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作州浪人  作者: 邑埼栞
25/29

外伝その一 武蔵の嫁取り物語 (上)

感想より

>美作に引っ込んだ後の話がみたい

そういうわけで。上下編です。


 故郷に錦を飾るというのは男の本懐であるし、元は美作の田舎の一介の地侍の息子が、美作全土の領主となって帰るとなれば、これほどに見事に故郷に錦を飾った男など他に類例も少ないだろう。


 宮本村の人々は武蔵が飛び出した後、適当に村内で分割していた昔の新免家の田畑、焦って元に戻して誰も手を付けないようにして、朽ち果てつつあった屋敷もボランティアで必死に直して、新領主の動向を見守った。


 出て行ってくれたと一安心した後も、追っ手を全部返り討ちにしたとか、それでまた小早川家から宮本村に人が派遣されてきて、武蔵の弱みになるような家族がいないか探したり、村中を捜索したり騒ぎは続き、村人は大変迷惑していた。田畑を分け取りにするくらいは妥当な迷惑料だったかもしれないが、しかし相手は美作全土の殿様である。


 それに武蔵の活躍の噂はこんな田舎にまで届いていた。良い噂ばかりでは無い、むしろ最初は天下に轟く悪評であった。数千の浪人を指揮して伏見を焼き払い略奪し、そのまま京の都に乗り込んで同様の振る舞いをしてのけた恐れを知らぬ大悪党であると伝わってきたのだ。


 その噂を聞いたとき村人は、あいつならやりかねないと互いに言い合ったものである。農作業への姿勢は真面目であったが、なんといっても至近の印象、あっという間に十人ほどの武士を皆殺しにしてしまった印象の方が強い。それにやっぱり、あのほぼキ○ガイであった新免さんの息子だし。


 その後、数千の部下を率いて備前に乱入し暴れていると噂が伝わってきた時は村人は大いに焦り、恐れた。数千規模の匪賊の群れなど、しかもあの武蔵が率いているとなると、人口が百少ししかいない田舎の村では対策の立てようもないのである。襲われたらそこで終わりだ。対抗するもクソも無い。


 一年ほど生きた心地もしないほどビクビク脅えて過ごした村人たちだが、隣国広島の大名、福島正則が乗り込んで武蔵を捕らえたらしいと聞いたときは、大喜びして宴会を開いた。薄情な連中であるが、まあ、仕方ない、気持ちは分かる。


 だがその後……再び戦乱の世に戻り、新たな領主、福島家から戦時の課役なども多く押し付けられて……村人たちの暮らしは苦しくなった。村人たちが苦しんでいる一方で、武蔵は順調に出世して、わずか数年で、何千石もの禄を取る侍大将クラスになっているという話を聞いた。それに対して言いたいこともあったが、しかしこうなるともう武蔵は雲の上の世界の住人である。今さら下手に文句を言うのも不味い、福島家に仕える侍大将ともなれば、村人から見て絶対的に上の人。


 せめて戦乱が一時でも早く収まってくれないかと、ため息をつきつつ、宮本村の人々は相次ぐ戦役と、それに伴う課役に耐えていた……



 そして十年ほどの年月が過ぎ去り……


 美作全土の殿様として武蔵が帰ってきたわけだ。


 戦乱は収まり、臨時の課役も無くなった。



 また武蔵は、どうせ田舎の美作、無理に経済発展させようとしても限界がある、だから開墾とかするとしてもゆっくりペースで、余剰人員がいれば豊臣家に話を通して海外交易の方に廻してもらって……美作は美作なりのペースで、田舎の山村の集合として、それなりに安定した状態を保てればそれで良いと、そういう方針を掲げて、無理は一切せずに、美作の人々ものんびりと暮らせるような政治を行った。


 つまり武蔵が殿様になるとほぼ同時に、美作全体がほっと一息ついて、ゆっくりのんびり過ごせるようになったのだ。たちまち武蔵の評判は良くなり、村人たちもさすがは武蔵だ、昔からできる男だと思っていたと手のひら返し。


 主城となる津山城の建築についても急がず。むしろ冬の農閑期の雇用確保のための公共事業の一種として行う。さらに、元々、戦争用の城塞として作る意思など一片たりともなかった武蔵、藩主一家の住むスペースと、美作全体の行政を見るための役所としての設備を主に作らせて……周囲の城下町についても戦時に備えて町割りを、あえて歩きにくく進みにくく分かりにくくとか、他の城下町ではありがちな構造は一切、廃し、ただ住みやすい街としての機能のみ重点を置き、区画して建設した。

