外伝その二 秀頼の剣
感想より
>せっかく武蔵が主人公なのに剣豪らしい活躍が少ない
ということで
日本史で「治世の名君」といえば、豊臣秀頼のことである。
理想的な政治を行い、国家を繁栄させ、国民全てを豊かにした。
実際、秀頼公の「寛永の治」よりも良かった時代が。
日本史の他の時代にどの程度あるか。現代の繁栄と比べてもである。
真面目にそう言われるほど理想的な君主であったとされている。
だがそんな秀頼公も最初から理想的な君主であったわけではない。
なにせ幼い頃、最初に大きく影響を受けた相手が、福島正則である。
正則に憧れて、乱暴な振る舞いをしていた時代もあった。
若い頃は一時期、グレて不良みたいになってたわけだな……
既に戦争のない時代であったから、暴れたくても戦えない。
秀頼公は大叔父が織田信長、祖父が浅井長政、父が豊臣秀吉、最初の守役が福島正則、いずれも生涯、戦いに戦い抜いた人々である。
体に流れる武門の血が騒いで……鬱屈していた。
そこで秀頼公は代償行為として……剣術に凝った。
各地から剣術の名人を招いてその技を見て、自分も実際に習ってみて。
試合も開催した。元和御前試合は現代までの語り草だ。
出場者は、西国から、島津家指南役、示現流、東郷重位、当時細川家に滞在していた上泉伊勢の一番弟子、新陰流、疋田文五郎、肥後加藤家家臣、柳生兵庫助(戦争に次ぐ戦争で、途中で辞めるとか寝ぼけたことは言えないまま仕えている)、九州勢だと他に有名だったタイ捨流、丸目蔵人は近年に戦死していたので無理(九州中部の小藩所属、黒田加藤の戦争に巻き込まれて死亡)、京流より、こっちは逆に生きていた吉岡憲法(武蔵が来なかったからな!)、北陸より富田流、富田越後、奈良より宝蔵院流槍術、宝蔵院胤舜、残念だが柳生石舟斎は既に寿命で亡くなってました、関東より、徳川家家臣、新陰流の柳生宗矩、佐竹家家臣、一刀流の小野次郎右衛門(実はこの人は千葉出身でこの世界では千葉は佐竹領なので)、他に、微塵流、根岸兎角、念流、樋口定久、富田流出身で独自の流派を開いた巌流、佐々木小次郎など、ファンなら溜まらないドリームマッチ、武蔵の企画でランダム制のトーナメントで、その戦いは開催された。
武蔵は出場者ではありません。こいつはそういう試合に遊びで出るには、既に身分が高すぎる、偉すぎるので。
ちなみに最後の四強に残ったのが、疋田文五郎、宝蔵院胤舜、柳生兵庫助、柳生宗矩であり、おいおい全部新陰流系じゃねーか凄いなと、審判をしていた某美作の大名が驚いていたとか。準決勝で柳生宗矩は運悪く、同流の大先達である疋田と試合うことになり敗北、それでも強かったよ、腕が良かったか疑問とか言ってすいません。宝蔵院と柳生兵庫は激闘の末に相打ち、両者、試合続行不可能な程の負傷を負ってしまったので、疋田文五郎が日ノ本天下一兵法者として、秀頼に称賛される栄誉に輝いた。これによって西国中心に新陰流が大流行……ただし主導者が疋田であり、彼は史実の宗矩ほどに組織化能力高かったわけでも無いので、まあそれでもかなり流行った。
なおこの後、疋田文五郎は剣術指南役として召し抱えられるも、既に高齢であったためにすぐに引退してしまっている。柳生宗矩は徳川家家臣。柳生兵庫は加藤家家臣であるから呼べない。だからその後の豊臣の剣術指南役は疋田文五郎の弟子、山田勝興が引き継ぎ、教えている流儀は「新陰流」。まあ、上泉伊勢の一番弟子、疋田文五郎の後継者だから、本来はこっちが正統新陰流と名乗ってもおかしくはない。この世界では疋田系が正統派で、柳生系は傍系となったわけだ。史実だと疋田系は、疋田陰流とか名乗って、柳生に遠慮して、それでも西国で結構流行った流派だった。
さて、この試合はものすごく盛り上がって大坂から全国まで大騒ぎになるくらいだったが、しかし……
関白豊臣秀頼がそういうことばっかりやってるのは問題であり。
