9.
獣が飛び込んできた瞬間、真っ先に動いたのは、ロゼットでもエセルでもなかった。キートたちだ。キートはロゼットを、エドロットはエセルを窓から引きはなし、飛び散ったガラスからかばった。ヤナルは机を蹴り上げ、獣がとびかかってくるのを防ぐ。
「あー、もー、やってらんねー」
「覚えてろよー、あの陰険オヤジめー」
キートとエドロットは、持っていたメダルをそれぞれかばった相手に押しつけた。立ち上がり、腰を低くして獣と対峙する。かまれても牙を防げるよう、上着を左腕にぐるぐると巻きつけ、短剣を抜く。キートは短剣でなく、ポケットから小さな袋をいくつも出した。
「おまえ、なにそれ」
「コショウを挽いたやつ。獣って鼻いいじゃん」
キートは獣の鼻づらに向かってコショウを投げつけた。獣が飛び退る。散ったコショウが風で流れ、ヤナルとエドロットは盛大にくしゃみをした。
「キート、風向き!」
「このアホー!」
獣がうなる。ロゼットは槍を構えた。
ところが、構えた槍はあっさり、ひょいと取り上げられる。しっかりとつかんでいたはずなのに、いとも簡単に。エセルに。
「私はああいう、しつけのなっていない犬が嫌いなんだ」
エセルは槍を片手に、感情の読めない薄青い目で獣をにらむ。獣がうなると、エセルが槍で強く床を打った。
「お座り!」
ビクッと獣が震え、急に止まった。前足をそろえてその場に留まる。キートたちが止めるのも聞かず、エセルはツカツカと威圧的に獣に歩み寄ると、その前に仁王立ちになった。
「お手。お代わり。待て。三回まわって――そこの見物人を取り押さえろ!」
ぎゃっと、窓の外で声がした。間の抜けた声だ。ロゼットたちがのぞきこむと、クレイオが獣に押し倒されてジタバタしていた。
「何やってんの?」
「い、いやー、使い魔が走っていくの見えたので、一応参戦しようと思ってー」
クレイオは上着をかんでくる使い魔に苦労しながら、上半身を起こした。
「すごいですねえ。さすが本物の魔術師。エヴァンジェリンの末裔だ」
「――君、なんで知って」
「私、だてにあなたの島に行ったわけじゃないですよ? この館にはエヴァンジェリンが好んで使っていた薔薇がたくさん植えてあるし、伯はエヴァンジェリンの特徴である銀髪碧眼だし。あなたの呪いを解いたのは、伯だったんですね」
クレイオは微笑した。ありがとうございます、と礼を述べる。
が、エセルの方はというと、友好的とは程遠い表情だった。氷に微笑を浮かべて、クレイオを見下ろす。
「何の目的があって、島のことを調べていた?」
「何って、たんに学術的な好奇心でー」
エセルは問答無用で、クレイオの懐に手を突っ込む。手紙が出てきた。
「島と私のことを、だれかに報告するつもりだったろう?」
「いやあ、そんなことは」
「この国では、私のような人間は脅威だ。たとえ何か妙なことが起きたとしても、そんなことは“ありえない”の一言で終わる。私たちはやりたい放題できる。監視が必要だ」
「……」
クレイオのいつもとぼけてしまりのない表情が、こわばりはじめる。使い魔を押さえ、じりじり後退しようとする。
「このまま無事に帰れるなんて思うなよ」
エセルはクレイオの頭をつかんだ。うっすらと唇を開く。
ところが、呪文は邪魔された。とっさにエセルの腕をつかむ者がいた。ロゼットだ。エセルを強引にクレイオから引きはがす。
「あはははは、どうもお邪魔しましたあっ!」
一瞬のスキを逃さず、クレイオは逃げだした。長い手足を十分に生かし、すばやく走り去っていく。脱兎のごとくという言葉がよく似合う逃げっぷりだった。
「貴様……記憶を消すだけだったというのに」
エセルの声音には先ほどよりも強い怒りが込められていた。ロゼットはうつむき、唇をかんだ。踵を返し、自分も窓から逃げ出そうとする。
