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冬が終わるまで  作者: なつる
十一月
9/17

「渡部、しっかりしろ!」

 力なく床にへたりこんだしのぶは、大きく見開かれたその瞳から大粒の涙を零している。

「ママが……ママが……」

 うわ言のように呟くその言葉で、五嶋は全てを察した。

 垂れ下がった受話器をつかむと、しのぶに代わって何かを喚いている声に答えた。


「もしもし。御電話代わりました。渡部くんの担任の五嶋と申します」

『あ、これはどうも……しのぶの叔父の香田と申します。あの……しのぶは……』

「話ができる状態ではありませんね。差し出がましいようですが、できましたら事情をお聞かせ願えますか」

『はい。あの、実は……しのぶの母親が交通事故で亡くなりました』


 ある程度予期していたこととはいえ、実際に言葉で聞くと胸に重くズシンとくるものがある。


「そう、ですか……ご愁傷様です」

『今日の昼ごろですか、本人が運転する車が雪道でスリップして、ガードレールに激突して大破しましてね。救急車で運ばれたんですが……病院で息を引き取りました』

「……ご事情はよくわかりました。本人が回復次第、そちらに戻るよう手配します」

『よろしくお願いします』


 しのぶの母親が死んだ──

 電話を切り、五嶋は胸の中の重苦しい空気を一度吐き出して、座り込むしのぶの背中を見つめた。

 母親の突然の死──悲しみに打ちひしがれて、動くどころか声を出すこともままならない。絶望に叩きのめされ、ただ泣くことしかできないのだ。


「渡部……立てるか?」

 しのぶの手をとっても、その腕に力はなく、何の手応えもない。仕方なく、五嶋はしのぶの身体を抱え上げるようにしてソファに座らせた。

「しっかりしろ。急いで実家に帰るんだ」


 しのぶの目を真正面から見据えても、彼女は宙を見つめたまま涙を溢れさせるだけだ。

 五嶋は時計を見た。しのぶの地元までは電車でも二時間半。この調子では、正気を取り戻すのを待っていたら、今日中には家に辿り着かないだろう。


 五嶋の決断は早かった。

 寮にいる級長の諏訪を教官室に呼び出し、それから官舎に戻って自分の車を持ってきた。何とか二人がかりでしのぶを車に乗せ、万が一明日戻ってこれなかったときのことを諏訪に託す。不安そうな顔で見送る諏訪を残し、しのぶの実家に向けて車を出した。


 ちらちらと舞っていた雪は、高速に乗るうちに本降りへと変わった。この雪では思うようにスピードが出せない。忌々しい雪だ。

 しのぶは未だ放心状態だ。闇夜を流れる雪を呆然と見つめ、青白い頬を晒している。

 五嶋は早く、安全に彼女を実家まで送り届けることに集中した。

 永遠に続くような、長い長い沈黙──時間の感覚さえ狂うくらいに、重く、苦しい空気が車内に張り詰めている。

 降りしきる雪は激しさを増し、白魔のように襲い掛かってくる。焦る気持ちを抑えながら、五嶋は車を安全に走らせることに心を配った。

 最寄りのインターチェンジを降り、市内をあと二十分も走れば着くだろうというところに差し掛かって、しのぶがいきなり口を開いた。


「……天罰かなぁ」

 その声は泣いてはいなかった。

「天罰?」

「ママに逆らってばっかりで、何一つ言うこと聞こうとしなかった。バカにして、蔑んで……自分も同じなのにね。やっとママの顔、真正面から見れるようになったと思ったら……神様が怒っちゃったんだね。親の死に目にもあわせてくれなかった……」

