19.
裁判の日の朝、ロゼットがラベットの部屋をおとずれると、さわがしかった。
判事官たちがラベットをかこんで、あわてている。
「――証言、ひっくり返った?」
ロゼットが小声でたずねると、ヤナルは深くうなずいた。
「判事官が裁判のために、ラベットを判事のところへ連れていこうとしたら、ラベットが『そんなことは知らない』といいだして。この騒ぎ」
マリアが魔法を解いたのだ。
ラベットの表情は、こころなし、夢からさめたようにすっきりとしているように見える。
「伯爵は?」
「もう広間に行ってると思う。僕は一応確認しに、寄り道してきてるだけ。心配なさそうだね」
ロゼットは広間に足をむけた。廊下にまであふれる聴衆をかきわけ、なかに入る。
なかは、今日のために机やイスが並び替えられていた。
手前と中央はひろく開けられ、両脇は原告と被告のための席が用意されている。
正面に判事と陪審員の席があり、判事以外は着席していた。
古く、無骨な城だが、広間は立派だ。
要塞としてつくられ、実用性に重きをおいた城だが、昔から宴にもつかわれるここだけは、手が込んでいる。
他とはちがう石材を使い、柱に装飾をきざみ、正面の高いところには、戦装束に身をつつんだ女性の像が安置されている。
この地方の、戦の女神かなにかか。
大陸で信仰はなくなったというが、古い城だ、過去の遺物がのこっていてもふしぎはない。
ロゼットが像を見上げていると、甲高い、金切り声がひびいた。
「――指輪がない!?」
モンクリフ夫人だった。
聴衆の雑談がぴたりとやむほど、切迫した叫びだった。
正面の長机に座った陪審員も、きょとんとして、東側の原告の席に目をやった。
「どういうことよ、なくなったって。どこに落としたの!」
「落としたんじゃねえよ。盗まれちまったんだよ。リリックの野郎に」
けだるげに答えるのは、カークだ。
みるみる変わる母親の顔色を、おもしろそうにながめる。
「……なんですって?」
「ヨランド先生たちの誠意ある治療によって、ラベットのやつがミセス=マスカードと深い仲だったなんて阿呆な夢からさめて、正気にもどりそうだって教えたら、俺のもってた指輪もって逃げちまったんだ」
メリナは青ざめた。
立ち上がって周囲を見回し、リリックの名を呼ぶが、返事はない。
「嘘よ。嘘! リリック! どこ!」
「あんたみたいなババアと心中する気はないってよ。手切れ金にもらってくぜって。
よかったな、あんな詐欺師と早めに手が切れてよ」
カークはパチパチと手をたたいたが、メリナは呪い殺さんばかりの形相になった。
制止する夫の手をふりほどき、息子の襟をつかむ。
「どこが! あんたって子は、どこまでも!」
「……本当に、救いようがねえなあ、あんたも」
カークは苦しそうに眉をひそめた。
顔をかたむけ、母親のななめ後ろを見やる。
「おまえもさあ。いつまでもこんなやつのために苦しむなよ。
たかが衣装一枚台無しにしたくらいで、クビにされて、自殺するなんてさあ。バカげてる。ムダだぜ?」
カークが話しかけている場所は、虚空だ。
メリナはいっそう青ざめた。
何をいっているの、とわめき散らす。
「いつものたわごとだよ。気にすんなって」
「いつもいつもいつも。やめてよ。あんたがそうだから、あたしまで変な目で見られるのよ。恥さらし! あんたなんか産まなきゃよかった!」
「知ってるよ。俺だって、生まれたくなかった」
広間中が、しんとしずまり返っていた。
判事が人ごみをかき分けて入ってきても、だれも見ない。気づきもしない。
全員がモンクリフ親子のやりとりに、目と耳をかたむけていた。
「メリナ、落ちつけ。すこし外に出よう」
コシモが周囲の注目を浴びていることに気づき、メリナをなだめはじめた。
「カークは少し心に障害があるだけだ。近頃は、精神科医というものがいるらしい。見せればよくなるさ。こいつもきっとまともになる」
コシモはメリナを立たせようとするが、メリナは泣きくずれるばかりで動かない。
しかたなく息子に助けを求めるが、カークもその場を動かなかった。
「あんたも、まあ、よくこの女につきあうよなあ。あんたが今も昔も惚れているのは、ミセス=マスカードだけなのにさ」
「おまえ、急に、なにを」
「彼女に少しも相手にされなくて、おまけに恥かかされたものだから、おかしな感じに歪んだ愛情表現をその息子にしてさ。
あんたの方がその精神科医とやらに見てもらった方がいいと思うけど?」
コシモの顔が赤黒く染まる。
「わ、私のことはどうでもいい! おまえはまともじゃない」
