表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
作州浪人  作者: 邑埼栞
15/29

第十五話 且元さんの胃をいじめるな!


 朝廷からの使者は、江戸、大坂に向けて同時に出された。


 そしたら当然、先に大坂につく。




 さて大坂といえば。


 大坂夏の陣、冬の陣の頃は、淀殿筆頭に女衆がギャーギャーうるさくて軍隊の指

揮にまで口を出して上手く行くものも上手く行かず、グズグズと何もできないまま

滅びてしまったみたいな印象がある。


 その頃に城中で実権を握っていた男は、大野治長おおのはるなが


 淀殿の乳母である、大蔵卿局の子供だったという縁だけで重用されていた。


 発言力だけは一番高かったのだが特にこれといって能があったわけでもなく。


 なにがしか有効な策とか一切出せず、そのまま豊臣は廃滅する。



 つまりまあ身内のコネで出世しただけの人と言える。悪いけど。



 しかしそんな彼が大坂城内で実権を握るには握るだけのわけがあった。



 つまり関ヶ原から大体、15~6年で、大坂の陣となるのだが。


 この間に、目端の効く人間は、とっとと大坂を見限って出て行った。


 まともなやつはほとんど残らなかった。



 そらそうだろう。


 このまま大坂城に勤めていたら将来の命も危ないとなれば。


 普通の人なら出て行くものである。


 江戸の方は拡大成長の真っ最中で凄い好景気だっていうし。


 誰だって出て行く、俺だって出来るもんならそうするわ。



 大野治長は、いざと言うときにほとんど役に立たない男であったけど。


 平常時も実は大して役に立たなかった男であったけど。


 でも身内であり、忠誠心だけは確かにあった。


 大坂落城に殉じて死んだ豊臣家臣は、実はかなり少ないのだが。


 彼はその数少ない、豊臣の滅亡に殉死した家臣である。


 やはり忠誠心だけは間違いない、彼は裏切らなかった。



 でもま言っては悪いが、それだけしか無かったんだろけどね。



 しかし淀殿は女のカンで、こいつは絶対裏切らないと分かっていたので。


 少しずつ、大野治長を重用して行き。


 最終的には事実上の豊臣家の家宰にまで取り立てる。



 ただし、それも、まだ先の話。


 今の時点ではそこまで煮詰まっていない。



 関ヶ原と大坂の陣の間の、15年の平和の時代。


 その時代に少しずつ、大野は実権を握っていくのだが。


 まだである。まだそこまで実権持って無い。




 今の時代なら、正式の豊臣家の筆頭家老。


 片桐且元かたぎりかつもとが実権を握っている。



 片桐且元。


 戦国時代で一番気の毒な人は誰だったかコンテストで。


 常に上位入賞、最も気の毒な人の一人として有名である。



 豊臣家は、秀吉の出世と共に規模が凄い勢いで拡大していった家である。


 最終的には天下そのものの規模にまで拡大する。


 その豊臣家中で、秀吉に認められた家臣たちもどんどん出世していった。



 一番出世した第一グループは、加藤清正、福島正則、石田三成など。


 肥後とか、尾張とか与えられて一国一城の主にまで本当になった連中。


 または三成のように領国の規模自体は一国に及ばないが、それに準ずるほどの領

土を与えられており、政権中枢に座って事実上日本全土の政治実務を担っていた連

中。



 そういった花形には及ばないがそこそこ出世した、第二グループも当然いる。


 大体、十万石以下で、しかも地方の田舎が領土。


 三成など五奉行なら領土が小さくても近畿周辺で政権実務を担うわけだが。


 第二グループはそんなことしない。ただの地方の中小領主で、それだけである。



 この地味な第二グループには、山内一豊、田中吉政、中村一氏などがいる。


 地味だけど、でも、そこまで成り上がるのも大したもんだぜ。


