2.
エセルもエドロットも部屋を出ていくと、ロゼットは外の明るさをうらめしげにした。
いつもなら、朝起きるとまず動きやすい服に着がえ、警備兵の朝の訓練に参加する。
終わると、部屋にもどって服装をあらため、伯爵殿と朝食という段取りだ。
しかし、今日は前半を省略せざるをえない。
「へんなことはするもんじゃないな」
ふたたび小卓に目をやると、ガラスの筒が消えていた。
エドロットがもっていったらしい。
ロゼットも中身を知らないといったので、ヤナルに判別してもらうためもち去ったのだろう。
ロゼットはベッド脇にたれ下がっている紐を引いた。召使いを呼ぶ、呼び鈴とつながっている紐だ。
ほどなくして、メイドがやってきた。
「とりあえず、新しい洗面器をもらえる?」
メイドは割れた洗面器に目を見張っていたが、すぐに指示にしたがった。別室からべつの洗面器をはこんでくる。
「着るものも。特別な用はないからいつも通りでいい」
ロゼットが顔を洗っているあいだに、メイドはクローゼットにかけられた衣装――もとはエセルのもの――の中から、服をみつくろった。
大陸の服装に慣れていないため、ロゼットの服のみたてはメイドまかせだ。
「終わったら呼ぶから」
ロゼットは着替えを手伝おうとするメイドの手をことわった。
「あとで片づけお願い。けがに気をつけてね」
ロゼットは割れた洗面器を指差した。
メイドはかしこまりました、と頭を下げた。しずしずと退室する。
割れた洗面器に対し、何があったのかとよけいな詮索はしない。
召使いの手を借りたがらない客人によけいな関心もむけない。
ここの使用人たちは主人や客人との距離感をきっちりと――少々かたくななまでに――守る、よくしつけられた召使いたちだった。
「肩こるな、ホント」
庶民育ちの客人は、ぶつくさいいながら、シャツのそでに腕をとおした。用意された服に着替え、髪をとかす。
鏡はろくにみない。ロゼットは、肉親ににつつある自分の顔をきらっていた。せっかくとかした髪をみだしてしまいたくなる。
廊下に出て、掃除用具を手に待っていたメイドに、いで立ちについて意見をもとめる。彼女がよければそれでよし、だ。
メイドがうなずいたので、ロゼットは主階段を降り、食堂へむかった。
館内の召使たちは、すでに仕事をはじめていた。
ロゼットが食堂へ入ると、食卓には一人分の食事が残されているだけだった。
エセルもすでに食事を終え、ヤナルと何か話をしている。
「おはよ、ロッツ。気持ち悪いみたいって聞いたけど、大丈夫?」
「おはよ、ヤナル。昨晩はさんざん吐いたけど、もう平気」
いつもより起きるのが遅れたせいで、空腹だった。
卵のスープも羊肉のソテーも冷めていたが、見ただけでも食欲をそそられる。
ロゼットはさっそくパンに手を伸ばしたが、無情な一言にさえぎられた。
「下げろ」
主人の一言で、執事が皿を取りあげた。
エセルが無言で、ガラスの筒を差しだす。ロゼットの部屋の小卓にあったものだ。
ヤナルとこれの中身について、話していたところだったらしい。
「これはなんだ」
ロゼットは片眉をあげた。
エセルのうすい唇はかたく閉ざされ、怒りの強さを示している。
「……今日の伯爵様は、朝からやけに元気だね」
怒りに気づいていながら、ロゼットは相手を挑発した。朝食を取りあげられた仕返しだ。
「俺に話をさせてください!」
ヤナルが即座にエセルの爆発をおさえた。筒をさし示しながら、おちついた口調で問いかける。
「これ、今朝、ロッツの部屋にあったらしいんだけど……ロッツのなの?」
「そうだよ」
「どこで手に入れたの?」
「もらったんだよ。昨晩会ったおっさんに」
「おじさん?」
「眠れなかったから、外を散歩してたら会ったやつなんだけど。
三十路ちかいなあ? 髪も服もだらっとしてて、歩き方もふらふらしてて、このあたりで見たことない人だった」
素性をたずねると、この館の関係者というあやふやな返答があった。
名前を聞いてもはぐらかされ、まっとうに仕事をしているような雰囲気もなく、どうにもあやしい。
ロゼットが強盗かと不審がっていると、男は妙なことをいった。
「変なやつでさあ。『俺には何もできない。つきまとうな』っていうんだよ」
「何もできないから、つきまとうな? 強盗にしては変だね」
「さらには『何が欲しいんだ?』っていうから、『眠れないからお酒ちょうだい』って答えたんだ。
そしたら『酒はないから、代わりに』って。その筒を足元に投げてきた」
ガラスの筒はコルクで栓をしてある。ラベルはなく、なんの薬かはわからない。
男は、鼻から少量吸うといいという助言だけして、そそくさと立ち去ってしまった。
ロゼットは自分で、眠り薬かなにかと推察した。
「ちなみに、詰所のやつに怪しい男がうろついてたって報告はしておいたから」
ヤナルは男の正体にこだわってはいなかった。
「自分から欲しがったわけではないし、何かも知らないし、初めて使ったんだよね」
「そうだけど?」
ヤナルはほっと表情をゆるめた。
エセルの許可を得て、ロゼットの前に食事をもどす。
「ロッツ、それ、危ない薬なんだ」
「知ってるよ。吸ってすぐきもち悪くなって、吐きまくったし。意識がふわふわして変になるし。何度吐いたことか」
「最初はね。ところが、何度もくりかえすと、身体がなれてくる。吐くこともなく気持ちよくなるんだ。
鎮痛剤を精製してつくられる、とても依存性の高い麻薬で、完全に依存するようになると――」
「廃人同様になる」
二度と使うなと釘を刺すように、エセルが口をはさむ。
ロゼットは筒をヤナルの方へころがした。
「暇つぶしにしてみたようなものだよ。気持ち悪くなるし、嫌な夢は見るし、最悪。僕にはあわないね」
「ためす前に、俺に聞いてね。もう不死身の身体じゃないんだから、変なキノコとか、魚とか、植物とか、自分で試すのはダメだよ。
それから、もしあやまって口にいれて、気分が悪くなったら、夜でも何でも、俺を呼ぶこと。いい?」
「ヤナル先生の仰せのままに」
怒りは解けたらしい、エセルが大きく息を吐いて、立ちあがった。
「食べたらホールにこい。今後について話すことがある」
「君の変態おじさんについて?」
「そんなところだ」
ロゼットはバターとジャムをたっぷりのせたパンにかぶりつき、ふぁーい、と返事をした。




