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冬が終わるまで  作者: なつる
一月、そして二月
15/17

 夕刻。

 諏訪が教官室に入ると、五嶋はいつものように椅子に深く腰掛けて雑誌を読んでいた。

 五嶋は諏訪に驚いているようだった。既に秘書としての任は解かれ、晴れて自由の身になっていた自分がここに舞い戻ってきたのだから。


「どうした? まだ仕事手伝ってくれるのか?」

 そう言って五嶋は笑ったが、すぐに気づいたようだ。自分の後ろに、思案顔の春賀がいたことに。

 ソファを勧められると、諏訪は春賀を先に座らせ、自分は日課のようにコーヒーを淹れてから春賀の隣に座った。


「帰る用意で忙しいんじゃないのか?」

「先生にどうしても聞いてもらいたい話があるんです」


 普段は柔和な諏訪が厳しい顔でそう言っても、五嶋は平然とした顔で雑誌に目を落としている。

 諏訪は春賀を見た。彼女は落ち着かない様子で、もじもじとうつむいている。軽く促すと、春賀は決心したように顔を上げて、五嶋を真っ直ぐに見つめた。


「あの……しのぶのことなんです」

 五嶋は、初めて春賀に向いた。


「渡部がどうかしたか?」

「あの……本当は口止めされてたんですけど……」

 親友との約束を破ることに罪悪感を覚えるのか、春賀の口は重たい。

「なんだ、ハッキリ言えよ」

「……しのぶ、『大学に行かない』って言い出したんです」


 諏訪がこの話を春賀から聞いたとき、当然のように五嶋の顔が浮かんだ。

 昨夏には既に合格していた大学に、今時期になって急に「行かない」などと言い出したのだ。これは只事ではない。

 彼女の心変わりの裏には、絶対に五嶋が絡んでいる──諏訪はそう確信していた。

 五嶋は一見無表情だったが、その中にわずかな驚きが潜んでいたことに諏訪は気づいていた。隠していたつもりかもしれないが、三年も付き合っていれば多少の手の内はわかる。

 それ以外の何かを探ろうと思った矢先、春賀がまた口を開いた。続きがあったらしい。


「それだけじゃないんです。しのぶ、最近体調が悪いみたいで、ほとんど何も食べてないんですよ。それなのに……この間、心配して家に行ったら……しのぶ、トイレで吐いてたんです」


 諏訪は飲んでいたコーヒーを噴き出した。

「な、何それ……僕聞いてない……」

「しのぶ……何か変な病気にでもなったんじゃないかと思って……私、心配なんです」

 青ざめる諏訪にも気づかず、春賀は大真面目で親友の病気を心配している。


 ──いや、まさか……そんな? あのしのぶさんが?


 諏訪は五嶋を見るのが怖くなった。いや、別に五嶋が原因という確証はどこにもないのだが、よからぬ妄想が激しい胸騒ぎを引き起こして、顔を向けられない。


 突然、大きな音がした。

 驚いて顔を上げると──それは五嶋が椅子の背に勢いよくもたれかかった音だった。


「……せ、先生?」

 五嶋は答えなかった。天を仰ぎ、目を閉じて、疲れ切った顔でため息をついている。


 一見──それは学生を心配する担任の姿だ。

 が、諏訪には別の意味に思えて仕方がない。それが自分の希望だとわかっていても。

 五嶋はタバコを取り出し、火をつけた。いつもは諏訪に一言断ってから吸うのに、今は気にする素振りもない。

 このポーズの真意は何処にあるのか──諏訪は五嶋から目を離さず、その一挙一動を見守っていた。

 しばらくの沈黙の後、五嶋は静かに口を開いた。


「……諏訪」

「はい?」

「オレは……どうすればいい?」


 この期に及んでこの物言いとは。諏訪は呆れたが、はたと気付いた。

 これは五嶋が初めて見せた弱み──顔は平然としているが、この人は今、人生最大の山場を迎えて苦悩しているのだ。


「……決まってるでしょう。しのぶさんのところに行ってください」

「オレが行ってどうする?」


 そう言って五嶋が見せた笑みは、どこか弱弱しかった。

 こんな五嶋は見たくない。殴りたくなる気持ちを抑えて、諏訪は言った。


「先生としのぶさんの間に何があったのか、僕は詳しく知りません。けど僕は……しのぶさんを守れるのは先生しかいないと思います」


 五嶋の手元から紫煙が静かに立ち上っていた。火はつけたものの吸うのも忘れて、諏訪の顔をじっと見つめている。


「お前は……オレがあいつを幸せにできると思うのか?」

「何がしのぶさんの幸せになるのか、それを決めるのは先生じゃなくて、しのぶさん自身なんじゃないですか?」

 五嶋の目をしっかりと見る。傍から見ればにらみ合っているように見えるかもしれない。

「逃げないでください。これ以上、らしくないこと言ったら殴りますよ」

 どのくらいそうしていただろうか。ふと五嶋は視線を外してシニカルな笑みを浮かべた。


「……お前ってさ、イヤミなくらいイイ奴だよね」

「褒め言葉として受け取っておきます」

 諏訪も笑顔で答えた。

 五嶋は大して吸ってないタバコを灰皿に押し付けると、おもむろに立ち上がった。


「よし、行くぞ諏訪」

「えっ、僕もですか?」

「ああ、結城もな」

 突然振られて春賀は目を白黒させていた。それ以前にさっぱり事情がわかっていない彼女は、自分の話が発端で何か末恐ろしいことが始まるのではないかと戦々恐々としている。


「僕らが行っても意味ないでしょう?」

「お前ね、察しろよ」

「へ?」

「……一人じゃ怖いんだよ」


 笑顔とセリフが全く合っていない。

 そして五嶋は胸を張って言った。


「オレが逃げ出さないよう、見張っててくれ」


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