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眩しい朝の光に叩き起こされて五嶋が目を開けると、横に寝ていたはずのしのぶの姿はなく、消えかかったぬくもりだけが残されていた。
身体を起こしてむき出しになった肌に、冷え切った部屋の空気が沁みる。
部屋の中を見渡しても、彼女の影も形も見つけられない。殺風景な部屋がただ広がるだけだ。
あれは夢だったんだろうか──なんて思えるほど、ロマンチストでもオプチミストでもない。あれが夢なら、自分のこの体たらくはなんだ?
しのぶが出て行ったのさえわからないくらいに、深く眠っていたらしい。未だ身体に残る心地よい疲れが、それをはっきりと教えてくれる。
寒さに震えてもう一度布団に潜り込むと、枕元に置いてあった一枚の紙切れが目に止まった。ベッドに横たわり、その紙を天にかざす。
『ありがとう。先に帰るね』
流麗なしのぶの字。
大きく息を吸い込むと、微かに香る彼女の匂いに胸がズキンと痛む。
ため息をついて痛みを逃がし、眩しい朝日を遮るように腕で目を覆った。
「ありがとう……か」
呟きは一人残された部屋に木霊して消える。
目を閉じた暗闇に浮かぶ、しのぶの顔──
「後悔するのはオレのほうだったな」
しのぶの気持ちには気づいていたはずだ。
気づいていながら──なぜしのぶを抱いてしまったのか。
彼女の口車に乗せられて? いや、ちがう。
自ら乗ったのだ。しのぶの挑発を「口実」にして。
自分の気持ちを確かめるために……いや、それでさえも気づいていたはずなのに。
いつしか彼女を想っていた。
朗らかな笑顔に、皮肉たっぷりな冷笑に、騙されて怒る顔に、瞳から零れ落ちる大粒の涙に──そして時折見せた、柔らかな春の陽のような微笑に、その全てに心奪われている自分がいた。
その想いは少しずつ、それは音もなく深々と降る雪のように、いつしかこの胸に降り積もっていたのだ。
罪悪感はさらさらない──と言えば嘘になる。超えてはならない「一線」に怖気づいていたわけではないが、歳の離れたしのぶに好意を抱いている自分に気がついて、恥ずかしさにも似た罪の意識を抱いたことは確かだ。
そして今、罪は本物になった。
しのぶが自分を愛しているとわかっていたのなら、彼女を突き放すべきだった。
『ありがとう』
礼を言われるようなことは何一つしていないのに……
情けではない。この想いは親切でも思いやりでもないのだ。
あの時、しのぶに言った「後悔するぞ」という言葉は、本当は自分自身に向けられたものだった。
その答えを彼女に託してしまった。彼女のせいにしてしまった。
ほんの少しの罪悪感が、一線で踏み止まることも、素直に想いを伝えることさえも不可能にしてしまったのだ。
五嶋はもう一度、大きなため息をついた。
空っぽになった胸を満たすのは、深い後悔のみ。
カーテンをわずかに開けて見えた空は青く、降り積もった雪が光を反射して忌々しいほどに眩しい。
この雪が解けて春になれば──しのぶは学校を卒業して遠い地に旅立つ。
『私は三月になったら卒業して、ここからいなくなっちゃうのよ』
しのぶの言う通りだ。
卒業まであとわずか。
そんな残り少ない時間で、自分に何が出来る? 彼女に何を残せる?
引き止めてまでしのぶを幸せに出来るだけの力が、自分にあると言うのか?