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しのぶは真っ直ぐ前を見据えて、夜の闇を睨みつけるような目をしていた。
「……時間外料金でも残業代でもなんでも払うからさ、何か言ってよ」
しかめっ面のままそう言ったしのぶに、五嶋は可笑しさがこみ上げてきた。
「……お前らしくないな」
「今日は叱られたい気分なの」
「変な奴だな。自分から叱られたいだなんて」
「そういう気分の時だってあるでしょ」
「不安定だな。生理前か?」
「失礼なヤツ……もう、やる気ないならいいよ!」
「……寂しいんだな、お前」
顔はそっぽを向いても、しのぶのその背中がわずかな動揺を隠せなかった。
「そんなこと……ないよ」
心の奥底に押し込めながら、吐き出したくても吐き出すことのできない、彼女の苦悩。
わずかな言葉の間が、その存在を表しているかのようだ。
「お前が何をしようと誰と付き合おうと、それはお前の勝手だよ。男と付き合うことで寂しさが紛らわせるって言うんならそれでもいいさ。だけどな、それは一時的にごまかせてるだけで、問題の根本的な解決にはなってないぞ」
「……何勝手に想像してベラベラしゃべってんのよ。ちがうって言ってるでしょ!」
キレ口調で言い返すしのぶに、五嶋はそれでも穏やかな口調で続けた。
「お前が何か言ってくれって言うから、言ってるだけなんだけどな……まあいいや。お前がちがうって言うんなら、そういうことにしとこうや」
五嶋はまたもや無責任に話を打ち切った。
さて、今度はどう出てくるか──
反応を待っていると、意外にもしのぶは今にも泣き出しそうな顔でうつむいていた。
それから先、アパートに着くまでに彼女は一言も喋らなかった。五嶋もまた、その沈黙に付き合ってそれ以上の話をしなかった。彼女に考える時間を与えたのだ。
しのぶの住むアパートは、学校の正門を出てすぐのところにある。実家はこの街から車で三時間はかかるところで、しのぶは入学時からここで一人暮らしをしていた。
アパートの前で車を止め、サイドブレーキを引くと、しのぶはずっと伏せていた顔をやっと五嶋に向けた。
「先生ってさ、不思議な人だよね」
「え?」
「学校でも怒ったとこ見たことないし、何やっても誰に対しても冷めてるカンジで、他人に興味ないんだと思ってた……」
「ほう、そんな風に見えたか」
「でもちがう……そうやって油断させておきながら、さりげなく揺さぶりかけて、はぐらかしてはこっちの口を割らせようとしてる……見かけによらずタチの悪いオッサン」
「まだ三十六だぞ。オッサンはないだろ」
「ほら、またそうやってはぐらかす」
五嶋は鼻で笑った。
「──で、口を割るつもりはないのか?」
すぐに答える気にはなれないのか、しのぶは五嶋のコートに埋まるようにして、ピンクの口紅に彩られた口元を隠す。
が、直にあきらめたように、コートの下から口を開いた。
「……先生は一人で寂しくないの?」
不安そうな、眠たそうな表情だ。
「誰もいない家に一人で帰るの、辛くないの?」
五嶋はタバコを取り出し、火をつけて、ゆっくりと煙を吐き出してから答えた。
「そうだなぁ……冬は寒いから家が暖まってるといいなとは思うけどな、寂しいとは思わないなぁ」
「……強いんだね」
消え入るような小声で、しのぶは呟いた。
「私は……一人はイヤだな」
ブーツを履いた爪先を見つめる横顔。色の白い頬が薄暗い車内で眩しくさえある。
「家で一人、夜を過ごすなんて耐えられない。誰でもいいから、眠るまでそばにいてほしいの」
「それで、夜な夜な街に出ては、添い寝してくれる男を引っ掛けてるのか」
「ミもフタもない言い方。ま、その通りなんだけど」
「でも──そんなこといくら繰り返したって、この先も何も変わらないぞ」
