20.
金も宝石も毛皮も絹も位も土地も小麦も、いらない。
欲しいものは、昔から、たった一つ。
「……ゼット、ロゼット!」
肩をゆさぶられ、ロゼットは朦朧とする意識を揺り起こした。かすむ視界で、場所が神殿の最奥に移っていることを認識する。空はまだうるさい。稲光が時々、部屋の中を照らし出した。
「まだ……してないの?」
ロゼットはつぶやき、エセルの足元に目を向けた。道具をくるんでいた布から、杖と首飾りだけがのぞいていた。冠は見当たらない。ロゼットは額に手を当てた。
「何してるんだよ。早くしろって」
冠を自分にもどしたのだと知り、ロゼットは怒りをこめていった。エセルは奥歯を噛む。
「分かれよ。どういうことか。僕の裸を見たんだから、どうしてか分かってるだろ?」
「なにを――」
怒鳴りかけて、今の問題はそこじゃない、とエセルは冷静になる。
「冠の力は完璧じゃなかった。癒しきれない傷もあった。だから、傷痕が身体に残った。冠のおかげで何不自由なく動けていたから気づかなかっただけだ。冠を外したら、この身体は終わりだったんだよ」
ロゼットは力なく手を床に垂らす。戦がはじまる前から、どこかで、ぼんやりと予想していたことだった。確信したのは、風邪でもないのに咳が出るようになってから。
「そんな顔するなよ、君らしくもない。憎たらしいやつが一人いなくなるんだ。もっと嬉しそうに笑えってば」
「バカかおまえは! 自分がどういう状況におかれているのか、ちゃんと分かってるのか」
「分かってるよ。地獄の三丁目が目の前ってことだろ」
「貴様は……」
どこまでもふざけた調子のロゼットに、エセルは怒気を隠し切れなかった。しかし、ロゼットは調子を崩さない。エセルがさらに怒りを増大させると、ようやく困った顔になった。
「おまえを助けるのも、約束だ」
真剣そのもののエセルに、ロゼットは返す言葉がなった。腕を持ち上げ、エセルの頬に手を伸ばす。
「伯爵。僕は死ぬことがこの世で一番ひどいことだなんて思ってない。ずっと一人ぼっちでいることこそが、僕には一番ひどいことなんだ」
「ロゼット……」
「だから、僕は今、とても幸せなんだよ」
相手の言葉をさえぎって、ロゼットは明るい声でいった。エセルの背後に、あの明るく愉快な三人組の影を透かし見る。抱きしめられて、ロゼットも抱きしめ返した。死ぬな、という声は、声にならなくとも耳に届いたが、それは無理な話だった。
「奇跡を見せて、エセル・エヴァンジェリン。全部、終わらせて。どうか私を解放して」
エセルの手が杖をつかんだ。そばにある首飾りも。
美しい歌のような呪文が、そっと耳元でささやかれる。
再び身体から力が抜けていくのを感じながら、ロゼットは目を閉じた。詠唱は子守唄のようで、耳に心地よい。
呪文とともに白い光は強くなり、あらゆるところへ浸透していった。眩い強く純粋な、すべてを霞ませてしまほどの濃い白が、神殿だけでなく、島全体を覆っていく。
眠りに落ちる一瞬に、エセルが最後の言葉が耳に届いた。エヴァンジェリンが使う魔術の言葉だが、島の民たちでも口にするまじないの言葉で、ロゼットにも意味が分かった。生まれた赤子に、家族に、恋人に、だれかの幸せを願うときに口にする言葉。エセルの腕に力がこもったのが感じられた。
――すべてのものに、祝福を。
強い願いをこめた声が天にこだまする。
光がはじけた。
* * * * *
めずらしく晴れ渡った空には、弱々しいながら冬の太陽が照っていた。アヌシュカの城から見ると、城よりやや高いところにある真白い神殿は、太陽を頂に飾っているように見える。空気は凍てつくように冷たいが、風は穏やかで、春の訪れが近いことを知らせていた。
「一時はどうなることかと思ったけど、なんとかなっちゃったなあ」
キートは木箱を荷車におくと、地震で壊れた城を補修している工人たちを見やった。最近は天候も安定し、地震もなく、島は以前の穏やかさを取りもどしている。地震や地すべり、川の氾濫で被害を受けたところはたくさんあったが、どこも徐々に復興しはじめていた。
「おまえは調子、どうなわけ? 最近はよくベッドから起き上がってるけど、よくなったのかよ」
「まあまあだね。後一月は大人しくしてろっていわれてる」
荷の確認をしていたロゼットは、白い息を吐きながら応えた。城の中からヤナルが出てきたのを見ると、おっと、と荷車から飛び降り、まだ積まれていない木箱に腰かける。
「ロッツ、じっとしているようにいったはずだろ?」
「ヤナルにいわれたとおり、荷物は運んでないよ。じっとしてるってば」
「寒いんだから、外に出たらダメだよ。カゼ引くよ」
「引かないって。僕、身体が丈夫なことにだけは定評があるんだから」
「あった、だろ?」
ヤナルに反論しようとして、ロゼットは小さくくしゃみした。軍医殿の視線が痛い。ロゼットはキートの後ろに隠れた。
「キート、荷物は全部運び終わった?」
「終わったよ。もうすぐこの珍妙な島ともお別れかと思うと、ちと物足りない気持ちになるな」
