8.
もし、この女を殺したら、ウィリアムはどうするのだろうか。
ロゼットはおびえる母親をながめながら、ぼんやり考えた。
「――王女!」
耳元で大声を出され、ロゼットはようやく我に返った。寝ぼけていた頭が冴え、自分が何をしていたか自覚する。逆手に握ったナイフが、母親の白い喉にあてられていた。
「ロビュスタ様、大丈夫ですか!?」
「え……ええ……大丈夫、大丈夫よ。ごめんなさい、貴女がうなされていたものだから、起こそうとして」
ウィリアムは二人の間に入り、気を失いそうなロビュスタの背を支えた。ロゼットはようやく状況を把握し、手を下ろす。
「ごめんなさい、お母様……」
「いえ、いいのよ。眠っているときに近づかないでといっていたのに、無視して近づいた私が悪いの。あなたは悪くないわ」
眠っているときですら、安心できない。ロゼットは寝ているときでも反応できるよう、自分を訓練していた。もちろん、意識が無いので敵味方の区別はない。近づいてきた者すべて、反射的に攻撃する。手加減も一切なしだ。
幸いなことに、今回はぎりぎり一歩手前で踏み止まれたらしい。踏み止まれなくてもよかったけどな、と思いながら、ロゼットはナイフを捨てた。
「どんな夢を見ていたの? ずいぶんうなされていたけれど」
「……たいした夢じゃありません。心配しないで下さい」
嘘だった。たいした夢だった。兄弟に城の屋上から突き落とされたときの夢だ。通りかかった人も、だれ一人として立ち止まらず、そそくさと去っていった。身体が治るまでのあいだ、雨が冷たくて、がちがちと震えていた。
だが、そんなことをロビュスタにいいたくはなかった。弱みを晒すようで嫌だった。適当に話を作る。
「ウィリアムが、悪趣味な金と紫の服を着てヘソ丸出しで逆立ちをしながら足の裏を使って皿を回し、不細工メイクをほどこして町を練り歩いて笑いものにされつつも私を追ってくるっていう、すごく最低最悪な夢だっただけです」
ロビュスタは小さく吹きだし、ウィリアムは絶句した。
「……それは……なんというか、すまない」
どういっていいのかわからず、ウィリアムはとりあえず謝った。ロビュスタはくすくす笑いつづけている。
「ロゼット、身体を拭きましょう。すごい汗だわ。ウィリアム、外に出ていてくれる?」
「かしこまりました」
「一人でしますから……」
「やらせて。あなたを脅かせてしまったお詫びに」
だれであっても、身体に触れられるのはごめんだったが、ロゼットは黙って服を脱いだ。ロビュスタに身体を拭かれるのを、じっと耐える。終わると早々に服を着て、またベッドに潜りこんだ。
「また寝る?」
「すみません、よく眠れなかったので」
「今度はいい夢を見て」
額に口付けられ、ロゼットはびっくりした。が、親子だったら普通のことだったな、と思い出す。額を押さえる娘に、ロビュスタはぎこちなく笑いかけ、部屋を出て行った。
扉を閉める音とともに、まぶたを閉じる。研ぎに出しているせいでそばに槍がなく、心もとなかった。外は雨。しとしとと、細かい雨が降りつづいている。悪夢の原因はこれだろう。
「……うるさい」
夢でこだましていた兄弟の笑い声が、まだ耳にこびりついて離れない。ロゼットは頭から上掛けをかぶった。
「王女、起きているか?」
「寝てる」
「起きているじゃないか」
ウィリアムは湯気の立つコップを差し出してきた。ハチミツでも入っているのだろう、温めたミルクは甘いにおいがした。
「喉が渇いているだろう? 眠る前に、水分を補給した方がいい」
「いらない」
ロゼットは不機嫌な声で応じ、顔をそむけた。本当は喉がからからに渇いていたが、欲しくなかった。だれとも話したくない気分だったのだ。
「冷たい飲み物の方がよかっただろうか?」
「そういう問題じゃない」
ウィリアムはカップを持ったまま、枕元をうろうろしている。何か飲まないことには立ち去りそうにない。ロゼットは起き上がり、気だるげに髪をかき上げた。
「君、子供にうるさがられてない? パパうざい、とか娘さんに言われてそう」
「……」
そんなことはないと思うが、そうだったらどうしよう、とウィリアムは不安げに立ち尽くした。ロゼットはバカにしたように笑ったが、半分は本当におもしろくて笑った。
「何? 人の顔、じっと見て」
「あ……すまない。王女の目の色は母と同じだから、つい」
ウィリアムは懐かしむように、ロゼットの新緑色の目を見つめた。綺麗な色だ、と褒めらて、ロゼットは背中が痒くなった。話題をそらす。
「君はラヴァグルートに帰らないの? 家族、残したまんまなんでしょ?」
「私は王に、ロビュスタ様をお守りするように命じられた。帰るつもりは毛頭ない。家はもともと裕福だから、私がいなくとも、家族が生活に困るようなことはないだろう」
「心配じゃないの?」
「もちろん気にはなるが、ロビュスタ様を一人残していくことの方が心残りだ。父も息子も健在だし、大丈夫だろう」
本当に王家の犬だな、とロゼットは身も蓋もなく評した。
「石頭。裏切るって言葉すら知らなさそうだね」
