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冬が終わるまで  作者: なつる
一月、そして二月
16/17

 五嶋たちが向かった先、それは五嶋のクラスの教室だった。

 諏訪も春賀も、しのぶの居場所について心当たりはないと言ったが、訊ねながらも五嶋は不思議と確信していた。彼女はここにいると。

 しのぶを想って浮かぶ顔はいつも、教室の窓側最後列の席に座り、憂いを湛えて外を眺める横顔だった。

 教室は電気もついていなく、中は真っ暗のようだ。誰かいるような気配はない。だがドアを開けて中を覗き込むと──窓際の一番後ろ、いつものその席にしのぶはいた。

 窓から差し込む薄明かりに照らされた教室は降りしきる雪の影を映し、ある種幻想的な雰囲気を醸し出している。


「渡部」


 声をかけて、やっとしのぶは振り返った。薄暗い中で見る彼女の顔はひどく不健康そうに見える。

 外の凍えるような寒さを思わせる冷たい笑み。「今更何しに現れた」とでも言いたげなその冷笑でさえ、美しいと思ってしまう自分がいた。


「聞いたぞ。大学に行かないって言ってるそうじゃないか」

 歩み寄ると、しのぶは一瞬ビクッとして逃げるような素振りを見せたが、後ろは窓だ。すぐにあきらめて五嶋から目をそらし、代わりに後ろにいる春賀に非難の視線を送った。


「春賀……約束破ったわね」

「しのぶ、ゴメン……で、でも! 私、心配で……」

 庇うように、五嶋は春賀の言葉を遮った。

「何で急にそんなこと言い出したんだ?」

「先生には関係ないでしょ」


 五嶋は座るしのぶの腕をつかんだ。

 驚いて五嶋を見上げた彼女の顔。こんな至近距離で見たのは久しぶりだ。


「お前……オレに何か言うことはないか?」

 しのぶは何か言いたそうに口を開いて──また閉じた。目をそらし、視線を泳がせる。

「何も……何もないよ」

「お前、嘘つくの下手だな」

 五嶋は笑ったが、彼女は噛み付きもせず、目を合わすことすら怖がっているように見えた。


「自分の口で言えないのなら、オレが代わりに言ってやろうか?」

 何も知らないくせに──そう言わんばかりの顔で、しのぶはそっぽを向いている。


「お前、妊娠してるんだろ」


 しのぶが目を見張るのと同時に、後ろで春賀が叫んだ。

「に、妊娠?」

 目の前のしのぶは震えおののき、悪魔でも見るかのような目で五嶋を見上げている。


「……腹の子の父親は、オレなんだろ」


 春賀が悲鳴に近い叫び声を上げていた。驚くのも無理はない。まさか自分としのぶが、そんな関係になっていたとは、勘のいい諏訪ならともかく、春賀にしてみれば天地がひっくり返るほどの衝撃だったに違いない。


「ちがうわよ! だから先生には関係ないって言ってるでしょ!」


 しのぶは物凄い剣幕で立ち上がったが、それでも五嶋とは目が合わせられないらしい。そこが彼女の正直なところだ。

 手を振り解き、教室を出て行こうとするその背中に、五嶋は皮肉をぶつけた。


「じゃ、別の男の子どもなんだな。みんな別れたって言ってたけど、オレ以外の男とも寝ていたってワケだ。やっぱお前尻軽だなぁ」


 しのぶが足を止めた。うつむき、握り締めた拳が震えている。

 五嶋を振り返ったその顔は、怒りと、悲しみと、そしてほんの少しの優しさが混ざった複雑な表情だった。


「ちがう……先生、私……」

「じゃ、オレの子どもだって認めるんだな?」


 しのぶは小さく頷いた。

 今にも泣き出しそうな顔──と思ったのも束の間、すぐにそれはあざけり笑う表情に変わった。

 向こうで厳しい顔をしている諏訪と、引きつった顔で今にも倒れそうな春賀、そしてしのぶ。三人三様の表情だ。


「……私、先生に言ったよね? 『一夜限りのいい思い出にしよう』って。『後腐れはなし』って。だからもう、先生には関係のないことなの」


 あの夜、しのぶは確かにそう言った。

 だがあれは、彼女の本音ではなかったと五嶋は思っている。嘘、いや方便だったと。


「この子を産もうが堕ろそうが、私の勝手なの。わかったらもうほっといてよ」

「お前は本当にそれでいいのか?」

「いいに決まってるからこう言ってるんじゃない。先生に養育費請求したり認知しろとか言わないからさ。先生には面倒なこと何もないでしょ? もうすぐ卒業式なんだから……このままで終わらせてよ」


 養育費に認知──考えてることがわかりやすい。

 勝手とは言うが、しのぶは堕胎などせず、一人で産んで育てるつもりだろう。


「……本当にそれでいいんだな?」

 しのぶの目をじっと見つめ、念を押すようにたずねる。彼女は鼻で笑って見せた。

「くどいわね。同じこと何回も言わせないで」

「そうか……」

 五嶋はしのぶに向かって歩み出した。

 しのぶは一瞬怯んだが、五嶋の身体は彼女の真横をすり抜けていた。


「じゃ、お前の好きなようにしろよ」


 すれ違いざまに残した言葉に、しのぶも、そして諏訪と春賀も驚いて眼を丸くする。

 あまりに無責任で慈悲のない言葉──ともすればそう聞こえるかもしれない。しかしこれは、五嶋なりの計算があっての言葉だ。

 そしてしのぶは、その計算通りに動いてくれた。

 そのまま教室を出て行こうとする五嶋の背中に、彼女の震える声がぶつけられる。


「何よ……またその手?」


 足を止め振り返ると、しのぶは唇を噛み締め、五嶋を睨むように見つめていた。

「そうやって突き放して、知らないフリして、私に喋らせようって魂胆なんでしょ。同じ手は二度も通用しないの。言わなくたってわかってるんでしょ? 私の、本当の気持ち……」