しかし秀頼、二十歳前後は特にその調子で……
剣術に熱中し、勉学も政務もおろそかにして、老臣たちの諫めも聞かない。
たまに酔って、酔ってだから本気では無いだろうけど、できれば専業の剣術使いとして生きてみたいなどと言うこともあり……
どうしたものかと皆も困った。
さてそこで……
皆に頼まれて嫌々だが……
少しだけ剣を教えたこともある、美作藩主宮本武蔵が。
秀頼公を諫めることになる。
秀頼は、祖父、浅井長政に似て、大柄で骨太の頑丈な体格。
鍛えれば鍛えるだけ強くなる、恵まれた戦士の肉体を持っていた。
だから余計、鍛えるのが楽しくて仕方ないのだ。
基本の地味な素振りも嫌がらずに熱心に行い……
殿様剣術とは言え馬鹿に出来ない。
実際、恐らくは……本気で強かった。
剣術使いで食っていけるくらい強かったのではと言われる。
腕が未熟な近習の若者たちに剣の指導をするくらいだったのだ。
既にセミプロ、望めばプロにもなれるのでは? というレベル。
その強さに天狗になっていた気配もあった。
そこで武蔵、まずは軽く試合をお願いできますかと尋ねる。
なお試合には竹刀を用いるのが当時、既に普通だった。
これは柳生から取り入れたとかなんとか適当に理屈をこしらえて。
実は武蔵が、最初に秀頼に剣を教えたとき作成し、使用した。
そしてその時、竹刀を使うのが当然であると、秀頼に刷り込んだ。
もちろん確信犯である。
史実では剣術が本格的に竹刀稽古を取り入れるのは……
江戸時代も末期近くなってからだ。
しかしこの時空では、初っ端から竹刀主流である。
秀頼公がそれを好むのであれば、世の剣術家はそれに倣うしかない。
武蔵の思惑通りであった。
日本の剣術の発展に貢献したと武蔵は満足。
いやあ色々と変わっちゃったしね。
柳生の新陰流が天下の流儀でないから、柳生宗矩も一介の旗本程度だし。
だから彼は多分「兵法家伝書」を書かないのでは。
さらに俺自身も「五輪の書」は書かないわけで。
剣術理論の発展は確実に遅れている。
この二人がその分野では先駆けで後世の範になったはずだったから。
でも先んじて優れた訓練法、竹刀稽古を普及させるのに成功したから。
まあトントンだろう、うん。
さて。
秀頼だが。
幼い頃、最初に武蔵に剣を習った頃はもちろん手も足も出なかった。
だがそれから十年以上経過している。
その間、秀頼は、多くの他流の名人上手に教わって……
地味な稽古も嫌がらずに努め、自分の腕は上がったと。
確信を持っていた。間違いではない。
武蔵は三本勝負と言った。
よし、では最低でも一本……
いや勝ってやる! いくぞ!!
秀頼は気合十分で立ち合い……
そして
動けなくなった
そう秀頼は強くなっていた
だから前より、幼かった時よりも
余計
はっきり分かった
秀頼も背は高い、武蔵と同じほど高いのである。
体重は恐らく秀頼の方が重い。しかし鍛え抜いているので肥満では無い。
武蔵は秀頼より10歳ほど上である。
秀頼は二十代、武蔵は三十代……
武蔵もまだ衰えるほどではないにせよ……しかし……
それでも若い秀頼のほうが有利なはず……
だがそんな理屈など何にもならない
何をどうやっても動けない
凍り付き、ただ圧倒された
信じがたいほどの
想像もできないほどの
腕の差があるらしいということだけ嫌というほど分かった
「では、行きますぞ」
武蔵は穏やかな口調でそう言うと……秀頼に静かに接近。
スっと、大して力も入れてないような一振りで。
秀頼の手から竹刀が落ちた。
小手も、打たれていない、武蔵は竹刀で竹刀を軽く打った、それだけ。
なのに一瞬で、ごく簡単に秀頼の手から竹刀が落ちた。
「どうなさいました、殿下。では次です、竹刀を拾ってください。」
言われるままに竹刀を拾う。
「少し待て!」
言って、素振りを繰り返す。
大丈夫だ、体は動く、さっきのは何かの間違い……!