しのぶは返事もせず、黙り込んだ。その姿はまるで叱られた子どものようだ。
五嶋は突如灰皿を引き出して、タバコの火を押し消した。
「……これ以上は説教になっちまうな。このへんにしとくか」
しのぶは慌てたように身体を起こした。
「ちょっと! 何、その無責任な終わらせ方──」
「オレはお前じゃないから、お前の悩みがどのくらいのもので、何が原因かなんてわかりゃしないさ。オレにできるのは、問題について考えるきっかけを与えることだけだ。これ以上のカウンセリングは、他でやってくれ」
しのぶは切れ長の目を吊り上げて五嶋をじっと睨みつけていたが、やがて目をそらし、深く嘆息した。
「……やっぱり先生って変わってる。そうやって突き放したフリして、本当は答えがわかってるんでしょ?」
「さあな」
「ズルイ男……」
しのぶは呆れたように、またため息をついた。
少しやりすぎたかな──五嶋がそう思ったのも束の間。
「でも……おもしろい。先生みたいな男の人、初めて。もっと知りたくなっちゃった」
何か新しい企みを思いついたように、悪戯っぽく笑う。やはり一筋縄ではいかない少女だ。
「ね、今日は先生が添い寝してくれない?」
彼女の艶やかな唇が、五嶋の横顔にずいと迫った。
「先生なら、添い寝以上のことはしないでしょ?」
「オレに据え膳を食うなって言うのか?」
「お望みなら、食べてもいいけど?」
「遠慮しとくよ。お前食ったら、毒に中って死にそうだからな」
「何よぉ。先生こそ腹ワタがドロドロ真っ黒で、生臭くてアクたっぷりで、煮ても焼いても食べられませんってカンジだけど」
きれいに手入れされた指先を、五嶋の頬に突き刺す。
「でも、食べてみたら案外通好みの美味しい味かもしれないね」
「モノは言い様だな。何なら、本当に食べてみるか?」
そう言って差し出した五嶋の腕に、しのぶは口を大きく開けて噛み付くフリをしながら、サッと身を翻して車を降りた。
「とっくに賞味期限切れでしょ? 腐ってんじゃない」
運転席側に回ってきて、開けた窓から小憎らしい笑顔を見せる。
「何を言う。オレはまだまだ新鮮だぞ」
「ムリしちゃって。年寄りは早く帰って寝なよ」
「お前なあ……せっかく送ってやったのに、その言い草は何だよ」
「だって、添い寝してくれないんでしょ? 逃げる男は追わないことにしてんの。じゃ、おやすみ」
しのぶはクルリと背を向けて、アパートの階段を音を立てて上り始めた。
まったく、食えないヤツだ──
窓を閉めようと、スイッチに手をかけた、その時。
「あ、先生」
しのぶがこちらを振り返った。窓から身を乗り出して応える。
「……明日の夕方、先生の教官室に行ってもいい?」
そう言ったしのぶの顔は妙に真剣だった。
「いいぞ。コーヒーぐらいご馳走してやる」
「シャンパンぐらい用意してよ」
「バカ言うな。学校の中だぞ」
「しょうがないなぁ……じゃ、それでガマンしてあげる」
憎まれ口を叩くその表情は、少し安堵したかのようにも見える。
再び階段を上り始めたしのぶの後姿を確認して、五嶋は車を出した。
しのぶが何かしらの悩みを抱えていることは、だいぶ前から気づいていた。
だが、真正面から聞いたところでそれを素直に喋るような子ではないし、下手を打てばこちらがやり込められそうな相手だ。彼女が他の教員から敬遠されるのは、そういう大人をバカにしたところがあるからだ。
放埓な男性関係、目まぐるしく変わる感情、そして時折見せる寂しげな顔──しのぶのそういう行動は、彼女なりのSOSだったのではないかと思う。
もっと早くに気づいてやるべきだった。担任になって二年半、機会を逃してここまで来てしまった。
卒業まであと半年。担任として、彼女にどれだけのことをしてやれるだろう。