「長かったようなな短かったような、変な気分だね」
ヤナルとキートは荷が落ちないよう、幌と紐をかけた。することがないロゼットは、手に息を吐きかけて、指先を温めていた。すると、首にふわりとスカーフがかかった。
「どこに行ったかと思えば……貴様は本当に大人しくしていないやつだな」
「あれ。お帰り、伯爵。もうちょっと遅いかと思ってたよ」
「あんなところ、長居なんぞできるか」
エセルは東に見える神殿をにらみつけた。大陸へ帰る前に、神殿へ礼を述べに出かけていたのだ。ずっと不機嫌だったのだろう、お供をしたエドロットは疲れた顔をしていた。
「巫女さんは元気だった?」
「ああ。春には生まれそうだとさ。見ていかないのかといわれたが、絶対ごめんだと断ってきた」
「神様見たくないわけ?」
「神なんぞクソ喰らえ」
「どっかで聞いたよ、そのセリフ」
ロゼットは肩をすくめた。
「おまえこそ、見に行ってきたらどうだ。命の恩人の顔をおがみに」
「やだよ。いっちゃなんだけど、僕が助けてって頼んだわけじゃないもん。感謝なんてするもんか」
神様に十数年苦しめられてきた身としては、顔など見たくもなかった。エセルは嘆息する。
「べつに君の好意が余計だったって思ってるわけじゃないからね? 君が、神様に僕を助けてくれるように願った。その気持ちはすごく嬉しい。でも、あの疫病神に助けられたって言う事実は腹立たしいんだよ」
「複雑だね」
必死で弁明するロゼットに、ヤナルが苦笑した。
「気持ちは分かるけどさ、ロッツ。嘘でも神様に感謝しとけよ。伯爵、おまえを助けてもらったせいで、神様からすっごいお礼を要求されてんだから」
「エドロット」
「いっといた方がいいって。当事者なんだし」
「何? どうしたの?」
エセルは余計なことを言うなと部下を制するが、ロゼットは知りたがった。エドロットに詰め寄る。
「あのクソ神、伯爵に何を要求してるわけ?」
「次の巫女さん。さっきたずねていったらさ、神様が巫女さんに降りてて、ちょっと話するハメになったんだよな。そしたら、次の巫女さんを用意して置くように命じられちゃって」
「次の巫女? ってことは、あの疫病神の花嫁にもなるわけだよね。まだ巫女さんのお腹にいるっていうのに、もうそんなもの望んでるの? ずいぶんませた赤ちゃんだな」
「しかも、だ。神様は伯爵様の娘さんが一番望ましいとのたまわってんだよ」
エヴァンジェリンの血筋だし、伯爵の子供なら魔力もあるだろうし、美少女に生まれてくるだろうし。エドロットから話を聞くと、ロゼットは気の毒そうにエセルを見上げた。
「ご愁傷様。同情するよ。慰める言葉も見つからない。せめて、君の好みにぴったりなお嫁さんを探してきてあげるよ」
「いや、べつに協力は」
「そっか。君の顔なら、手伝いなんて必要ないよね」
「協力は……欲しいといえば欲しいんだが」
エセルは歯切れが悪かった。エドロットはにやにやと、面白がる笑みを浮かべている。
「女苦手っていってたけど、ある程度好みくらいはあるんだろ? どんなのが好みなの? 男の子っぽいの? それとも大人しい系? かわいい系?」
「金髪緑眼の小生意気な猛獣系小動物だよな、伯爵」
「黙れ」
外野の茶々にエセルは怒鳴った。ロゼットは何のことやらと小首を傾げる。環境がいいふうに変わったせいか赤みが抜けた髪が揺れ、金色に光った。エセルは複雑な表情で、咳払いを一つする。
「そういえば、おまえへの預かりものをしてきた」
「何?」
「神様からの贈り物だ」
エセルの視線を受けてエドロットが差し出したのは、いばらの枝で編んだ冠だった。
「もっと気の利いた嫌がらせはないのか、厄病神め」
ロゼットが憤ると、エセルが冠を手にして何事かつぶやいた。途端に、いばらの枝は芽をつけ葉をつけ、蕾をつけた。
固く閉じていた蕾はあっという間に色づいて、可憐な花に変化した。棘だらけの枝は花に覆われて、もとの寒々しい姿は見る影もない。
「祝福を。ロゼット・ラヴァグルート」
小さな金色の頭を、赤い薔薇の冠が彩る。エセルは細い両肩に手をおくと、少し身をかがめて、祈りとともに冠に口付けた。
ロゼットは瞠目し、恐る恐る、冠に手を伸ばした。すべすべとした滑らかな感触がある。
「気楽に行こうぜ、気楽に」
「身体、大事しないと長生きできないよ」
「お楽しみはまだまだこれからだって」
キートもヤナルもエドロットも、エセルと同じ願いをこめて、冠に唇を落とした。四人に囲まれたロゼットは、泣きそうになるのを堪えた。憎悪の炎に焼かれ、白い灰になるまで燃えた心が、再び温かみを帯びた気がした。すべてを焼き尽くすような激しい炎ではなく、暗闇に灯されたランプの火のように穏やかに。今なら、一族の身勝手さも、母親の弱さも、世界の理不尽さも、すべてではないが、少しだけ許せるような気がした。
「神様なんてクソ喰らえ」
花の咲いたいばらの冠は、もう持ち主を傷つけることはない。
薔薇の冠を戴いて、ロゼットは幸せそうに微笑した。




