第二十三話 それからの歴史
大坂城にはこの当時、天守閣が二つある。
つまり同じ高さ、同じ豪華さの規模の建物が二つあるんだ。
なんでかって、家康が昔乗り込んできて、西の丸をそう改造してね。
そこに居座って天下に号令していたわけだが。
今ではそこが筆頭大老、福島内府の御座所となっている。
そして今日も今日とて筆頭大老と筆頭奉行の話し合いが……
「実際問題、福島、毛利、島津だけでも尾張は落とせる。前田も加わるなら余裕だ
ろう。だが問題は関東だ。関東まで軍を派遣するだけで一苦労となるし……徳川の
精鋭が待ち構えているところに乗り込んで戦うとなると最初からこちらが不利。ど
うするべきか。」
「現実的に、まあ、壊滅させるのは不可能でしょうから……やはり最後は和睦狙い
で交渉を持ち掛けましょう。領土を削減し生き残りを認める、黒田相手と同じ手で
いきましょう。」
「徳川を滅ぼすのが目的と言ってなかったか?」
「いや、確かに前はそう思ってたんですが……近頃、大坂の街を回ってみると、み
んな……西日本では戦争が終わった、一段落したと、大喜びしていまして、表情が
明るい……やはり本当のところは誰もが戦争には飽きている……」
「当然だな。俺も朝鮮以来の連戦、さすがに疲れが来とるわい。」
忙しい俺だが、たまに休みもある。休みの日に、前に世話になった廻船問屋に顔を出してみた。突然の筆頭奉行の来襲に大混乱しビビりまくる店主。ほら俺だよ、俺、昔、世話になった宮本武蔵!って言ったら思い出してくれたが、それでもまだビビる、まあ当然だろうが。
近頃景気はどうよーとか適当に話題を振ると、はい! 福島内大臣さまのお力で景気は良くなるばかりです、悪いことなんて一つもないです! とかベラベラとお世辞を並べだすのだが……その前に一瞬だけ表情が固まったの見えたぞ。
正直に言えと脅しつけると、いろいろと言い訳をしながらも話してくれた。
今でこそ少し立ち直ったが……一時は商売の規模が半分以下になって、自分の店はギリギリなんとか耐えたが、潰れた同業者も結構多かった。山崎合戦の頃、福島毛利連合軍が上方に乗り込んできたあたりが最悪で、どこに攻め込むつもりか分からなかったし大坂から多くの人が田舎に疎開したりして商売にならず……一時期の景気の冷え込みはひどかった。
今は少し持ち直しているが、しかし、前ほどではない。つまり関が原が終わって徳川中心の秩序がこれから作られるのだと、皆が認識していたあの頃に比べて現状は、正直言って、まだ悪い、庶民にとっては生き辛い状態だと……
薄々わかってはいたが、なるほど、まだそういう状態か……
これを聞いたとき、俺の中で少し、考え方が変わった。
長く続いた戦乱を終わらせる、平和にするってのは……
何よりも第一に優先されるべき命題では無いか?