だが
次も何もできないうちに竹刀を落とされた。
その次はこっちから打ってかかった。と思ったら竹刀が落とされていた。
むきになった、四度も五度も、いや十回以上、あらゆる手を使って挑んだ。
何をやっても
何もできず
ただ、竹刀を落とされた……
「紅葉の打ち」
紅葉の葉が落ちるがごとく、敵の太刀を落とす。
敵が太刀を構えようとする、太刀で打とうとする、太刀で張ろうとする、太刀で受けようとする、どんな場合であっても
こちらがその太刀を狙い打ち、打つとき切っ先下がりに、下に撥ねる感じで打つことを意識すると、その太刀を落とすことができる
慣れればどんな状況でも自在に敵の太刀を打ち落とせる
慣れればマジで出来るから頑張れノ
宮本武蔵著「五輪の書」より抜粋意訳
さてそんなことが本当にできるバケモノ、武蔵
剣は理不尽なほど天才であり
本当は、真面目に努力してるタイプの人は……
相手しちゃいけない生き物である
こういうのと付き合ってはいけない、見ないほうが良い
絶望的な才能の差に心が砕かれるだけだから……
であるから……
そんなモンスター相手に試合させられてる秀頼こそ災難である
十年前から剣を習い……
ここ五年程は本気で熱中し、日々稽古を繰り返し……
同年代相手なら大抵は勝てる
自分はそれなりに強くなったはずだと思っていたのに
手も足も出ない
もはや何十度か分からないが。
とにかく、ただ、ひたすら、竹刀を落とされた。
疲れ切って、打ちのめされて、ついには道場に膝をつく秀頼
そんな秀頼を見て、にこやかに言う武蔵。
「いやあ、お強い、頑張って稽古なさってますね、分かりますよ、殿下。」
秀頼、息が切れて何も言えない。
涙目になりそうになって、なんとかこらえて道場の床をじっと見る……
「例えば、酒を飲むとか、女遊びをするとか。それよりはずっと良いですよ、剣の稽古をしているほうが。健康的ですし。でもまあそれでどれだけ熱中してもですな……剣術使いになれるわけでは無いのですから、もう少し勉強も政務も、頑張ったほうが良いですよ、殿下?」
武蔵は婉曲に言ったが、秀頼には分かった。
お前は筋は必ずしも悪くないし頑張ってはいるが。
残念だけど、プロになれるくらいの才能、無いよ?
武蔵は、そう言っているのだ。
そしてそう言われても仕方ないほどの醜態……
「分かった……」
そう言って秀頼は悄然と道場から去っていった……
武蔵は美作の殿様である。確かに恐るべき戦場経験は持っているが……
しかし決して剣術のプロではない、それ専業では無いのだ。
戦場経験を誇る武者ほど、道場で試合となれば必ずしも強くない。
秀頼はそのことはよく知っていた。
なのに自分は道場で、竹刀で戦ったのに、手も足も出なかった。
つまり自分には才能が無いのだ……
実は武蔵はこの時代、剣術使いを全員集めても最強クラスくらいに強い。
疋田文五郎だって柳生兵庫だって勝てるか不明なくらい強い。
まだ若い秀頼では、比べる相手が悪いのだが……
そんなことは知らない可哀想な秀頼は。
これ以降、無闇に剣ばかりに熱中することはやめてしまった。
剣術指南役の新陰流、山田勝興は、いや、あれはあの人が異常に強いだけですからと言いたかったのだが……しかし秀頼が剣術に熱中し過ぎて問題だ、お前も何とかしろと家老の方々に日夜、言われていたし……これで秀頼公が政務に本腰を入れられるならその方が良いと考えて、黙ってしまった。
口では言わなかったが、記録には残した。彼の死後見つかった日記には、「美作殿(武蔵のこと)は若年より戦場往来を繰り返し、その気迫だけで人を圧倒する術を備えておられる、実戦経験の無い殿下(秀頼のこと)ではまともに動けなくなって当然で、それは剣の技術とは別の話である……」と書いてあった。