 千人に一人、いや万人に一人も、そこまで来れないんだ。



 第一グループの花形の方が、ありえねー出世してるだけなんだ。




 さらにその下に、第三グループがいる。


 せっかく秀吉に仕えていたのに大名にまでは、なれなかった連中だ。


 いやいや、その方が普通だって。こういうやつらが一番多数だって。



 それでもタダの一介の下級武士から始めて。


 最終的にウン千石程度まで出世したというのはだな。


 年収ランキングで全国の上位5%以上に入るくらい凄い。



 現代で言えば年収、億には届かないにしても。


 年収数千万とか、そのくらい凄い。



 片桐且元は、秀吉時代は、六千石。


 秀頼時代になって、二万四千石まで出世。


 つまり出世レースでは、第三グループ上位から第二グループ下位程度の位置。



 人柄も第二グループぽい人であった。


 つまり地味な中堅である。


 有名な七本槍の一人でもあるから武勇はある。


 が、この時代の武将としては普通くらい。


 一挙に高禄を与えられるほどの器量とかは無かった。


 少しずつ功績を稼ぎ、少しずつ領土を増やしてもらって。


 そしてそれでも二万四千石くらいが限界と。


 まあそういう人だった。



 しかし、もともと浅井家に仕える下級武士だったから。


 そこから彼一代で大名にまで成り上がったわけで。


 こういう例は、戦国時代であっても例外的大成功である。



 そういう夢見て戦場に出るやつは、まず半分が死に。


 残り半分もうだつが上がらないまま終わり。


 百人に一人が出世できて。


 千人に一人が千石取り以上とかになって。


 万人に一人がそれ以上。


 大名とかにまで成りあがれるのは例外中の例外である。


 戦国時代でも、だ。





 さて地味な中堅、武勇のみならず全ての能力はそこそこ程度。


 穏健な常識人である豊臣家家老、片桐且元のもとに。


 彼としては余り聞きたくなかった種類の情報が入ってきたわけだ。




 関ヶ原残党の浪人が集団で伏見を襲い、そのまま京にまで雪崩れ込み。


 京都所司代の首を取り、二条城を占拠した、と。



 ただでも苦労の多い且元の胃はキリキリと痛んだ。



 主な構成員は宇喜田の残党。


 首魁は、関ヶ原で松平忠吉の首を討って名を挙げた、作州浪人、宮本武蔵。


 人数は全部で少なくとも千以上。


 しかし勝ち戦に意気を揚げており、今後どう転ぶか分からない。


 二条城占拠だけは止めさせたいので。



 なんとかしろ、と。


 朝廷からの要請。



「い、一千程度なら、京都に駐在していた徳川の手勢で何とかなったはず……」


 独り言をいいながら続きの詳細を読む。



「所司代の板倉殿が突出? 与力がついてこなかった?! さらに与力は、そのま

ま京都を放棄して撤退!?? どうなってるんだ!!!」



 叫んでも空しい。答えは分からないのだ。



 豊臣家は関ヶ原後、大坂中心に六十五万石程度の大名にまで落ちている。


 しかし六十五万石、天下と比べれば小さいが、十分、大大名である。


 日本全国で見ても上から数えたほうが早い大大名。


 これより上は、徳川以外には、前田か、伊達くらいしかいない。



 腐っても鯛、豊臣家には、今すぐに万くらいの軍勢を出す実力がある。


 これから十数年後の大坂の陣の頃には、ボロボロに形骸化した、親衛隊なども。


 今の時点だとまだ、まともなやつも結構残っていて、十分、実戦に耐える。



 指揮官としても、地味だけど堅実、経験は確かに百戦錬磨の且元自身の他にも。


 親衛隊、七手組の各将もいるので、すぐにでも手勢は出せる、出せるが。



「っく……! しかし豊臣として京都に兵を出してしまえば……!」




 且元は地味で普通で真面目な人だったので。


 当然、秀吉に恩義を感じている。


 そういう感情を裏切れない人でもあった。


 

