1.
※エセル視点のお話です
エセルがマスカード伯として政務に復帰し、数ヶ月が経過した。
領地の混乱はひとまず収まり、失われた権限と名誉も取り戻した。
裏切った者には然るべき罰を、信頼できる者には再びその場を。
領主としての評判も、ほぼ回復している。
しかしその裏で、エセルはもう一つの課題に頭を悩ませていた。
ロゼットの身体の治癒だ。
政務の順調さとは裏腹に、こちらの進捗は芳しくない。
「……うまくいかんな」
徹夜明けの目に、朝日がまぶしい。
時間切れを悟って、エセルは呪具のひとつである香炉にフタをした。
ため息とともに、肩を落とす。
目の前――エセルの寝台には、ロゼットが横たわっている。
昨晩から今にかけて、エセルは彼女の治療に励んでいたのだ。
『エセルは、治癒魔法に対して身構えすぎだよ。
緊張のせいで、魔法が本来の半分も働いてない』
頭の中に響くのは、エセルの主――エヴァンジェリン一族の神の声だ。
『物を動かす魔法のときは、動かしたいと思ってやるでしょ?
身を守りたいときは、守りたいと思ってやるでしょ?
治癒魔法も同じだよ。相手を癒したいと、ただそう思ってやらなくちゃ』
性格はふざけているが、魔法の師としてはこれ以上ない相手だ。
嫌々ながらも、エセルは耳を傾ける。
『もっと心をくつろげて。患者を治したいとだけ願って。
余計なことは考えない』
――やっている。
そう反論したいが、現実を鑑みて言葉を呑む。
ささくれ立つ心を抑え、静かに問うた。
『何が足りない?』
『患者のこと――いばら姫のぜーんぶを自分の優しさで包みこんであげたいと思う、海のように広く、谷のように深い愛』
『……また呼ぶ』
エセルは不機嫌に会話を打ち切り、後始末にかかった。
部屋の中は――一般人から見れば――異様な状態だ。
隅という隅に呪符が貼られ、床には枯れた薔薇の花が散乱している。
患者の下には魔法陣を描いた布、サイドボードには宝剣や杯、本や香炉。
どこを見ても怪しげなものばかりだ。
「戻れ」
エセルは掛け声とともに、手を一叩きした。
一瞬にして、部屋は治療を始める前の状態へと戻る。
念のため、取り残しがないか目視で確認する。
万が一、使用人に呪具や薬草を見つけられると困る。
この時代、魔法はすでにおとぎ話。使うには、常に細心の注意が必要だ。
(……まだ、起きそうにないな)
ベッドに横たわるロゼットのまぶたは、固く閉ざされたままだ。
一度止めた術が動き出すには、少し時間がかかる。
そう分かっていても、毎度この時間は落ち着かない。
もし目覚めなかったら?
取り返しのつかないミスをしていたら?
苦手意識があるだけに、心が乱される。
(呼吸は正常。脈拍も問題なし)
不安をなだめるように、患者の首筋に触れる。
温かな肌が、生きていることを知らせてくれる。
(……表面の傷くらいは、さっさと消せると思っていたんだが)
シャツの合わせ目からのぞく、鎖骨の傷痕をなぞる。
傷はそこだけではない。胸部や腹部、素足にもある。
(それどころか、臓器にまであるというのに)
ため息がもれる。
気が急くのに成果は出ない。空回りしている実感がある。
「……愛情、か」
ぽつりと、エセルは神からの助言をつぶやいた。
脳裏に、ロゼットとのこれまでの思い出が蘇った。
初対面でナイフを向けられたこと。
その後には平手打ちもされ、槍で威嚇もされたこと。
再会したときにも、やはりナイフを向けられたこと。
「……いつ芽生えろと?」
相手の意識がないのをいいことに、エセルはその頬をつねった。
脱力し、文机に身を預ける。
そのまま、少しだけ眠ってしまったらしい。
気づくと、寝台は空になっていた。
ロゼットは窓際にいた。
カーテンを開け、外をきょろきょろ眺めている。
「調子はどうだ?」
エセルは立ち上がり、さりげなくロゼットを窓際から遠ざけた。
なにせ彼女の服装は、大きなシャツ一枚。鎖骨はあらわ、素足もむき出し。
女性としてはあまりにも無防備な姿だ。
「ゆっくり歩いてみろ」
手を差し出して促す。
しかし、相手は動かなかった。
戸惑った顔で、ただ立ち尽くしている。
「どこか違和感でもあるのか?」
眉をひそめると、小さな唇が開いた。
ところが、声がかすかで聞き取れない。
「声が出ないのか? 喉を見せろ」
エセルが手を伸ばした瞬間、相手は飛び退いた。
きれいなグリーンアイがまん丸に見開かれている。
瞳孔の開いた目に宿っているのは、怯えだ。
「――」
また、何か言っている。
エセルはなんとか聞き取ろうと、一歩踏み出した。
途端、追い詰められたように、相手が大きな声を出した。
「あなた、だれ?」
その一言で、エセルは自分が何をやらかしたのか把握した。