しかし、クレイオのようにうまくはいかなかった。見えない力が身体をしばり、動けなくする。四肢が床についた。
「君……魔法が使えないって、本当に嘘だろ」
「ま、嘘だな。以前に比べれば格段に落ちているのは確かだが、魔力が尽きているわけではない。
――エセルは自分で使いたくないから、自分でそう言い聞かせてるんだよ」
「……エセル?」
ロゼットは怪訝にした。途中でがらりと口調が変わっている。
「やあ、いばら姫。ご機嫌いかが?」
「……クソ神、いつの間に」
「今さっき。わんちゃんが飛び込んでくる直前かな。エセルにどういうことだって呼び出されちゃった」
エセルはロゼットの手をとると、腕に口付けた。あっという間に火傷が治る。
「僕のせいで完治していないだって? 失礼だな。君の身体くらい治せるよ。君が完治していないのはね、君を治したのが僕じゃないからだ」
「君じゃない?」
「君を治したのは、エセルだ。本人も気づいていないようだけど」
ロゼットは目を丸くした。
「エセルは君に死ぬなと願った。強く。強い願いっていうのはね、時としてそのままそれを叶える奇跡を起こす。だから君は死ななかった」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。今、エセルの魔力が落ちてるのは、君の身体を維持するのに大量に魔力を消費してるからだとしたら、納得でしょ?
慣れてない術だから、効率悪くて不完全でへったくそな出来だけどねえ。この腕に、胴に、足に、すべてに君が生きることを望む魔法がかかっているんだよ。すごいでしょ?
君も生贄に必要な頭数だったんだけど、そこまで必死なことされちゃ、許さないわけにいかないじゃないか」
神様は慈しむように、ロゼットの頬を、肩を、腕をなでた。
「君を救ってくれるのは、僕でもないし、死んでしまったお師匠様でもないっていうのはそういう意味。
エセルも鈍いなあ。わざわざ呪具の類を贈ってあげたのは、いばら姫を治す用だっていうのに。呼んでって言ったのも、一人じゃ無理だろうから教えてあげようと思ったからなのに。人の親切を全然分かってない」
「君だって全然伯爵のことわかってないじゃん」
ロゼットのツッコミは軽やかに黙殺された。
「後、寿命の話について誤解があるみたいだからいうけど、“僕から見れば”短い命だけどっていう話だからね」
「……なんでそういうややこやしい言い方を」
「その方が、ほら、盛り上がるかなって。恋人が余命いくばくもないとかって」
「いっている意味がさっぱりわからないんだけど」
「だっていうのに君ときたら。全然色っぽい話にならないし。
ねー、分かってる? 僕、エセルの子供がお嫁さんに欲しいんだからね? 君を生贄から外してあげたんだから、ちゃんと約束果たしてよ?」
「あー、もう、分かった分かった分かってるよ! 後で伯爵を色町でも連れてくよ! っていうか、なんだこの体勢っ」
押し倒されているような状態に、ロゼットは怒鳴った。キートたちは、最初はハラハラしながら見ていたが、今はもう気の抜けた様子だった。使い魔もおとなしくお座りしているので、散らかった室内の片付けなんぞをはじめている。
「なんかわかんねえけど、一件落着ってことでいいんだよな?」
「おつかれさまでした」
「あとは二人でごゆっくりー」
「ちょっと、僕は!?」
「いばら姫はおいたがすぎたからね。おしおき。エセルより、あのヘタレの味方をするって、どういう了見? ボンクラ男と旅に出るなんて許さない。呪うよ?」
「君はストーカーか何かか!」
「じゃ、失礼しマース」
言い争う二人を置いて、部下たちはさっさと出て行った。




