1.
ステンドグラスを抜けて、陽光が惜しみなく流れ落ちていた。赤に青に白に黄色に紫に緑。広間の奥には、まばゆい光の紗ができあがっている。
ロゼットは目を細め、紗の奥に目を凝らした。だが、そこに座るす者の姿を見ることは叶わない。ただ光だけが目に飛びこんできて、まぶしい。白い闇があった。
「どこへ行くの? いばら姫。僕に何もいわず」
光の帳の奥から、女性の声がした。耳にやわらかく響く、上品な声だ。口調とちぐはぐで、どうにも奇妙だった。
しかし、ロゼットは気にしない。初めてのことではなかったので、平然としていた。肩に槍を担ぎなおし、光の奥を見据える。
「ちっ、起きてきたか。寝てるときを狙ったのに」
「甘いよ。この島の神様である僕に気づかれず、島から出られると思ってるの?」
「巫女さんにだけ挨拶していこうと思っていたんだけど。君が憑りついていたなんて、最悪だ」
ロゼットは思いっきり顔をしかめた。
「大陸に行くの?」
「不自由なく動けるようになったし、もうここに用はない。さよならだ」
「残念だな。君にはもうちょっとここに居て欲しかったのに」
「いいじゃないか。僕がいなくなったって、君には神官って言う忠実な僕が残るんだから」
「だからじゃないか。退屈すぎる。僕は犬は好きだけど、毎日毎日犬とばかり遊ぶのはちょっと」
「僕の知ったことじゃない」
「愛してるよ、いばら姫」
「あっそう」
「冷たいなあ」
広間にくすくすと忍び笑いが湧いた。
「エセルによろしく」
「あいつのところに行くとはいってない」
「いいや。行くよ。君は絶対に。そういう運命だもの」
ロゼットは不快そうに眉をしかめた。それに比例して、笑いは大きくなる。ロゼットはますます眉間に峻険な山を作った。
「金髪碧眼の美少女をよろしくね」
「はあ?」
「子供の話。僕のお嫁さんにするから。エセルにがんばってね、って伝えておいて」
「ものすごく嫌がられそうだね。……うん。よし。嫌がらせに伝えとこうかな」
それってどうなの、と幼い神は呆れた。
「いばら姫もがんばってね。大変だと思うけど」
「何が? 大陸の暮らし?」
「色々。身体を大事にね。むちゃしちゃだめだよ? 短い命なんだから」
気遣いに対し、ロゼットは露骨に嫌そうにした。さっさと踵を返す。
とたん、背負っていた荷が重みを増した。ずしり、と荷袋のひもが肩に食い込む。
「……何した」
「エセルに贈り物。いつでも呼んでって言っといて」
「僕の荷物は」
「どうでもいいよね? 君の荷物なんて」
神様はあっさり言い放った。
「ああ、いばら姫。生まれたときにいばらの冠を被せられた、かわいそうないばらの姫」
「何度も呼ぶな。だいたい、僕にはちゃんとした名前がある」
「ロゼット・ラヴァグルート、だっけ?」
「そうだよ。まだ何かあるの? さっさとしてくれるかな。時間がないんだ」
「時間がない。ああ、時間。時間なんてたいした問題じゃないよ、ロゼット」
「たいした問題だよ。予定の船に乗り遅れたらどうしてくれるんだ」
「そんなことはありえないよ」
「それも運命?」
「だって、君はその船に乗らないもの」
は、と間の抜けた声を出した瞬間、ロゼットは身体がかるくなるのを感じた。足元に青い光が生まれる。身体はみるみる青い燐光に包まれて、さなぎのようになる。
「送ってあげるよ。大陸まで」
「ちょ――! まだ寄るところが」
ロゼットは抗おうとしたが、抗い方も分からない。身体は指一本分ほど宙に浮いていて、どうにもならない。ムダに手足を泳がせただけだった。
「敬愛すべきお師匠様のお墓かな? そこにいったって無駄だよ。君を助けてくれるのは、神でも死人でもない」
「降ろせってば!」
「――よい旅を、いばら姫」
青銀の光が、はじけた。
*****
落ちる。
落ちる。落ちる。落ちる。
なす術もなく、ただ落ちる。
青い空を見上げながら落ちていく。自由落下。着地の恐怖に下を見れば、薔薇の海。色とりどりの薔薇が咲きほこる初夏の庭。
「――あんのっ、クソ神!」
バキバキと盛大に木をへし折り、ロゼットは最後に薔薇の茂みにつっこんだ。棘が服を裂き、肌を傷つける。着地の衝撃で詰まった息を吐き出し、まず一言。
「滅べっ!」
髪についた木の葉をはらい、ロゼットは一息ついた。顔をしかめて痛みの波をやりすごし、ゆっくりと四肢を動かす。背中に肘、かかとがじんじんと痛んだが、木と薔薇の茂みとやわらかい土のおかげで、大怪我にはならずに済んでいた。
「もうちょっと考えろよ、あの疫病神。それとも嫌がらせか」
ロゼットは槍を支えに身を起こした。