だから……
「最初に一戦、二戦程度は必要かもしれませんが、最終的には……徳川には武蔵、相模、駿河あたり、南関東一帯だけを領土として認めて……北関東は上杉に与え、また関東の東部、常陸あたりには佐竹を復帰させます。佐竹にとっては地元ですので勢力を復活させるのは早いでしょう。関東内部は、上杉、佐竹、徳川の三つ巴状態になるように調整してどこかが飛びぬけるのを防ぐ……」
「ふむ、そのへんが落としどころか、東北はどうする?」
「伊達が会津を欲しがってますね、父祖代々の土地が付随してますから当然ですが
。ここは景気よく上げておきましょう。」
「そうなると伊達が大きくなりすぎるぞ……」
「そうして情勢が落ち着き、一定、平和な時代になりますと……内陸部はほとんど
経済発展できません。せいぜいコメの取れ高を頑張って増やせる程度で。貿易がで
きる沿海部だけが一方的に大発展します。会津は広いが完全に内陸、実はそれほど
旨味のある土地では無いのです。東北のうちだし農業も実は結構大変、冷害に襲わ
れることも多いだろうし……伊達は無闇に広がってしまった領土の維持だけで精一
杯、逆に何もできなくなるでしょう。」
「よくわからんが、まあ、お前がそうなると言うなら試してみるが……」
「問題は中央政権を強固にすることですね。いつでも日本どこにでも派遣できるだ
けの強力な中央軍が存在すると、皆に知らしめなくては。そこで……」
「そこで?」
「殿、ここは正式に豊臣正則になりましょう。完全に豊臣家と一体化するのです。
そうなると我らが間違いなく日本一の大勢力となります。その力でまずは粗々にで
も日本を統一して各地の諸侯を大坂に挨拶に来させます。そして平和な時代を維持
する……百年、維持できれば、大坂、京都、山陽道から肥前平戸の貿易ルートを擁
する我が豊臣家の財力は圧倒的に第一位となります。東北のやせた土地しか持たな
い伊達など論外、上杉も徳川も佐竹もまた他の家も豊臣の経済力の前に屈すること
でしょう。」
「一体化といっても名目は……」
「殿は一応、遠くても太閤殿下の血縁だったと伺ってますが。」
「一応、そうだがな……」
「北政所様に援護していただいて、正式に豊臣の氏を頂き、そして娘御の一人を秀
頼様の正室に、時間をかけて血縁的にも完全に一体化しましょう。」
「ふむ……」
「戦争を巻き起こした俺が言うのも何ですが……やはり天下の民は疲れている、戦
争はもう嫌だという空気のほうが強い、平和を求める人々の意思に従わねば……恐
らくその空気を読まないと、政権は維持できないでしょう……ですから無理にでも
とりあえず平和にする、平和の中で豊臣家が実力を蓄えられるような制度を作る…
…我々にできるのはおそらくそこまでで、そのあとのことは……後の世代に任せま
しょう。」
「ははは! 正に、お前が言うな! というやつだな! 一度平和になりかかって
いた世をもう一度戦乱に戻したお前にだけは、日本中の誰も、言われたくないこと
だろう!」
「全くですな、はっはっは!」
主従の笑い声が大坂の夜に高く長く響き渡った。
その後の歴史の流れを語ろう。
福島正則は、武蔵の提言を聞き、支配下にある諸大名に尾張侵攻作戦への参加を命ずる。これを最後の戦にするつもりであった。
九州より島津、加藤、黒田、細川、鍋島、その他。
中国地方の毛利、福島。四国の諸侯も全員。
加賀前田、本気を出して大動員。
豊臣家の親衛隊を真田昌幸、明石全登が率いて出る。
全軍あわせると二十万にもなるという大規模動員であった。
なお上杉は別行動、越後から北関東に乱入する予定。
彦根井伊の残存勢力は、前田家の大軍の前に鎧袖一触。
井伊家は一兵に至るまで逃げずに戦い、井伊直政の息子二人、家族全員、重臣とその家族全員に至るまで全滅。ここに名門井伊家は完全に壊滅した。
美濃、岐阜周辺の諸侯は雪崩を打って福島内大臣の元に挨拶に来る。
それへの対応もそこそこに尾張に乗り込む西軍。
徳川も覚悟を決めて今の支配地全部から十万を超える大軍を動員。
尾張と三河の境目あたり……小牧・長久手周辺で両軍は接触。
第二次、小牧長久手の戦いである。
太閤秀吉の戦歴で唯一、土がついたこの戦い。
その土を拭い、新たな歴史を刻む男は。
福島正則以外にいない!!
だが覚悟を決めて必死に粘る徳川、その固い守りをなかなか抜けない。
後背に廻って、奇襲しましょうと言い出したのは……
命知らずの狂犬、宮本武蔵!
馬鹿な、前はそれで負けたんだぞ、迂回奇襲失敗で……渋る正則。
知ってますよ。だから、また、やるんです。
まさかまたやるとは向こうも考えてないし。
それに。
そこまでやってそれでも勝って、それでやっと完璧になる。
太閤秀吉を……殿、あなたは本当に超えられる。
あなたにその運があるかどうか。最後の機会です。
試してみましょうよ?
ふん、バカめが!
正則は武蔵の提案を受け入れた。
武蔵の指揮する、千足らずの部隊が夜闇に紛れて……
徳川軍の後背に廻る!
