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再び訪れた深い沈黙。しのぶはうつむいて、五嶋はソファの背に大きくもたれて天井を仰いで、互いに思い思いの方向に視線を泳がせている。
時計が静かに時を刻む音と、パソコンの低いノイズ。
時折遠くから聞こえる学生の明るい笑い声がなければ、ここが学校の中であることを忘れてしまうくらいだ。
晩秋の夕日はすでに落ち、ブラインドの向こうに垣間見える景色は宵の口を迎えている。
あまりにも長い沈黙に、しのぶは五嶋が寝てるのではないかと心配になった。顔を上げると、五嶋は相変わらず天井を見つめていたが、その眼が光を反射していることに気づいた。
「夜になるといてもたってもいられなくなる、か……そういう気分になるときもあるよな」
突然の五嶋の言葉に、しのぶには驚きを隠さなかった。
「え……先生もそういう時、あるの?」
「あるにきまってんだろ。一人で鍋をつつくには寒すぎる夜だってあるよ」
「へー、なんか意外。先生ってそんなの全然気にしない人だと思ってた」
「たまにはそういうこともある」
「で、先生はそういう時、どうするの?」
「そうだなぁ……行きつけの飲み屋に行ったり、お気に入りのオネーチャンがいるスナックに行ったり、あとは……」
「あとは?」
「泡の国に行ったり……」
「えっ、マジで!」
五嶋はただ笑うだけで、それ以上のことは言わなかった。
「……ま、オレにはお前のやってることについて、とやかく言う権利はないってことだ。毎晩男と遊び歩いたって、喜んで付き合ってくれる男がいるだけありがたいもんだ」
「何よ……相談しがいのない先生……」
「問題の根っこはそこじゃない、もっと別なところにある」
しのぶは先を促すように五嶋の目をじっと見つめたが、五嶋は焦らすようにタバコに火をつけ、煙を大きく吐き出してから言葉を続けた。
「……お前、実家には帰ってるのか?」
「帰るわけないじゃん。あんな親の顔なんて見たくない」
「だろうな。電話もしてないのか?」
「たまに向こうからかかってくるけどね。無視で終わり」
「こんなこと、お前に言っても無駄かもしれんがな」
挑発的な物言いに、しのぶはほんの少し目を吊り上げた。
「オフクロさんと、一度じっくり話し合ってみる必要があるんじゃないか? 嫌いだから、っていうもっともらしい理由をつけて母親から逃げ回ってるばかりで、言いたいことの一つも言えずに心の中に溜め込んでるんだろ」
「言いたいことなんて……」
「母親と面と向き合って、無視されるのが怖いか?」
図星だった。しのぶは明らかに顔色を変えて、五嶋に食って掛かった。
「ちがう!」
「ならはっきり言ってやろうか。お前はな、母親の愛情に飢えてるんだよ」
しのぶは急に色を失って、唇をわなわなと震わせはじめた。
「だから代わりの愛情を手軽に得ようと、毎夜男を渡り歩く破目になるんだ。ちがうか、え?」
言い返すことなどできなかった。
五嶋の言うことは、恐ろしいほどよく当たっていたからだ。
言葉の代わりに、しのぶの瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。拭っても拭っても、涙は次から次へと溢れ出す。
しのぶは五嶋の顔を見つめたまま、泣いてボロボロになった顔を隠そうともせず、ただただ涙を零し続けた。
「……そんなに泣くなよ。オレが泣かしたって思われるだろ」
気がつくと、五嶋がティッシュの箱を差し出していた。この男にしては珍しく困ったような表情で、逆にそれが追い詰められていたしのぶの心を解きほぐす。
「……先生が泣かしたんじゃない」
「女泣かせるほど、オレはモテる男じゃないんだよ」
泣き顔のまま軽く吹き出して見せると、五嶋もやっといつもの憎たらしい表情に戻った。
箱ティッシュをひったくるように奪い、数枚取り出して鼻をかむ。顔を覆って涙を拭き、それをゴミ箱に捨てる頃にはしのぶもすっかり元通りの性悪に戻っていた。
「男に泣かされるなんて初めて。先生もなかなかやるじゃない」
「褒めたって何も出やしないぞ」
「ホントは女喰いまくって泣かせまくった、悪い男なんじゃないの?」
「こんな立派な紳士に向かって何を言う」