「さあな」

 そっけなく突き放す素振りでさえ嘘だ。本当は痛いほどわかっている。

「そういうところがズルイっていうの。私にばっかり喋らせて、先生は絶対に自分の気持ち話さないくせに」

「聞きたかったら、お前から先に話せよ」

「もう……頭くる」


 そう言いながらしのぶは怒りもせず、静かに歩み寄って五嶋の胸に額をつけた。

 降りしきる雪の中で抱きしめたあの日を思い出す。


「悪かったって思ってるよ。先生に無理言って、抱いてもらったこと……だって、ああでも言わなきゃ先生に抱いてもらえないと思ったんだもん。ああ言っとけば、先生には責任ないでしょ? 本当に『一夜限りのいい思い出』にしたいって思ってたのよ……たとえ万が一のことが起きてもね」


 彼女らしからぬ浅はかな考えだ、と五嶋は苦笑した。

 しかしながら、彼女の浅慮を大っぴらに笑えるほど五嶋とて深慮があったわけではない。だからこそ「万が一」が起きたのだし、今こうやって対峙することになっている。


「本当にあれで終わらせるつもりだった。『いい思い出』だけあれば、後は一人でも生きていけると思った……でも、でもね」

 シャツをつかむ彼女の手が、細かく震えていた。

「先生……優しいんだもん。むさいし口は悪いし意地も悪いけど……優しいんだもん。わかってるよ……優しいのは『先生』だからって。『先生』だからこそ、私のこと心配して優しくしてくれるんだって。わかってるよ……」


 しのぶは顔を上げ、五嶋の目をまっすぐに見つめた。

 あの夜と同じだ。彼女の瞳に映る自分の姿が揺れている。


「でも、好きなの。先生に迷惑かかるって、こんなことバレたら先生学校にいられなくなるかもしれないって……わかってるけど、好きなの。ずっとずっと一緒にいたいの!」


 口止めしながらも春賀に「大学に行かない」と言ったのは、いつか自分の耳に入ることを期待して、そして「一人でも大丈夫」という強がる気持ちとは裏腹な「引き止めてほしい」という気持ちがそうさせたのだろう。


 しのぶの大きな瞳から涙が溢れて、零れ落ちた。

 彼女の泣き顔は嫌いだ。儚くも美しい涙──けれど悲嘆に暮れる顔は、いつも勝気な彼女には似合わない。そう思っていた。

 だから、あの夜は抱いてしまった。潤む瞳から逃げてしまった。彼女を泣かせたくなくて、自分の気持ちを伝えるのが怖くて。

 だが、もう逃げない。

 もう大丈夫──しのぶも、自分も、何もかも全てあるがままに受け止められる。


「全く……オレもナメられたもんだ。オレがお前の気持ちに気づいてないとでも思ったのか? こちとらお前に懲戒免職心配されるほどマヌケじゃないんだよ」


 教え子を妊娠させたなどと学校側にバレたら、多少大変なことにはなるだろう。だが、万が一失職という事態になったとしても、彼女と子どもだけはを守ってみせる。うるさい教授陣を相手にしても、それだけの勝算はあるつもりだ。

 しのぶの肩に手を置いて、五嶋は笑って見せた。


「お前もホント、見かけによらず小心者だよ。大胆なことやってのける割に、肝心のところで本音正直に言わないんだからな。ま、そこがお前らしいといえばお前らしいんだが」

「な、何よ……そんな言い方しなくたって──」


 それ以上の言葉を消すように、五嶋はキスでしのぶの唇を塞いだ。

 後ろにいる諏訪と春賀の驚く顔が目に浮かぶようだ。


「……これでわかっただろ?」


 唇を離して言うと、しのぶはまだ呆気にとられていたが、心得たように意味ありげに笑うと、美しい唇を歪めて嫌味を放った。


「……さあね。先生だって、まだ本音言ってないでしょ」

 全く──これだからしのぶはおもしろい。

「わからん奴だな……」

 五嶋は悪態をつきながらも、しのぶをしっかりと見つめた。涙に濡れる瞳の、その奥にいる自分を叱咤するように。


「お前が好きだ。だから、もう……」

 突然──五嶋は床に膝をついた。跪き、しのぶの身体にしがみついていた。

「もう……何処にも行かないでくれ」


 それしか言えなかった。それ以上は言葉にならなかった。

 しのぶを、この温もりを、そして授かった小さな命を──絶対に離さない。離したくない。ただただ愛しくて、抱きしめた腕に力を込めた。


 外は深々と降る雪──冷え込む冬はまだ終わりそうにない。

 けれど、見上げたしのぶの顔に満ちる微笑は、優しく自分の頬を包む手のひらは、満開の桜の隙間にこぼれる春の陽のような暖かさだった。


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