あれはあいつ個人が異常に強いだけで、一般的な技術としてはどうなのかと、史実でどっかの大名が武蔵を不採用にした時と似た評価である。
そんなことは知らない秀頼、指南役に相談しても、助けにならず。
それでも諦めきれず日課として剣を振るのだが。
どれだけ振っても目の前に武蔵の影が見える。
一瞬で剣を落とされる、抵抗できない。
剣の稽古は早朝だけにして。
あとはまじめに勉強、政務に努めることにした。
秀頼の軌道修正にあっさり成功した武蔵は流石だと近臣たちに称賛されたが。
お前ら、もうちょっとしっかりせんか! と雷を落として。
すぐに妻の待つ故郷に帰って行った。
秀頼は心を入れ替えて、本来の政治家としての仕事に集中し。
理想の名君と、治世中から言われるほどに。
彼は頑張って、そして……
さてそれから40年ほど経って。
秀頼も既に老齢、そろそろ死ぬかもって頃に。
もちろんとっくに武蔵は死んでいる。
その年齢になっても剣の稽古を怠らずに毎朝続ける秀頼。
ある時、素振りをしてると、ふっと……分かった。
あれ?
今さら、分かったけど……
俺、強いじゃないか
今なら武蔵の剣を……多分、かわせる
その確信が初めて持てた
持てて、分かったけど
おい
あれは
武蔵が異常に……アホみたいに強かっただけでは……
確かに専業の剣術使いじゃなかったけどそんなこと関係なく
多分あの頃、自分が習っていた多くの剣術の先生たちよりも
ぶっち切って、圧倒的に、武蔵は強かった
それが今更分かった
「ふっざけんなああああ! あのジジイイイイイイ!!」
いえ、既に武蔵の死んだ年より上です、貴方のほうがジジイです。
しかし秀頼は年甲斐もなく絶叫した。
「甘いですな、殿下、はっはっはー!」
あの世で武蔵が笑っているような気がした。
豊臣正則は武蔵を「天下一の剣豪」と称賛した。
それに加えて豊臣秀頼も武蔵を「天下無双の名人」と評価している。
名人というのは、政治制度とか貿易振興策とか行政システムを上手く作った人という意味だと解釈されるのが普通だが……
実際は、あんなんに勝てるわけなかったんだと
剣術のジャンルに限定しての話で
秀頼の恨みの気持ちが、その評価に含まれていることに……
当時から後代まで、誰も気付かなかった。
豊臣秀頼は在世中、新陰流の正統を継がないかと、指南役の山田勝興から打診されたこともあった。
その時は、そのような媚び方は好かん!と一刀両断した秀頼なのだが。
あれ? もしかして山田……結構本気で言ってた?
そう言われても不思議は無いほど確かに自分は……強かった、ようだ。
だがそれも今さら分かっては手遅れだ。
実は山田がそう言った後、しばらく新陰流は冷遇して、富田流とか、あと鹿島から招いた神道流の名人とかを優遇していたんだけど……
反省した秀頼は新陰流を再び優遇し、指南役の筆頭とした。
上泉伊勢、疋田文五郎の系譜を継ぐ新陰流は天下の流儀として……
この後、豊臣政権が続く限り繁栄したという。
新陰流にとっては、めでたしめでたし。
武蔵評
「やっぱりこの時代だと新陰流が一番勢いあったのね、なるほど」
おしまい
殿様だからって弱いとは限らない。秀頼のガタイで本気でやったらね……
元和御前試合はまともに書こうとするとキリが無いのでダイジェスト
試合のレギュレーションとして竹刀使用が前提なのです
だから一刀流や示現流が負けてもしょうがないのです
槍も特製の安全性第一の袋竹刀製の穂先石突となっております
いや、うちの流派は木刀で……とか言い出す奴はいませんでしたよ?
なに? 関白豊臣秀頼が定めたルールに文句あるの?
余裕でした。