「紳士って言うよりは、ホームレスよねぇ」
「お前、ひどいこと言うなぁ」
「先生ほどじゃないよ」
視線を交わして、そして口元に笑みを浮かべる。しのぶはカバンをつかみ、おもむろに立ち上がった。
「帰る」
「そうか」
ドアに向かうしのぶを引き止めようともせず、見送ろうと五嶋はドアまでついてきた。
ドアノブに手をかけたところで、ふと、しのぶは五嶋を振り返った。
「先生……」
「ん、なんだ?」
しのぶの目に映る、五嶋の平然とした顔。
こちらから迫ればかわされ、逆にかわそうとすると追い詰められる。こんなつかみ所のない男は初めてだ。
それなのに、表情のない五嶋の顔を見ていると奇妙な安心感に包まれる──そんな自分に気づいて、しのぶの胸が微かに疼いた。
「先生の言うとおりだよ……」
その疼きをかき消すように、しのぶは言葉を吐き出した。
「私、ママに避けられるのが怖くて、いつの間にかまっすぐ顔を見るのさえ恐ろしくなってた。いつもケンカ腰で会話するくせに、正面きってケンカすることさえできなかった……」
母親の顔を思い出そうにも、ちゃんと見ていないからはっきり思い出せない。口紅を塗った唇だけは思い出せるのに。
何もかも、五嶋の言うとおりだ。
顔を会わせればいつも言い争い。そのくせ売り言葉に買い言葉みたいなケンカばかりで、本心など吐き出せなかった。目を合わせるのが怖くて、目をそらされるのが怖くて、いつしか真正面から母親の顔を見ることが出来なくなっていた。
ドアに寄りかかり、心情を表すかのように目を伏せたしのぶに、五嶋は温かみさえ感じさせる穏やかな低音で話し掛けた。
「親と真面目にケンカすることだって、大切なことだ。自分の気持ちをちゃんと伝えたかったら、言いたいこと全部言って、本音ぶつけてみろよ」
五嶋が担任らしいことを言ってくれたのがうれしかった。
ずっと誰かに叱ってもらいたかった。心のモヤモヤを吐き出して、受け止めてもらいたかった。
その相手が五嶋でよかったと、しのぶは今更ながら思う。
けれど、この男に正面から礼を言うのは何だか癪だ。さっきもイタズラされてからかわれたばかりだし──なら、こちらもやり返せばいい。
次の瞬間、しのぶの右腕が五嶋の首に巻きついていた。しなやかな腕は、驚く五嶋の顔をグイと引き寄せる。
安らぎさえ感じる、タバコの匂い。
自分と五嶋。何となく、似たもの同士。人生を真っ当に生きていない者同士だ。
しのぶは五嶋の頬に、軽く唇を押し当てた。
一陣の風のようなキス。硬直している五嶋を残し、しのぶは電光石火の早業でドアを開けて教官室を出て行く。
今頃、五嶋がどんな顔をしているのか──廊下を早足で歩くしのぶは、それを考えただけで笑いがこみ上げてきた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
お気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、この作品は自作「こうせん!」のスピンオフになります。
この作品から8年後、一人のイケメン?が北陵高専の3年生になるところから始まる、青春ラブコメディです。
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【こうせん!】http://ncode.syosetu.com/n8942bk/
北陵工業高専三年・鯨井北都。
クラスの紅一点、逆ハー状態のヒロインなのに……超絶イケメン顔ですありがとうございましたorz
でもちょっとヒネくれてるだけで、中身は普通の女子だよ!
GLでもBLでもねえっつってんだろ!
そんな北都が副担任でチートイケメン・諏訪やテンプレ優等生・火狩、謀略家の担任・五嶋、クラスメイトやその他諸々を巻き込み、巻き込まれながら、史上最低とまで言われたこのクラスを救うべく、級長となって日々奮闘します。
コンプレックスだらけだけど、少しずつ恋の花も咲かせるよ!
高専というちょっと変わった学校を舞台にした、青春日常ラブコメ?です。
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五嶋先生も、そして助教になって帰ってきた諏訪くんも登場しますので、ぜひお読みくださいませ。