細かい作戦などは、ない。
後ろに廻れたら、あとは突っ込むだけだ。
そして粘る、敵は混乱する。
それを見て、殿が全軍率いて突っ込んでくる。
さあ、それまで生き延びるぞ! 続け!!
十万の大軍相手に。夜の闇の中、後ろからとは言え……
表情も変えずに先頭に立って突っ込む武蔵は
正に、鬼神としか言いようがなかったと。
数少ない生き残りの面々は語った。
その恐るべき個人武勇、本人がいうには天下一、無敵であると。
その宣伝文句も嘘ではないと誰もが納得する戦いぶりに。
徳川軍は、まさか敵が千足らずもいないとは到底思えずに。
いつのまにこんな大軍に後ろに廻られた? 気づかなかった!
と思い込み、大混乱し、その隙に正面から西軍が……
勝敗はその晩ではっきりして……
徳川軍はボロボロになって敗走した。
奇襲部隊、千のうち、生き残った者は、わずかに百。
しかし宮本武蔵は、多少疲れたというだけで、傷一つなかったという。
福島正則、日の丸の扇子を振り翳して、大声で褒める。
あっぱれ、武蔵よ、確かにお前は天下一の剣豪だ!
武蔵、にやりと笑い。
最初にそう言ったでしょ?
と一言だけ。
可愛げの無いやつめ! がっはっは……
上機嫌な福島正則の笑い声が、早朝の長久手の平野に響き渡った。
主力決戦に完全に敗れて、関東まで敗走した徳川。
このまま追うのかと思いきや、福島正則は三河あたりで軍を返す。
なぜか? と皆が疑問に思ったのだが……
あとは交渉で片づける。ま、できるだろ、と。
軽く言う正則には、既に天下人の風格があったと皆は語った。
大坂に帰った後、まずは各地に伝達、命令。
領土の削減と降伏を一方的に命令された徳川家。
新たな秩序を認めるなら大坂に挨拶に来いと、東国の目ぼしい大名に向かって行われた宣告。
いずれも、なんだかんだありつつも、受け入れられた。
まず東北地方は伊達以外の他のメンツは速攻で来た。先を争って必死に全速力でやってきて頭を下げた。彼らも長年の戦国時代に疲れていて、これで戦争が終わるならばと、それ以外に望みとて無かったのだ。
中山道沿いの諸侯も同じくらいの時期に。
そして徳川も情勢の非を受け入れて諦め……上杉に話を通して、上杉に先導される形で大坂に、徳川秀忠自身がやってきた。
上杉景勝と徳川秀忠が連れ立って大坂に向かったという話を聞いた伊達政宗、ええい! 諦めの早い! 徳川、まだ粘れるだろ! 大御所なら粘ったはず……くそっ秀忠の若僧め! とか愚痴を言いながらも、滅茶苦茶に焦って急いで大坂に向かい、ギリギリセーフ、なんとか同時くらいに大坂について、結局この三人が並んで大坂城に伺候することに。
上杉は越後全域と北関東、群馬全域、栃木の一部、埼玉の一部の領有を認められる、ただし佐渡については豊臣直轄領とする。
徳川は神奈川、東京、静岡と……温情で三河も領土とすることが認められた。秀忠は父祖以来の地の領有が認められたことに感激し思わず涙したという。
伊達は会津の領有が認められたが、代わりに上杉の旧領であり今はほとんど伊達が支配していた米沢については取り上げられた。親戚筋の最上が米沢を領有することになり、伊達政宗も渋々これを受け入れる。態度でかいやつであった。
先に挨拶に来ていた佐竹に関東への復帰が命令され、佐竹は張り切って、まだ馴染まない新領の秋田から、常陸の故郷に帰って行った。その後の秋田なのだが……ボロボロになりながらも何とか生き残っていた池田家の方々、池田輝政も一時は三河まで逃げながらも何とか生きていたので……秋田の統治を任せられることになる。いや、別に恨みも無かったのに池田相手には酷いことしたなあって……内心では思ってたとかそんなことはないよ、うん。今さら池田がこっちに好意的になるってことはもうありえん状態ではあったが東北秋田では発展にも限界があるし……と武蔵が提案したらしい。池田家は中央政界とかもう懲り懲りだと、秋田に行った後は大人しく土着して、歴代名君が続き良い政治をして……現代でも秋田の殿様といえば池田様と、大変に慕われるくらいの状態である。
