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数日後。
五嶋は夜の繁華街に一人佇んでいた。別に呑みに来たわけではない。遠くの都市で行われた学会の帰りなのだ。
ネオンがきらめく駅前の盛り場は、いつ来ても賑やかだ。ここまで来たからにはいつもの店に──と足を運びたくなるが、あいにく今日は車がある。駅から遠い自宅まで、こんな時間ではバスもろくに走っていないし、タクシーなど高くて問題外。仕方なく帰りは車で帰ろうと、朝から近くの駐車場に停めておいたのだ。
時計は既に二十二時を回り、家路につこうとしている人影もちらほら見える。北国の早い冬の訪れを予感させるように、コートの襟を立てて足早に去っていく。
オレもとっとと家に帰って、ひとっ風呂浴びてからビールでも飲むか──そう心に決めて一歩踏み出そうとしたその時、通りの向こうに見覚えのある人影を見つけた。
派手な顔に似合わない、古風な長い黒髪。長身のスレンダーボディをファーで彩られた黒のコートで包んで、堂々とタバコをくわえている。
その向かいで、顔のいい男が何やら彼女に対して怒鳴り散らしていた。五嶋の知らない顔だ。
彼女──渡部しのぶは男からの怒号も何処吹く風と、そっぽを向いてタバコをふかしている。
諍いの原因が何かは全くわからないが、二人がケンカしていることは確かだ。周囲は見て見ぬふりをしつつも、気になるのか振り返ったりささやきあっている。
急に、男がしのぶの胸倉をつかんだ。それでも彼女は平然として、男の顔をじっと見据えている。
「……てめえッ!」
激昂した男が振りかざした拳を──五嶋は無意識のうちにつかんでいた。知らず知らずのうちに足が動いていたようだ。
「せ、先生?」
突然現れた担任の姿に、しのぶが目を丸くする。
「何だよ、テメエは! ジャマなんだよ!」
「あー……この子が何かいたしましたかね?」
五嶋のトボけた口調が、男の怒りに油を注いだようだ。
「うるせえッ! お前がしのぶの新しい男か!」
否定する間もなく、しのぶが抱きついてきた。
「そう。この人、見た目はただのオッサンだけど、あんたとちがってスゴイの」
「スゴイって……何が?」
「先生は黙ってて」
何だかよくわからないうちに、男と別れる口実に仕立て上げられたようだ。迷惑以外の何物でもないというのに。
「だからさぁ、いい加減あきらめてよ。しつこいっつーの」
勝手な言い分だ。細かいことはわからないが、何だか相手の男が気の毒になってくる。
「オレは……オレは……絶対に別れないぞ!」
涙目になった男が、しのぶめがけて突進する。
次の瞬間、しのぶのピンヒールブーツが男の股間に炸裂していた。鮮やかに決まったその蹴りに周囲があっと息を飲み、男たちが皆一様に顔をしかめる。
苦悶の表情を浮かべ、股間を抑えながら跪いてしまう彼を、しのぶは勝ち誇ったように見下げた。
「あんた下手クソ過ぎるの。この××××が」
男なら耳を塞ぎたくなるような捨てゼリフを吐いて、しのぶは五嶋の腕をつかんで引っ張り、その場から逃げ出した。
騒ぎの輪が見えなくなるところまで引っ張られてから、しのぶはようやく手を離して五嶋を解放した。
「おいおい……オレを別れ話のダシに使うなよ」
「だって、絶妙のタイミングで現れてくれるんだもん。使わない手はないでしょ?」
「あんな別れ方して……本当に良かったのか?」
「いいのいいの。ちょっと優しくしてやったらつけあがっちゃってさ、人のこと束縛しようとするんだもん。ウザイから早く切りたかったの」
「……割り込むんじゃなかったな」
「でも助かったよ。先生、ありがと」
そう言って微笑む柔らかな表情は、ついさっきまでの豪快な悪女っぷりを忘れさせる。
しのぶは何気なく、手に持っていたタバコをまた口にくわえた。そしてふと、五嶋と目が合う。
「あ」
ヤバイ──と彼女が思ったのかどうかはわからないが、バツ悪そうに歪めた顔を笑って、五嶋は携帯灰皿を差し出した。
「お前、確か二十歳過ぎてたよな?」
「うん……まあ」
「なら後はしまっとけ。オレは時間外に仕事はしない主義なんだよ」
しのぶはタバコの火を消しながら、五嶋をいぶかしむように見つめている。
が、すぐに気を取り直すと、五嶋の姿を上から下まで眺めた。
「そう言えば……先生、こんなとこで何してたの?」
「出張だったんだよ。今戻ってきたとこなんだ」
「じゃ、これから帰るの? 車なら家まで送ってよ」
ここで断ったら……彼女のことだ、学校で何を吹聴されるかわからない。
「しょうがないな」
「やったぁ」
しのぶは五嶋の片腕にしがみ付くように腕を絡ませてきた。深い意味というよりは、五嶋の気が変わって逃げられないように、だろうか。