 これには、まだ戦国脳が抜けきらない部下たちがガタガタ言ったりしたが、そこは藩の創設者であるワンマン独裁経営者、一睨みで黙らせる。それだけで誰も文句言えなくなるのだが、一応説得もしておく。

「アホか、お前ら。敵が来たらって、その敵はどこから来るんだ? 周囲は豊臣直轄領(周囲は全部そう)と、後は西の毛利だけだぞ? 豊臣家を完全に敵に回して我が家が攻められるようなことがあれば多少堅い城があっても無駄。毛利殿が裏切って攻めてきても同じで、実力が違いすぎる、守るだけ無駄。その場合は迅速に岡山か姫路に行くしか無いだろが。ここで下手に抵抗したって無駄に犠牲が増えるだけなんだよ、分かったか?」

 部下たちも渋々ながら納得してくれたようだ。


 武蔵の都市計画は実に先進的で画期的なものであり、現代に至っても、武蔵が作ったこの都市ほどに上手く出来た街並みは滅多に無いと言われるほどだ。


 田舎の中規模都市程度であるが、それでも津山城下はそれなりに繁栄、なかなか住みやすい街だと当時から評判になった。

 若い者は、一旗上げたいと大坂に出て行ったり、さらにそこから台湾に行ってみたりする時代であったが、それでもそうして若い時期が過ぎると……年を取ったら津山に帰ってゆっくり過ごしたいと、多くの人々が戻ってきて……また、大坂にずっと住んでいた人なんかも、引退後は田舎に隠棲しようと思うとき、だからって完全に田舎ではずっと都会暮らしの人は適応できない、そこそこの都会のうちでは丁度よいと、津山に来る人も結構いたりして。


 今でも別荘地、保養地として美作津山はメジャーである。大坂時代からの伝統がある大きな商家などは大抵、津山に支店を持ち、保養用の寮とか持っている。


 田舎なりに、それなりに。安心して暮らせる美作を目指して、その経営も軌道に乗ってきたある日。


 武蔵は昔から、ここに帰ってきた日から、ずっとやりたかったことを。


 ついに実行に移す。



 宮本村への、帰郷である。





 時代が下れば、大名行列の格式とか五月蠅くなる。


 槍持ち何人、鋏箱持ち何人、足軽何人、徒武者何人、騎乗の士何人、殿様は駕籠に乗って、その周りにまた何人……法律で細かく決められて、それに従った人数を揃えなくてはならなくなり、とても面倒くさい。


 しかし戦乱の世を切り抜けてきた初代藩主の時代は、たいていどこでもそんなに細かいことは気にしない。もちろん美作でも同様だ。


 武蔵は馬回り衆を適当に連れるだけで、身軽に宮本村を目指した。


 もちろん最低限、先触れだけは出している。



 それを聞いて大いに焦る村人たち……



 ちなみに今の宮本村は、藩主の直轄領の一部となっている。



 大名の領国ってのは二十万石とか言っても全部が藩主の私有地とは言えない。

 実際にはその中で、また部下たちに領土を分け与えているし。


 この際、部下に与える石高の割合が高すぎると、藩主の財産が少なくなり過ぎて、それでも藩全体の面倒を見なくてはいけないのは藩主だから相対的に藩主が貧乏になって重臣が力を持ちすぎて……などの面倒が起きる。


 例えば史実の毛利、長州藩などは、中国地方半分以上から、山口県だけに押し込められて藩士の数が多すぎて、それを養うだけで藩主は手一杯、相対的に藩士の力が強くなりすぎ、藩主が弱くなり……幕末に長州藩士が暴走して大暴れしても藩主にはそれを治める力が無くなっていた。


 石田三成が4万石程度貰っていた時代、島左近を召し抱えるために半分の二万石を与えたという話もある、これなんかは美談とも言われるが、藩の経営的には褒められた話ではない。戦乱の世であったから有能な実戦指揮官である島左近をそうやって召し抱える意味もあったのだろうが、平和な世だと……


