本に帰って来る。一回の航海で莫大な利益があがり、歩合制で懐に報酬が入るので笑いが止まらない。
大商人と武士の境界が曖昧になり、商人出身の武士、武士出身の商人が大量に生まれる。成り上がりを目指す若者はこぞって海外交易の仕事を目指し……でもそれも本当は相当厳しいんだけどね、船が沈めば終わりだし、また向こうにいっても頑張って言葉勉強するとか色々大変だし。
既に軌道に乗っていた台湾開発と、台湾経由の貿易を、より一層拡大するとの布告が豊臣家より出されたのはその後すぐのことだった。これにより豊臣家三百年の繁栄は確実なものになったと評価される。大陸の情勢が悪化している旨の報告は来ていたらしいのに、そこで敢えて大胆に踏み込み、拡大路線を目指すというこの決断には、当時、臨時に大坂城に呼び出された武蔵の提言が裏にあったと言われている。
隙があるなら付け込むぜ! ヒャッハー! 的な思考が彼にあったのかどうかは謎である。
なお大陸からまず、亡明系の鄭成功の勢力が、次にそれを追って清軍がやってきて大騒ぎになった時には、既に武蔵も秀頼も死んでいたので……それに対処して苦労するのは、その時代の人間となった。
秀頼の時代には国内はもちろん、対外貿易でも大きな問題は起きず順調に拡大成長を続け、ひたすらに繁栄あるのみ!って状態だったわけだな、ずっと。だから彼の時代は、豊臣黄金期と呼ばれるのだ。
「だが武蔵、それで戦争になったらどうする?」
これが一番、秀頼の心配していたことだが。
「それも最終的には現地任せで何とかするしかないですな。こちらから軍を派遣して大陸の新勢力……恐らく、清軍と戦うというのは愚の骨頂。最初は多少、不可避に戦わざるを得なかったとしても、最終的には和睦を求めるしか無いでしょう。」
「勝てないか?」
「朝鮮は……対馬あたりからだと天気が良いと見えるくらい近いと言いますぞ。それでも海を隔てて軍を派遣すると、補給困難で撤退する以外に無かった。台湾の遠さは朝鮮の比ではありません。無理です。」
「うぬぬ……」
武蔵は知っているが、清は中国歴代王朝の中でも実は最強クラスに成功した王朝であり、特に康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代名君の時代とかだとガチで世界最強クラスでロシア軍とかボコボコにしたりしているし。
その時代までは武蔵も秀頼も生きていない。そうなるとこっちは平和に慣れた世代が主流の時代に、向こうは三代名君の時代、うん、絶対勝てねえ。
「戦争になりそうになったら……その時の我が国の指導部のために……なんらかの文書を作っておきますか、参考になるように。」
「戦争はやめておけ、和睦を目指せと書き残すわけか?」
「殿下にも署名して頂きますぞ。」
「それが必要、か……分かった……」
近未来に起こるであろう、大陸の新勢力と、台湾の日本人勢力との間の諍いを正確に予想し、対策を記したこの文書は「作州翁の置文」と呼ばれ、その内容が不気味なほど未来を言い当てているために、後代の人々は驚いた。
特に、清の興隆はこれからだから、その間はじっと我慢しろ、その興隆の時期は結構長いから注意しろよと、まるで未来を知っているかのような内容で……
なぜ彼にそこまで分かったのか?
歴史の謎である。
「作州翁の置文」の作成には数日かかった。
書きあがったものを秀頼に預け……
これを最後の仕事として、武蔵は美作に帰って行った。
「あ、帰る前にまた試合、やっときますか?」
「いらん!」
そんな会話が主従の間にあったかどうかは不明。
武蔵が死ぬ五年前の話であった。
当初のプロットとして、護送中の宇喜多秀家を強奪して擁立して備前美作に乗り込むという案も考えていたので、一歩違えば旧主と言わず、本当に主になる可能性がありました、宇喜多秀家。