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冬が終わるまで  作者: なつる
十月
5/17

 喉が渇く。唾を飲み込んでも、渇きは癒されない。


「効いてきたか?」

 ──そんなはずない! そんなはずは……

 いつの間にか口を開けて、喘ぐように呼吸している自分に気づいた。


「……騙したわね」

 掠れ気味の声を絞り出すものの、ひりつく喉からうまく声が出ない。

「洗いざらい全部吐いちまうか?」


 悔しさでしのぶの目に涙が滲んできた。

 ──こんなヤツの口車に乗せられた私がバカだった。このまま前後不覚に陥って、全部吐かされるんだ、きっと……

 ああ、悪魔が笑ってる……悪魔が私をあざ笑ってる……


「何が……おかしいのよ」

 五嶋は横を向いて、必死で笑いを噛み殺していた。おかしくて苦しくてたまらない、そんな顔がしのぶの心を逆撫でする。


「人が……苦しんでるのが……そんなに……おかしいの!」

「お前、まだ信じてるのか?」

「何を?」

「本当に自白剤飲まされたと思ってんのか?」

「え? ちがうの?」

「お前が自白剤だと思ってるのはコレだ」


 そう言って、五嶋が取り出したのは一本の黄色いチューブだった。

「……はあ?」

 しのぶは目が点になった。

「何それ……ショウガ?」


 ──変な味がしたのも、喉が熱いのも、全部コレのせい?

「お前も単純だなぁ、こんな簡単な騙しに引っかかるなんて」

 そう言って軽く吹き出した五嶋のマヌケな横面が、しのぶを正気に戻したのと同時に、煮えたぎる怒りを湧き上がらせた。


「……っざけんなよ、このクソジジイ!」

「涙ぐみながら凄まれても全然怖くないぞ?」

 ニヤつく五嶋にそう言われて、しのぶは慌てて袖で涙を拭い去った。

「これが先生のやることかよ!」

 叩き割らんばかりの勢いで机を殴りつけて立ち上がったが、五嶋はひらりとかわすようにソファを立った。

「あーおもしろかった」

 五嶋の無防備な背中によっぽどナイフでも突き立ててやろうかと思ったが、手ごろなものが近くにないのが残念だ。


 強い緊張状態から急に解放されたせいか、全力疾走した後のような疲れの波がどっと押し寄せてくる。その波に押されるままにまたソファに座り込んでしまった。

「ほらよ」

 振り返った五嶋が、別のマグカップを新たに差し出した。

「口直しだ。今度は何も入ってないよ」

 しのぶにはそれを拒否するだけの気力はもはや残っていなかった。疲れた顔でそれを黙って受け取り、わずかにためらっただけですぐに口をつけた。


 今度のコーヒーは格段に美味く感じた。

 胸いっぱいに吸い込んだ芳醇な香りと、喉から全身に染み渡るじんわりとした温かさ。張り詰めていた心と身体がゆっくりと解きほぐれていく気がする。

 飲み終わった頃には、怒る気も失せていた。疲れきった身体をソファに深く沈めて、カップの底に残るコーヒーの雫をぼんやりと眺めていると、何処からともなく五嶋の声がした。


「おふくろさんのことで、悩んでるんだろ?」

「うん……」


 頷いてしまってから、しのぶは驚いて顔を上げた。

 五嶋は、いつの間にかまた目の前に座って、こちらを見て意地悪く笑っていた。


「……コレがホントの自白剤ってヤツさ」

「あ……」


 ──ヤラれた……

 一気に目が覚めた気分だった。

 何て手のこんだイタズラをする奴なんだ、と思っていたら、これが本当の目的だったのだ。

「なんてヤツ……信じらんない……」

「バーカ、騙されるお前が悪いんだよ」

 そう言われてしまっては、ぐうの音も出ない。


 もはや逃げも隠れもできなかった。

 一つため息をついて、しのぶは気持ちの整理をつけた。が、一度覚悟を決めてしまえば、言葉は意外なほど簡単に口から滑り出す。


「──私ね、母親が大っ嫌いなの」

 五嶋は面食らうこともなく、平然と話を続けた。

「お前のとこは確か母子家庭だったな」

「そ。十年前にパパと別れて、それ以来母一人子一人」

「立派な母親じゃないか」

「ホントにそう思う?」

 しのぶは皮肉たっぷりな笑みを浮かべて見せた。


「離婚の原因は、母親の浮気にあったの。それも一度や二度じゃない、それこそ男をとっかえひっかえで、パパが愛想を尽かして出て行ったのよ。世間じゃ美人女社長だなんて持て囃されてるけど、娘の私から見ればただのアバズレババア。いいトシしたオバハンが何やってんだか」

「酷い言い様だな」

「子育てだって満足にできてないんだよ。家事も育児も他人にまかせっきり。それで自分は金に飽かして毎晩遊び歩いて、母親らしいことの一つもしてくれない、バカな女だって思ってた。そんなのをずっと見てきたからさ、私は絶対こんなふうにはならないって、なりたくないって思って、家を出るために遠く離れたこの学校に来たんだ」


 物心ついたときから、夜は嫌いだった。

 思い出されるのは家を出て行く母親の着飾った背中、きつい香水の匂い……そればかり。それらの意味を知ったとき、母親を恋しく思う気持ちは嫌悪に変わった。


「でもさ……いつの間にか、大嫌いな母親と同じことしてんだよね……」

 一人になることを望んで家を出たはずなのに、孤独な夜に耐えられなくて、夜ごと出歩いては男の腕の中に潜り込んでいた。

「どこでまちがっちゃったんだろ……こんなことやめようって思うんだけど、夜になるといてもたってもいられなくなって、誰でもいいからそばにいて欲しくなるんだ」

 肌のぬくもりを感じていても、そこは決して安住の地ではなく、抱えきれない寂しさが癒されることは絶対にない。

「母親のこと、けなす資格ないよね。私も同じことしてんだもん。ホント、イヤんなっちゃう……」


 そう言って、しのぶは笑った。内に秘めていた寂しさを隠そうともせず、今にも泣き出しそうな笑顔だった。

 それきり、しのぶは口をつぐんだ。


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