「あんたらがまともで、俺がまともじゃないって、どうして言い切れる? 俺には、あんたらの方が狂人に見える」
「狂人だと? これだけ大勢の人間が見えないといっているのに、見えるというお前がおかしいのだ。どうしてわからない!」
カークははっ、と笑った。
身体をゆらし、へらへら、ふざけた笑いを浮かべる。
白痴のような息子のふるまいに、コシモは天をあおいだ。
「また、酒か、妙な薬でもやっているのか」
「妙な薬といやあ。ヨランド先生、エセルの補佐役って主張してるあんたにいいたいことがあるっていってたぜ」
人だかりの奥から、アルフが姿をあらわした。
つかつかとコシモのまえに歩みでると、わきに抱えていた分厚い帳簿を、ドンと積む。
「今は裁判中だ。用があるなら、あとで聞こう」
「裁判? なんの? 指輪はなくなった。ラベットの証言はくつがえった。なにをはじめるっていうんです? モンクリフさん」
面食らうコシモに、アルフはずいと身を乗り出した。
「裁判なんて、もうどうでもいいでしょう。それより、私と世間話をしましょう。
役人にいっても、らちが明かないのでね。伯の補佐役として実務をとっているあなたにいおう。販売が認可制の薬物についてた。
役人たちの審査がいいかげんなせいで、麻薬になりうる危険な薬物が、一般にかるがるしく流通していてしまっている。
販売側は販売先と販売量を、処方する側は使用記録を残さなければならないが、この記録簿を見ればわかるように、どちらもまったくいいかげんだ」
アルフはいくつか帳簿をひらき、コシモに示す。
「あきらかにおかしいのに許可し続けるとはどういうことなんだ?」
「私には、医療のことは部外者なのでね。担当の者に一任しているんだ。そんなことになっているとは、知らなかった」
「あきれた。そんな態度でよくもまあ、補佐役を名乗れるものだ。
先代のマスカード伯のときには、こんなことはなかったのに」
アルフは同意をもとめるように、聴衆に視線をめぐらせる。
つめたい視線がコシモにふりそそいだ。
「この薬のことは、担当に一任して知らないとおっしゃいますがね、モンクリフさん。
あなたは、薬問屋や一部の医者と、ひんぱんに会っていらっしゃいますよね? 一カ月ほど前も、高級娼館ではでな遊びをなさっとか」
「言いがかりだ!」
アルフは手をたたいた。何人かが、広間の中央に歩み出てくる。
たちまちコシモの表情がこわばった。
「皆、あなたから、認可のために見返りを要求されたと証言していますが」
「嘘だ! そんなことはいっていない。嘘っぱちだ!」
「何人もの証人がいて、まだ否定なさるとは。正気とは思えない」
アルフはこれみよがしに、ため息を吐いた。
「医者を紹介しましょう。精神科医を。
正気を取りもどし、きちんと現実が見えるようになるまで、しばらくゆっくり、ご静養なされては?
先ほどご子息におっしゃっていましたよね。大勢の人間の言うことが絶対にただしいと。
なら、おかしいのは、あなたの方でしょう?」
カークが吹き出した。
アルフの慇懃な嫌味に、腹をかかえて笑う。
「そうしろよ、親父。あんたの書斎に後生大事にしまってあったこいつは、マスカード家の家令にあずけておくからよ。きっと大事に取っておいてくれる」
カークの手にある小さな手帳に、コシモが真っ青になる。
「それは!」
「そう、裏帳簿ってやつだな。感心しねえなあ。仮にも領主代行ともあろうお人が、自分の商売で脱税とは」
「おまえというやつは! 今まで、育ててやった恩を忘れて」
「一番の恩返しじゃねえか。療養が終わったら、清く正しい一市民として働けよ?」
「ふざけるな! できの悪いお前を学校に入れ、卒業させるのに、どれだけ高い金を払ってやったと思う!
何もおぼえず、あげくこの始末とは!」
「できの悪い息子で悪かったな。でも、学校でいってたこと、一つだけ覚えてる。
富めることにおごらず、弱きを助け、貧しいものに施すのが真の貴族だって。
あんたは貴族の称号を買ったけどよ、器じゃないよ。最高の教育をどうも」
カークはマスカード家の家令をみつけると、手帳をあずけた。
さあ、と泣きくずれているメリナと、放心しているコシモの腕をつかむ。
「立て。城から出ろ。おまえらがいていい場所じゃねえ」
「カーク」
「待て、おまえ」
「やっとまともに俺を見たな、クソ野郎共。でも、もう遅えんだよ。これが最初で最後だ」
カークは抵抗をゆるさない力強さで二人をひきずり、マスカード家の使用人たちに引き渡した。
「亡者の仲間にされたくなかったら、二度と俺のまえにあらわれるな!」
叫ぶ男の真後ろで、戦女神が微笑していた。