目の前に、白い居館が待ちかまえていた。丸い尖塔をそなえた、優美な館だ。窓はすべてガラス張りで、燦然と陽光を跳ね返している。館の前の大きな噴水は、細かなしぶきに虹がかかり、絵画のような光景だ。
「……ここが」
ロゼットは茂みから踏み出した。島のにぶくやわらかな陽光と違う、明るく澄んだ光線が降り注いでくる。空は青く澄み、風はからりと乾いていた。
目で見るもの、肌で感じるもの、五感で感じるものがいつもとまったく異なる。島とはまったく別の場所だと、全身で知る。
しかし、感動はほどなくして怒声に打ち砕かれた。
「小僧、そこで何をしている!」
ロゼットは身体の向きを少しずらした。館を守る兵士が二人、いかめつらしい顔をしてやってくる。
「見ない顔だな。どこから入った」
「えーっと……上から?」
ロゼットは頬を引きつらせながら答えた。
当然のことながら、理解は得られなかった。
「名は? どこから来た?」
「怪しい者じゃない。ここの城主の知り合いだ。海の向こうから来たんだ」
「そのわりに、荷物がないな」
「そこにあるよ」
ロゼットは苦々しげに、ベンチの上にちょこんとおかれている荷袋を指差した。ご丁寧にも、こちらは傷がつかないように薔薇のしげみには落ちていない。
「中を改めさせてもらうぞ」
「お好きにどうぞ」
ロゼットは腕組みをして、検分が終わるのを泰然と待っていたが、はたと気がついた。
「……小僧、これが旅の荷物か?」
「……そうみたいだね」
一緒になって荷物をのぞきこみ、ロゼットは頭を抱えた。食糧や服や旅に必要な小間物は、宝剣や銀杯など、高価そうな品に代わっている。
「ずいぶん、変わった荷物だな」
「人にはイロイロ事情があってね」
ロゼットは、優しく親切で気前のいい神様の手土産に、涙が出そうになった。胸にあふれる万感の思いは言い表せない。片手にナイフを持って襲いかかる以外には。
「そのイロイロな事情というのを、じっくり聞かせてもらいたいが?」
「いえないんだよねえ。君のその髪が偽物だっていうことをいえないのと一緒で」
ロゼットは冷ややかに、高圧的な態度で迫ってくる年配の兵士の頭部を見やった。せめてもの鬱憤晴らしだ。年のわりにふさふさとした髪の兵士は、ロゼットの一言に、額に青筋を浮かべた。
「貴様、盗賊だな?」
「質問を反語形でするなよ」
ロゼットと兵の間に火花が散った。
兵が叫ぶ。
「捕まえろ!」
兵は得物を握りしめ、襲いかかってきた。ロゼットは穂にかけた覆いは取らず、槍を握りなおした。なんなく一つ目の攻撃をかわし、みぞおちを狙って、石突を突き出す。手のひらを返し、刃で二人目を叩く。
「あーあ、ホント、腕力もスピードも格段に落ちたなぁ」
前が異常だったんだけどさ、とロゼットは一人ごちる。新たに駆けつけてきた二人は、ロゼットの独り言をただのたわごとと聞き流し、同時に槍を突き出してきた。
「――よっ、と!」
ロゼットは両足をそろえて飛び、突き出された二本の槍の交叉点に着地した。相手がひるんでいる隙に、三人目の脳天を叩き、四人目のわき腹を打ち、地面に沈める。
ロゼットは四人が起き上がってこないこと確かめると、ことさらゆっくり土ぼこりを払い、服をととのえた。
「うわ、また来た」
異変に気づいた他の兵が、こちらに走ってやってくる。ロゼットは身をひるがえし、館に向かって走った。所狭しと植えられたバラが服をひっかき、肌を傷つける。
「どうしてこうなるかなあ――っと! ごめんごめん!」
庭師とぶつかり、庭園の散歩道によろけ出る。ぎょっと目を見開く通りすがりの雑夫のそばをすり抜け、舗装された散歩道を走る。
前より遅くなったものの、それでも足は早い。追っ手との距離は開く一方だ。これなら撒けそうだ――とタカをくくった瞬間、思いっきり人と衝突した。
「いった……ぁ!」
まともに尻餅をついた。取り落とした槍をまず拾い、身を起こす。
「貴様、逃がさんぞ!」
追っ手が勢いこんで迫ってくる。ロゼットはとっさに腰に差した短剣を抜き、ぶつかった相手に向けた。追っ手たちは目に見えてひるむ。
「は――伯!」
「旦那様!」
兵士たちが真っ青になって叫んだ。
ロゼットはようやく、まともに、ぶつかった相手の顔を見た。なつかしい銀の髪の下で、相変わらず冷淡そうな薄青い目がこちらを凝視していた。
エセルはふん、と軽侮をこめて鼻を鳴らし、つぶやく。
「ご挨拶だな、ロゼット・ラヴァグルード」
ロゼットは予期しなかった再会に瞠目した。けれども、一瞬のことだ。すぐにふてぶてしく笑い、お決まりのセリフを口にする。
「やあ、伯爵。ご機嫌いかが?」