 且元の目的は、穏健な豊臣家の無害化、無害化による存続である。


 秀吉の恩義に応えるためにはそれしかないと確信している。



 経済の中心、大坂に、六十五万石もの領土を持って君臨してるから問題なのだ。


 領土はガクンと削る、もしくは形だけにする。


 地方に移り、ごく小さい領土だけ貰う形にするか。


 もしくは完全に公家化してしまうか。


 いずれにしても実力を持たない状態になることで、名だけは残してもらう。


 どう考えてもそれが現実的な落としどころ。


 豊臣の家名を残すための唯一の方法である。




 たとえば関東の覇者だった北条家。


 今は名前だけ残した状態で、一万石程度で、それでもまだ残してもらっている。


 今川義元の今川家も、同じ状態で、江戸時代通じてずっと存続する。


 足利幕府の時代、三河の正式な守護大名だった吉良家。


 徳川が、まだ松平の時代に既に実権を奪われたにも関わらず、形だけはずーっと

残存しており、赤穂浪士で有名な吉良上野介などが江戸時代に活躍している。



 織田信長の織田家も、一応、豊臣政権下でも、十万石程度の小大名として存続。


 関ヶ原で失敗して潰れたのは別に秀吉のせいではなく、その時の当主のミス。



 いずれにしても形だけの状態になれば存続が許される可能性は高いのである。


 実例はこれだけではなく他にもたくさんある。



 且元は真面目に豊臣家の存続を考えていたから。


 だったらそうするしか無いのである。



 だから少しずつ豊臣家の存在感を消して行きたい。


 実力も削って行きたい。


 そうすることが豊臣家存続の唯一の方法であり。


 太閤殿下のご恩に報ずる手段であると。



 且元は本気でそう思っている。



 だから。


 ここで京都に豊臣が出兵し、治安を回復し。


 豊臣家はまだまだ健在であると存在感を示すようなことは。


 正直絶対やりたくない。




「だが……この要請は……左大臣、近衛信尹卿からの……!」



 朝廷内で、もともと豊臣派、では無かった人である。


 秀吉に流刑にされたりしてるからどっちかというと豊臣は好きでは無い方。


 ただ近衛家の嫡流で、次の関白確実な人で、つまり朝廷内の実力者。


 色彩は中立派で、つまりこれは豊臣贔屓の公卿が先走った要請とかでは無く……



 よく読むと。


 関東にも要請は出してるから大丈夫だ。


 しかし関東は遠い、やはり近場の豊臣で当面なんとかしてほしい。


 もし徳川と揉めたら仲裁に入るから。


 と、きちんとこちらの立場も分かって気を使ってくれている。



 そうやって気を使ってくれてるあたりからも。



 つまり本気なのだ。


 本気で豊臣に兵を出せと言っている。



 且元は真面目なので、小心者でもあった。



 左大臣からの話とか断れるような心臓を持っていない。



 他の武家に生まれ育てば、「公卿? なにそれ美味しいの?」って感じで。


 京都の公家とか知ったこっちゃねえと無視するもんなんだが。


 平気で京都捨てて逃げた、三河の田舎モンのように。



 しかし豊臣家に仕えて長い片桐且元は。


 秀吉の方針に忠実で、朝廷に、公卿に、敬意を持つよう躾けられていた。



「だが……兵を出せば、豊臣が……それに徳川が……家康公が……」



 悩みに悩む。


 且元の胃痛は酷くなるばかりであった。







・戦国時代で一番気の毒な人は誰だったかコンテスト

 ノミネートは他に伊達政宗の親父(敵ごと息子に打ち殺される)

 朝日姫の旦那(問答無用で離婚させられて狂う)

 宇喜多直家の妻(利用されて実家滅ぼされて自分も殺される)など


 石田三成みたく負けて死んでも全力で戦って名を残した人とかはダメ

 あくまで、いいとこなくて「うわあ気の毒」って言ってしまう人のみ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