 幸い、美作藩は、武蔵が一代でほとんど独力で興したような藩だ。だからその辺のバランスはシビアに計算している。少なくとも三分の二程度、具体的には13万石以上は直轄とせよ、それ以上に藩士が増えるようなら容赦なくリストラしろと子孫に遺言した記録が残っている。これは家臣と藩主の禄高バランスとしては相当、藩主側が強い状態で、大抵の家では半々くらいになっている。


 悪い例はこの世界における伊達家。領土は広いが家臣も多い、家臣団に三分の二近くの領地を食われている。だから藩主の指導力もいまいちになってしまい、思い切った政策が取れず、ズルズルと赤字経営に……名目百万石を超えるけど実質三十万石以下とか、後代、言われてしまう。



 その辺も実は計算高い武蔵の美作は、この状態を維持し安定経営で続く。


 さてその直轄領の一部、山奥の宮本村……



 何の変哲もない、どこにでもある田舎の村である。


 山がちの地形、その中の小さな盆地、田んぼにできる土地も少なく。


 畑で麦とか蕎麦とか作って、そっちを主に食べていた。


 米なんて食うのはハレの日くらいだったなあ……


 それでも、たまにでもコメが食えたのは武蔵の家が地侍だったからで。


 他の家は米なんて全然食えず、全部年貢になってたなあ……


 うちで取れた米は、かなりの部分をアホ親父が酒にしちまって……そんなことだけ器用にやってのけるんだから本当にタチの悪いオヤジだった、死ねばいいのに。でも黒田家包囲網以降、親父の話は聞かないから本気で死んでるかもな……


 感慨にふける武蔵の所に、村長とか、隣のおっちゃんとかが挨拶に来る。


 狭い村だ、この二人に限らず全員、顔見知りだった。


 懐かしい顔がそこかしこに見える。



 しかし村人たちは、はいつくばって土下座体勢が基本である。


 無理に立てよとか言っても困るだけだ、分かってる。


 そこは仕方ない、それにそれでも……



 この何の変哲もない村の風景こそが何よりも懐かしい。



 とりあえず旧新免家の建物に入る。


 こんなに小さかったか、こんなにボロかったか。


 久しぶりに見ると色々と違って見える。



 そういえばあれから親父は結局帰ってないのか?と尋ねてみると。


 はい、全く見ません。来たらお知らせしようと思っていたのですが……と。


 ふうむ、あの親父、一時は豊臣家の敵になってたからな。直轄領に近い美作とか近づくのを怖がっているのかも知れん。それに帰っても故郷の人々に親切に迎えられるとか、いくらあのクソ親父でも思ってないだろうし……ほぼ村八分に近い孤立っぷりだったからな……一時、大膨張して、その後の敗戦で大量に出た旧黒田浪人だが、別に追捕とかはしていない。まず、その後の近江彦根攻略戦とか、第二次小牧長久手の戦いとかで危険なとこ選んでぶち込んで数をすり減らした後で、それでも生き残った優秀なやつは各家で適当に召し抱えたり、それでも余ったやつは台湾に飛ばしたりして処理は済んでいる。

 親父も今頃は台湾に送られているのかね……あの性格だと、仮に生き残ってても他の家に召し抱えられてるとは思えないし……


 まあ、親父のことはいいか。


 とりあえず……そうだな、隣のおっちゃん、お通ちゃんはどうなった?


 ほほう、村長の家に嫁に行ったか。


 既に、女の子一人、男の子二人生んでるって? 一姫二太郎か。めでたいな。


 申し訳ありませんって、いや、今更いいって、別に謝らなくても。


 どう考えても俺が生きて戻ってくるとは考えられない情勢だったしな。


 ま、しゃーねえ。もともと曖昧な口約束程度だったし。



 それよりも、うん、ちょっと俺、そのへん散歩してくるから。


 一人で。


 危険? 何がだよ、大丈夫だから、ついてくんなって。



 いいから待ってろ!



 家臣としては殿を一人にするとか出来ないのだが。


 しかしワンマン経営者武蔵には誰も逆らえないのであった。


 それに殿がアホみたいに強いのは事実だし……


 それでも帰ったら、家老の北川様に怒られるだろうけど……




 別に深い考えもなく、久しぶりの故郷。


 一人でフラついてみたかっただけだった。


 家臣が泣いてる? いつものことだ、気にすんな!





wikiも書いてみたが内容多くて編集整理中……


この時空の「そのとき歴史は~」のキャスターは松平さんじゃなくて、羽柴さんにするべきだろうかとか悩んだり。


また明日ノシ

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