あ、そうそう。あんまり大した話じゃないけど、長曾我部に滅ぼされた山内家の人、山内一豊の弟の子供が大坂に逃げて潜伏していたのが名乗り出てきたので、まあ山内も豊臣譜代には間違いないし? 紀州の一部で十万石くらい与えて四国を監視しろって命じておくことにした。長曾我部に恨み骨髄であるから、その役目は完璧に果たしてくれることだろう。
日本全土の諸侯が大坂に挨拶に来て、上段に座る秀頼と。
その横、やや下座の位置に座る正則に、頭を下げた。
結構あっさり片付いたのは……つまり、間に合ったってことだ。
まだ太閤秀吉による天下統一の記憶は薄れていない。
各地の主要人物は皆、一度はそうなったということを覚えていて。
世代が入れ替わって、手遅れの乱世になる前に……間に合った。
別に俺のせいじゃないけど、ちょっとだけ、ほっとしたわ、とかなんとか。
ヒャッハー野郎が無責任な独り言を言っていたのは。
誰も聞いていなかった。いや、主にお前のせいだったろ!
豊臣秀吉の創設した豊臣家は、名義としてはその後も武家の棟梁であり続けた。
豊臣(福島)正則以降の流れを言うと……
まず豊臣正則の執政時代である。40代半ばで筆頭大老になって以降は事実上、彼の独裁体制が続く。その期間はおよそ17年。六十過ぎて、秀頼公も一人前になったと、そこでスパっと引退する。見事な引き際は、後世の模範と言われている。この頃には既に同世代の大名たちも皆、亡くなっており、引退後は姫路に帰って静かに暮らしたという。たまに武蔵を呼んで、一緒に飲むくらいが楽しみであった。没年は63歳。実は史実と同じ。死後、豊国大明神本社に、秀吉と並んで祀られる。葬式には全国の大名が集まった。
北政所の薫陶を受けて立派に育った豊臣秀頼は、優れた為政者として天下をまとめ直した。小さな乱などが起こっても慌てず騒がず。冷静に対処して豊臣の天下を安定させた。秀頼の優れた治世があったから、豊臣支配体制は安定し、300年の平和が成り立ったのだと言われる。つまり江戸幕府体制でいう、優れた政治力を持つ二代目、秀忠のような役割をこなしたわけだな。一般に秀頼時代を豊臣の黄金期と呼ぶことが多い。秀吉、正則の時代のような大規模な戦は、秀頼の40年にも及ぶ長い治世の間、国内では一度も起こらなかった。
没後、秀吉、正則と並んで、豊国大明神に祀られる。
歴代、本家(秀頼系)と分家(正則系)は婚姻を結んでいたから、ほとんど一体
化していたとは言え、「大坂時代」中程には逆転して、分家系が関白になる事態も
発生した。指導力が危ぶまれる分家出身の豊臣家当主を支えたのが、当時の徳川家当主、徳川忠正であったことは歴史の皮肉というべきだろうか。彼の助けもあって豊臣家は持ち直し、なんとか、維新まで続いていく……
各地に大諸侯が複数並立し、中央政権の力が疑問視される向きもある政権であっ
たが。
しかし「徳川の乱」の終結後、30年程経っただけで、状況は大いに変わった。
平和な時代になり実質失業状態の武士たち。
その武士たちを多く抱えた各地の大名家はそれを養うのに大苦労。
素朴な農本主義経済を営んでいた大名たちでは、平和な時代の物価の上昇につい
ていけず内実は火の車となる。史実の徳川幕府時代でも起こった現象だ。
それを見越していた豊臣家は、最初から家の収入の主な部分を貿易に頼る、貿易
立国の制度を作っていた。余剰人員はガンガン対外貿易に注ぎ込む。この時代の航
海は命懸けであり実際、本気でやるとなると人間いくらいても足りないくらいなの
である。この制度の成立を強硬に推し進めたのが宮本武蔵である。これによって彼は先を見通す能力を持った真の賢者であったと、後世、大いに称賛される。