「らしくないな。お前が神様なんて信じるタチか?」

「あ、ひどーい。私だって神様にすがりつきたいときだってあるよ」

「お前は神でも仏でも利用するだけ利用して、いらなくなったらすぐにポイって感じだろ」

「人のこと極悪人みたいに言うのやめてよ。先生のほうがよっぽど神をも恐れぬ極悪人だわ」


 静かに微笑んだその横顔には、もう涙はなかった。

 下手な慰めの言葉をかけるよりも、普段どおりの軽口を叩くほうが彼女にはいい。これだけの憎まれ口を叩けるならもう安心だろう。

 気を持ち直したしのぶの案内で、程なく実家に辿り着いた。

 この辺りでは豪邸の部類に入るのだろう。立派な門をくぐると広々とした庭に囲まれた豪勢な屋敷が見えてきた。五嶋の住む官舎の二LDKとは大違いだ。

 家の前にはたくさんの車が止まっており、もうすぐ日付が変わろうとする時間にもかかわらず、屋敷の中は煌々と明かりが灯って、人が慌ただしく出入りするのが見えた。

 車を止めると、しのぶは自分の足でしっかりと降り立った。


「今頃になって……思い出すんだよね」

 玄関に向かう足を止め、彼女は言った。

「何を?」

「ママの顔。小さい頃に見た……幸せそうな笑顔。何でこんな時に思い出しちゃうんだろ」

 しのぶは寂しげに笑って見せ、そしてうつむいた。


「ね、先生……ママにどんな顔して会えばいいんだろ?」

 しのぶの黒髪に雪がうっすらと積もっている。それを掃うかのように、五嶋は大きな手のひらを頭の上に乗せた。

「泣きたかったら泣けばいい。怒鳴りたかったら怒鳴ればいい。気持ちに任せて、好きなようにしてみろ」

「うん……わかった」

 意を決して、しのぶは歩みを進めた。




 

 母親の遺体を目の前にしても、しのぶは取り乱すことはなかった。

 静かに合掌した後、震える手で白布をめくると、生前の美しさを彷彿とさせる母親の死に顔が現れた。


 しのぶによく似ている──五嶋はそう思った。

 閉じられた瞳が開かれることは二度とないが、その目もきっと似ていたのだろう。死化粧を施された顔ですら、華やかだと感じる。

 しのぶは嗚咽することもなく、ただじっと母の顔を見つめていた。

 後ろで手を合わせ、その様子を見ていた五嶋には表情を窺い知ることはできなかったが、彼女は気丈に振舞い、ついに涙を見せることはなかった。


 通夜は明晩、告別式は明後日だという。

 これ以上ここに留まる理由は五嶋にはない。黙って帰ろうとすると、慌ててしのぶが外まで出てきた。


「先生、ありがと」

 さっぱりとした表情で、彼女は言った。

「忌引の手続きはオレがやっとくから、一週間ゆっくり休んでこい」

「うん、ありがと。なんか私、先生に『ありがと』って言ってばっかりだね」

「そう思うんなら何度でも言ってくれ」

「タダじゃ言えないわよ」


 その時、二人の横を一人の中年男が通り過ぎて行った。

 五嶋を値踏みするように見つめ、それからしのぶと意味ありげに視線を合わせ、軽く挨拶をして去っていく。


「あれ、元パパ」

 あごで指し示し、しのぶは鼻で笑った。

「十年前に家を出てって、今は再婚して奥さんも子供もいるんだ」


 そう言いながら、しのぶの目はずっと父親の背中を追っていた。

 実の父でありながら、今はもう父と呼ぶことも頼ることもできない。

 母親さえ失ってしまった彼女は、これから先、何を拠りどころに生きてゆけばいいのだろうか。


「ね、先生」

「ん、なんだ?」

「ちょっとだけ……胸貸してくれない?」

 そう言いたくなる気持ちは──五嶋にはわかるような気がした。


「高いぞ」

「ツケにしといてよ」


 減らず口に笑って腕を広げると、しのぶはゆっくりとその胸に顔を埋めてきた。

 天を仰ぐと、真っ黒な空一面に大粒の綿雪が舞っている。降り積もった雪はこのまま根雪になるだろう。本格的な冬の到来を告げるように、今夜は特に冷える夜だ。


 胸の中で小さくすすり泣くしのぶの肩をそっと抱く。

 伝わる温もりが、彼女が今ここで生きていることをしっかりと教えてくれたような気がした。


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