「タクシー代高いぞ?」
「ケチくさいこと言わないの。かわいい学生が困ってるんだから、タダで送ってくれたっていいじゃない」
「じゃあ……カラダで返してもらおうか」
「いいわよ。何なら、今すぐそこのホテルに入ってもいいけど?」
そう言ってしのぶはニヤリと笑う。
五嶋は舌を巻いた。もとより本気ではないことをわかった上での切り返しであろうが、こういう冗談が通じないのはやはりやりづらい……が、それ以上におもしろい。
二人、腕を組んで連れ立って歩く姿を学校の関係者に見られたら──という不安も少しは頭をよぎったが、何とかなるという変な自信が五嶋にはある。
駐車場に留めてあった五嶋の古臭いセダンの前に到着すると、鍵を開けるや否や、しのぶはあっという間にドアを開けて助手席に滑り込んだ。もう梃子でも動かない姿勢である。
「早くエンジンかけてよ。寒い」
五嶋はもったいつけたようにゆっくりと運転席に座り、キーをいれてセルをまわした。
とはいってもすぐには暖まらず、コートの下は恐らく薄着であろうしのぶは、両腕で自分の体を抱きかかえるようにしてブルブルと震えている。
腕を組んできたのは、身体の温もりを求めてきたからかもしれない。
五嶋は自分の着ていたコートを脱いで、しのぶに向かって放り投げた。
「着とけ」
「先生、寒くないの?」
「お前とは鍛え方がちがうんだよ」
全く寒くないといえば、それは嘘だった。もう十月も末、この北国では雪もちらつく季節だ。スーツのジャケットだけではやはり寒い。
それでも、ここに来るまでの間にしのぶが身体を寄せていた部分が、ほんのり暖かく感じたのは気のせいだろうか。
しのぶはそれ以上の遠慮をせずに、五嶋のコートを前にかけた。
車を走らせると、しのぶは窓ガラスに頭を持たれかけ、外をぼんやりと見つめたまま動かなかった。授業中と同じ、わずかに憂いを湛えたその横顔は、次元を超越したところで物事を思想する菩薩像のようにも見える。
信号で止まっている間、そんなことを考えていると、見つめられていることに気づいたのか、しのぶが振り向いて笑いかけてきた。
「どしたの? 私の顔に何かついてる?」
「よだれのあと」
「そんなものついてないよ」
信号が青に変わって、アクセルを踏み込むと、今度はしのぶが話し掛けてきた。
「……先生って、彼女いないの?」
「いるように見えるか?」
「見えない」
「だろうな。ま、実際いないんだからしょうがないけど」
「ずっと独身決め込むつもり?」
「んなこたあない。いい女がいれば結婚するさ」
「ふーん……」
興味があるのかないのか、ただ聞いただけなのか。そう言ったきりしのぶは黙り込んだ。
「お前はどうなんだ?」
「どうって?」
「本命の彼氏が別にいるんだろ?」
「本命ねぇ……」
思わせぶりな口調だ。
「なんだ、いないのか?」
そう問い掛けると、しのぶは意味深にクスクス笑い出した。
「彼氏はいるけど、本命はいないかな」
「どういう意味だ?」
「本当に好きな男って、いないかも」
五嶋はますます混乱した。
「向こうから『付き合って』って言われたら、断らずに付き合ってる。だから彼氏は何人もいるよ。だけど、本当に相手のことが好きかどうか、考えたことない」
「考えてから付き合うのが普通だろ」
「だって、断るの面倒だし、向こうが私のこと好きって言ってくれるなら、それでいいのかなって思ってさ」
「自分から『この男と付き合いたい』って思ったことないのか?」
しのぶはしばらく考えた。
「……ないね。でも、これはこれで結構楽しいし、今日みたいに揉めることもあるけど、そんなに不都合してないよ」
「そうか」
拍子抜けするほどあっさりした返事をして、五嶋はその話題を終えた──が、それに納得していないのはしのぶのほうだ。
急に話を打ち切ったことが不満なのか、運転中の五嶋の横顔に噛み付いてきた。
「……それで終わり? もっと何か言うことあるんじゃないの?」
「何か言って欲しいのか?」
「そうじゃないけどさ、担任として言うべきことがあるでしょうが」
「だから時間外は仕事はしない主義だって言っただろ。今ここで、お前のモラルを問いただすほど教育熱心じゃないの」
「あ、担任がそんなこと言っていいわけ? 私がこの先グレちゃったりしたら、どう責任とるつもり?」
「もう手遅れだろ」
「ひどーい。先生がそんな人だとは思わなかった」
「オレは最初からこうだ。どうしても何か言って欲しいって言うなら、時間外料金払ってもらうぞ」
「どうしてもって……もういいよ」
ふてくされたように、しのぶは口を尖がらせて顔を背けた。やけに子供っぽい、彼女らしくない表情がフロントガラスに映る。
しばらくの静寂。
低いノイズだけが車内に満ちている。