カップを受け取ろうと手を伸ばす。が、ウィリアムが動かない。ロゼットは顔を上げた。天気の悪いせいで室内は薄暗い。相手の表情が、いつもより翳って見えた。
「……違う。私は昔、王を裏切った。だから……」
言葉はつづかなかった。先を促そうとしたが、突然、地面が揺れて会話が途切れた。
地震だ。カップからミルクがこぼれかけたが、なんとか落ちずに済んだ。たいした揺れではなかったが、がちゃんと物が落ちる音がして、ロビュスタの短く叫ぶ声がした。ウィリアムは小卓にカップを置き、隣室へと走っていった。
「……」
ベッドから出るのが面倒くさい。ロゼットはカップには手をつけず、寝台に横たわった。
「ロゼットは?」
「大丈夫です。まだ寝たいそうですから、そっとしておきましょう」
「そうね。あんまり構われるのは好きではないようだし」
さっきの地震でティーポットでも落としたのだろう、侍女が呼ばれて、陶器の破片を片づけている音がした。
まぶたを閉じると、徐々に眠気が襲ってきて、物音が遠くなっていった。雨音と、衣擦れの音と、陶器の擦れ合う音。どれも柔らかい。侍女がドアを閉めて去っていく頃には、夢と現が交じり合っていた。
「……びっくりしたわ」
「そうですね。ここのところ、地震が多くて困ります」
「そうじゃないの。あの子のこと」
「襲われたことですか?」
「それもよ。私、本当に取り返しのつかないことをしたんだわ。あんなふうに育って。これから先、あの子、どうやって人と関わっていけばいいの?
あなたは見てないでしょうけど、あの子の身体、全身、傷だらけなの。冠の力にも限界があるのね。治しても治しても追いつかないくらいケガばかりしていたんだわ」
隣室とは、薄絹一枚で隔てられているだけで、ドアはない。声は潜められていたが、だいたいの内容を聞き取ることはできた。
「……いえ、違うわ。知っていたけれど、私はずっと目をそらしてきたの。どこかで、あの子が死ぬのをずっと待っていたの。
だったら、生まれたときに『いばらの冠』をかぶせないで放っておけばよかったのにね」
ロビュスタがわずかに自嘲しているのがわかった。
ロゼットは生まれるのが予定より早く、未熟なまま生まれてきた。余計なことをせず放っておけば、ロゼットはとっくの昔に穏やかに死を迎えられていた。
「あの子が生まれたとき、目の色が緑色だって知って、私は愕然としたわ。青い目で生まれてくると思っていたんだもの。
青い目で生まれてきて、何も知らない偽者の父親に存分に愛されて、幸せに育つの。それが私の王へのせめてもの復讐だったのよ」
ロゼットはまどろみの中、その独白を聞く。
「失敗したとわかった時点で、私はあの子をそのまま死なせてあげるべきだった。なのに、この子を殺す権利が私にあるのかって、そう思ってしまったの。
でも、本当はそんな人道的な感情は後づけで、ただ自分の身がかわいかっただけ。周りから王族として、王の側室としてふさわしくない行動をしたことを責められて、動揺して、あの子に冠をかぶせたの。あの子がどんな思いをしながら育つのかなんて、全く考えてなかった。
あとから悔いても遅いわ。私にはみんなから疎まれる子を愛する勇気もなければ、助ける勇気もなかったのよ」
ロゼットは固く目を閉じた。現実への意識がぼやけ、代わりに、幼い頃の記憶が鮮明によみがえった。
ロゼットが母親に関して思いだすことは、雨だ。
ロビュスタの憂いをおびた麗姿は、けぶる景色と合わさると、一枚の絵画のようだった。城の中庭で、ロゼットは木の影に隠れながら、それをよく眺めていた。
雨になると、ロビュスタはかならず回廊に出た。不安そうに歩き回りながら、中庭をしきりにのぞくのだ。王や召使たちは不思議がっていたが、ロゼットには分かっていた。自分を探しているのだと。
しかし、姿を見せに出て行ったことはなかった。どうしても見つけたいのなら、雨の当たらない回廊になどいないで、雨の降る庭に出てこればいいと、ずっと物陰に身を潜めていた。
中途半端な優しさは欲しくなかった。いつ放されるかも分からない手にすがるのは、一層惨めで、無様で、悲しかった。それなら一人の方がましだった。
弱い母親。だれかに背を押されなければ、進む方向すら決まらない。ただただ、川面に浮かぶ木の葉のように流されていく。ロゼットはその姿に軽蔑と、一抹の哀れみと、ああなるものかという教訓を覚え、胸に刻みつけていた。
「罰が当たったのね。ただ復讐のためだけに子供を生もうとするから」
「ロビュスタ様、あなた一人の責任ではありません」
「いいえ、私一人の責任なのよ。断れないのを知っていて、私は頼んだのだもの。ごめなさい。謝ったってどうにもならないことだって分かっているけれど、ごめんなさい。私は貴方の気持ちを踏みにじった上、こうして貴方の人生も台無しにしてしまった」
ロビュスタの声は弱々しく、泣き出しそうだった。
「どこまでも最低な女だわ。どうしてもっと早く、大事なものに気づけなかったのかしら」
かすかに聞こえる嗚咽から逃れるために、ロゼットは眠りの世界に落ちた。