沖縄は島津にやったが、台湾に大量に人口を送り込み、そこに大規模な日本人町
を建設、拠点とした。後から大陸から鄭成功がやってきて揉め事も起きたりしたが
まあ何とかなった。台湾の西部を鄭成功が、東部を豊臣家が取る状態。さらにその
後で、清が鄭成功討伐に軍を送り込んできたが……半分がた日本がとっているとい
う状況をそこで初めて知る清軍。未だに亡明を擁する鄭氏は不倶戴天の敵であるが
日本は別に敵ではない。日本と戦争したのは前王朝の明だし。
清と日本の間には講和が成立し、鄭氏政権を挟み撃ちにして倒す両軍。なーにこ
の時点で既に鄭成功は病死してたからね。鄭成功本人なら日本人ハーフだったし流
暢な日本語を喋って日本の武士的教養も持ってて見捨てるのはアレだったんだけど
その息子の代になってたから気にしなーい。
その後の交渉で日本は今、領有してる台湾の自治領を認められる。ただし朝貢に
来て上下関係ははっきりさせろ、あと台湾西部は清が取るからな、と言われたのだ
が。これに対しては日本国内でも揉めた。正式に朝貢関係に入って大陸の皇帝に頭
を下げるとか日本人としては受け入れがたい、国内事情でそこは不可能。しかし台
湾は遠すぎる、大陸からの方が近いのだ、清が次から次に軍を送って来たら耐え切
れないわけで。
そこで当時の豊臣政権では、まず台湾を独立国とした。実質的には半分日本にな
ってるのだが、そこを敢えて。そして台湾って国が勝手に清に朝貢する分には仕方
ねえと、そうやって逃げた。
なおその後、清は台湾のことなど忘れたように、ほとんど構わなくなる。もとも
と陸には強いが海には弱い、騎馬民族出身の王朝であるから自然にそうなる。清か
らは最初のうちは権限の強い台湾総督とか送られていたのだが、時代が下るにつれ
て送られる官僚の格がどんどん下がり放置同然となる。
そして日本側からは余剰人員が新天地を求めてガンガン台湾に来る。本来の領土
は東部だけなのだが溢れて西部にも流れ込む、台湾全体の共通語がほとんど日本語
になる、中国語人口の方が少なくなる……
紆余曲折はあったが最終的には、台湾は独立国として現代に至る。主要な言語は
日本語である。つまり日本語を話し日本の文化を持つが、日本ではない別の国とし
て安定したのだ。ちなみに民主主義を取り入れ議会政治を始めたのは日本よりも早
く先進的であった。しかし位置的に中国に近すぎて大変なのは現代でも変わらない
し、日本や米国と同盟しつつ独立維持には気を使ってるようだ。
話を戻す、とにかく豊臣家は貿易立国を目指し成功したわけだ。
他の家もそれを真似て、そこそこ貿易で利益を得ていたが……
本気で商売するとなれば資本の多寡がモノをいう。
当時世界最高の金持ちだったと言われる豊臣家とでは勝負にならず。
貿易を盛んにしたからこそ、最初から金持ちの豊臣家の圧倒的独り勝ち。
もちろん全国の金山銀山銅山は直轄領として独占してたし。
これも武蔵の進言であった。諸侯には、多少領土を広めにやってもよい、それで満足させとけ、それより重要なのは肝心な地点を抑えることだ、と。秀吉のもっていたビジョンを、武蔵は完全に理解しており、その理想通りに実現してみせた。史実の徳川流ではない、失敗した豊臣流の天下統治。それに成功したのだ。
東国は論外、西国の島津、毛利、加藤、福島も相次ぐ戦乱に内実はボロボロ。大
量の金銀を抱え込み、内部に余裕があったのは豊臣、大坂城のみ。そしてその大坂
を乗っ取った福島→豊臣が、戦後の復興と、その後の発展で、圧倒的な第一人者と
なったのだ。
伊達なんざ無駄に広がった奥州の領土、定期的に襲ってくる冷害に大凶作で、あ
っという間に赤字経営の貧乏藩に成り下がっている。
膨大な数の家臣に、産業は農業だけ、その農業もたまにダメになるときては、ど
うにもなるわけなかったのである。
ちなみに上杉は大老になれたが、伊達はどんなに頑張って政治工作しても結局な
