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「先生、これ、どうしますか?」
諏訪が声をかけても、五嶋は椅子に腰掛けてボーっと外を見つめたままだ。
「先生……先生ってば」
「……ん? なんだ?」
「これ、どうするんですか?」
「ん? 何の話だ?」
今日三回目のこんなやり取り。諏訪はため息をついた。
歳が明けて一月。冬休みが終わり、学校に戻ってきた諏訪は、以前とはちがう五嶋のわずかな変化に気づいていた。
心ここにあらず。そんな言葉がピッタリだ。
いや、この担任は元々こんな人間だ──と言われればそうかもしれないが、三年もこの教官室でこき使われてきた優秀な級長にはその違いがハッキリとわかる。
こんな五嶋は初めてだ。
五嶋はこう見えて、実に頭が切れる。
耄碌したような惚け面は、実は相手を油断させる術なのだ。そうして相手が見せた隙に付け入り、弱みを握る。そうなったら最後、この男に骨の髄までしゃぶられ利用されるのがオチ。
そして自身は弱みだらけのように見えて、その実付け入る隙など何処にもない。そんな人間だからこそ、こんな体たらくでも失職することなく准教授の椅子に座っていられるのだろう、と諏訪は思う。
学生に対しても、何も知らないようで、実は細かいことまで何でも知っている。そんな千里眼、地獄耳の五嶋が……どこかおかしい。
話を全然聞いていなかったり、目の前の物に気づかなかったり、そんなことが多くなったのだ。とうとうボケてしまったか──なんて本気で思うわけではないが、思いたくもなるボケっぷりだ。
そんな時、五嶋は決まって窓の外を見つめている。今も降りしきる雪を眺めていた。
今更雪に何の感慨もないだろうと思うのだが……その横顔を見ていると、なぜか授業中のしのぶを思い出す。
おかしいと言えば、しのぶもだ。冬休みが明けた頃から、自分たちをやたらと遊びに誘うようになった。
口が悪いわりに性根は優しいしのぶと語らうのは、春賀はもちろんのこと諏訪も楽しいのでそれはいいのだが、休みが明けてからの妙なテンションには、諏訪でなくとも不審に思いたくなる。
そもそもを思い返せば、彼女の様子が変わったのは秋頃からだ。
しのぶが五嶋の教官室に現れ、諏訪が追い出されたあの日。何があったのかはわからないが、五嶋がしのぶを変えたのだと諏訪は信じている。
刹那的で破滅的で、笑っていても決して本心を見せようとしなかったしのぶ──彼女を変えたのは五嶋の力だと、諏訪は「腐っても担任」と半ばヤケクソのような尊敬の念を抱いていたのだ。
だが最近はここに姿を見せていない。五嶋からそんな話も聞かなくなったし、しのぶ自身も言っていた。
『最近? あー……なんか先生と話すのも飽きちゃったんだよねー。諏訪くんと春賀のジャマするほうが楽しいんだもん』
そう言うしのぶの目が泳いでいたことを、諏訪ははっきりと覚えている。
「五嶋の教官室に行きたくないから」ではなく「行けないから」──そう思えてしまった。行き場所を失ったからこそ、自分たちと一緒にいる、と。
諏訪には一つ、懸念があった。
去年の十二月に入った頃から、五嶋としのぶの間柄を疑うウワサが、一部の人間のあいだでまことしやかに囁かれていたのだ。
もっとも、組み合わせが組み合わせなだけに信じる者も少なかったが、一応真意を正すため、昨年末、学科主任の教授が五嶋を呼び出したのだそうだ。
もちろん、五嶋はそれに対し「何もない」と答えた。担任としてしのぶの相談に乗ることはあったが、それ以上の事は何もないと。教授はそれで納得したらしい。
冬休み前、実に可笑しそうな口調で諏訪に語った五嶋は、最後にこう付け加えた。
『あの渡部が、オレみたいなので満足するわけないだろ』
ごもっとも──と言い掛けて、諏訪はあわてて口を押さえたのだった。
でも──二人とも、あんなに楽しそうだったのにな……
五嶋にしろしのぶにしろ、人のウワサを気にするような繊細さを持ち合わせているとは到底思えない。だが、示し合わせたかのように時期を同じくして変わってしまった二人に、諏訪はどうしても疑問を抱かずにはいられなかった。
自分だってあのウワサが本当だとは思っていないが、二人を一番近くで見てきたであろう自分だからこそ、やはり何かあったのではないかと考えてしまうのだ。