れなかった。藩が借金だらけでそれどころじゃないだろと言われたため。
これは、実は古来より結構発展していた新潟港(上杉領)と、今から何とか発展
させようと建設中だった仙台港(伊達領)に大きな差があったことも原因だと言わ
れている。
時代が下ると、北海道の海産物を俵物として梱包したものが日本の輸出品目の主
要産物となるが、これを運ぶ北回り航路も、北海道→新潟→平戸と日本海まわりで
行くほうが有利で、わざわざ太平洋岸の伊達領に回る意味も無かったし。
「大坂時代」中期に、毛利、島津、前田、上杉に……国力回復して東国で随一の
力を持つに至った徳川が大老に加わり、この五大老体制が明治まで続く。
福島はもう豊臣と一体化してるから別扱いね。
大老に加わった時期の徳川の当主は、徳川忠正。これは当主になったとき改名し
た名前で、その出生は……徳川秀忠が一回だけ浮気した時に生まれた子供で、元の
名前は保科正之。史実での名宰相が……この時空では当主にまでなっていた。そ
の見事な政治手腕で国力を回復し、大老にまでなったのだ。徳川家当主としては家康、秀忠、家光、家綱についで五代目である。甥の後を叔父が継ぐという変則的な形であったが人望実力、並びない人物であったのでそうなった。
なお徳川領の駿河・遠江・相模・武州・三河のうち、首府となったのは相模東部に新たに作られた都市、元となった現地の村の名前から「横浜」と名付けられたこの都市が後に、東国一の大都市として成長する。
……いやね、江戸を首府にしろよって、ほぼ秀吉の嫌がらせだったから。まとも
な水が無い、半分がた沼沢地、都市にするには大規模な埋め立て工事と上水道の建
設が必要とか、労力高すぎたから。政治的理由でそうする必要が無くなったら、そ
のまま誰も手を加えなかったら……ただの沼沢地として扱われておしまい。一応、ある程度の基礎工事は既にやってあったんだけど、その後は手を加えず放っておいたらやっぱり元は沼沢地、大雨降るごとに大水に洗われて、あっさり自然に戻ってしまったようだ。
関東南部の徳川領と、東部の佐竹領の緩衝地帯としてそのままの状態で残る。
なお佐竹は茨城・千葉が領土だったので、同様に東京湾沿いに都市を建設、後の
千葉市となり、対岸の横浜と繁栄を競うことになる。
近代になって西欧列強が押し寄せてきた時もそれにあっさり対応。
昔から貿易で付き合いがあったので。オランダだけじゃなくて他国とも。
さすがに封建制は限界が来ていたので、下層武士階級から新たな政治制度を求める動きが全国的に起こり……流血騒ぎまでは行かなかったが「血の流れない革命」と言われた明治維新が起こることまでは止められなかった。
その後は政治制度は近代的に変わったが、上部構造。
天皇家、その下の関白豊臣家という構造は変わらないまま現代に至る。
首都は名目上京都、実質的に大坂という状態のまま今に至る。
ただ各地に大諸侯がいた関係で、そこがそれぞれ「道」という行政単位になり、
明治の廃藩置県でそのまますぐに「道州制」に移行したのが史実との違い。
現代まで至れば、細かい違いはあって、大きなところは変わっていない。
つまり近代の戦争にも適当に参戦して最初は調子よく勝ったりしたものの。
最終的には負けて、でも立ち直って現代日本の繁栄があるという。
その流れ、そのまま。
一人の異物が歴史に入り込んだ程度では、大きな流れは変わらないのだろう。
ノブヤボでもそうだけど、半分とったらもう詰みですよね
感想でご指摘も頂きましたが天下再統一の過程は「武蔵」が主人公の話にはなりません。せいぜい参謀か、一介の前線指揮官、それほど大きなことができるわけでは無いのです。実際、京都から飛び出して以降は武蔵以外の登場人物の比重が大きくなるばかりですし。
そういうわけで駆け足気味ですが……
次回最終回「それからの武蔵」 堂々完結! では明日ノシ