9.
ロゼットがセレスティアルに住み着いて二十日ほど経った頃、にわかに城内が騒がしくなった。マスカード伯の軍隊が、セレスティアルの国境に現れたからだ。すっかり平野の緑が濃くなり、赤すぐりやさくらんぼも色づいた、初夏の終わりのことだった。
「やっぱりまた、王族は皆殺しかしら……」
「ここも危ないですね。セレスティアルの女王には申し訳ありませんが、別に安全な場所を探さないと」
「でも、ロゼットのことがあるし……。マスカード伯は『いばらの冠』を取り払ってくれるのでしょう? ロゼットは一緒に逃げるわけには行かないわ」
「王女に、貴女の命も助けてくれるよう頼んでもらいましょうか」
「どうかしら。マスカード伯は、降伏してもラヴァグルート一族を残らず処刑したわ。聞き入れてくれるかどうか……」
ロビュスタとウィリアムは不安げに、先の話をはじめた。ロゼットは少しはなれたところで本を読んでいたが、やがて、本を閉じた。
そろそろだった。戦がはじまったら、混乱に紛れてロビュスタを殺し、首を持って帰る。抵抗する間も与えず、始末することができるだろう。簡単な仕事だ。
だが。
たった一つ問題があるとすれば、ロビュスタの番犬だった。ウィリアム・モリス。ウィリアムはロビュスタの側をはなれもしなければ、ロゼットの側をはなれもしない。
剣の腕は立つ方だといっていた。少々面倒かもしれない――そこまで考えて、ロゼットは首をふった。
違う。ウィリアムが強かろうと、問題ではない。だれが相手であっても、負ける気はしない。本当は、ただ殺したくないだけだった。
「ロゼット、どこへ行くの?」
「槍を取りに。今日、やっと仕上がる予定なんです」
ラヴァグルートが攻め入られた時点で、セレスティアルも戦の準備をはじめていた。鍛冶屋が忙しくなり、なかなか手をつけてもらえなかったのだ。
また、ロゼットの槍は大陸渡りの品で、めずらしいものだった。鍛冶屋が大いに興味をもってしまい、少し貸してくれ、と頼み込まれたのだ。渋ったが、研ぎの代金はいらない、という言葉につられた。
そんなこんなで、槍は数日手元をはなれていた。ようやく自分の手に返ってくるのだと思うと、ほっとした。
「ロゼット王女、貴女はどうしたい? 貴女は『いばらの冠』を取ってもらうために、マスカード伯に協力すると聞いた。いつまでもここにいるわけにはいかないのだろう?」
「戦がはじまったら、マスカード伯のところへ戻ります。お母様たちもここから出たほうがいいでしょう。帝国の武器は強力です。長年、戦をしていなかったこの島とは実力に差がありすぎます」
「……そうか」
ロビュスタが不安げに両手を組み合わせた。それを尻目に、ロゼットは城下へ出かけるための服を、クローゼットから取り出した。
ところが、いざ着替えようとしたところで、女王の側近がやってきた。陛下のお召しだ、と断ることなど許さない口調で告げる。
「いったい、何の御用で?」
「国境に帝国兵が現れたことは、すでに聞き及んでおろう。敵のことをうかがいたく、ご足労願っておる」
ロビュスタは申し訳なさそうに、娘を横目にした。ロゼットは渋々、着替えを中断した。
「ごめんなさいね、貴女が一番詳しいから」
「かまいませんよ。お母様を助けていただいた恩がありますから、このくらい」
従者の後について廊下を進んでいたロゼットは、ふと、足を止めた。通り過ぎた扉の一つを振り返る。
「どうかした?」
「……いえ」
扉が閉まったような気がするのだが、だれかが入っていった様子はなく、かといって、背後に人もいない。
気のせいか、とロゼットはまた歩き出した。
連れて行かれたのは『王の間』だった。王の間は白い大理石が惜しみなく使われ、飽くほどに白かった。床にはロイヤルブルーの絨毯が引かれ、同色のタペストリーが壁にかけられている。王座は白テンの毛皮を敷き、白金で装飾されていた。
そして、王座の背後には巨大なステンドグラスがあった。円いステンドグラスは、さまざまな色が使われている。奇跡を示す青いバラ、黄色い光であらわされた神、神にひざまずくエヴァンジェリンの白い服、神に捧げられる赤いバラ、背景の平原の緑。床の一部が七色に彩られていた。
白と青の、光に満ちた空間。
その中で、女王はロゼットたちを待っていた。濃い緑色のドレスを着て。それは白い紙に落ちたインクのしみのように、異様な印象を与えた。
「失礼いたします、女王陛下。ロビュスタ・ラヴァグルートとロゼット・ラヴァグルートが参りました」
丁寧に腰を折ると、女王は従者にささやいた。
「ご足労願い、申し訳ない。従者からすでに用件は聞いておろう。敵はいかようなものか、申してはくれぬか」
王の間には女王と従者と、側近らしき男が五人いた。いずれも難しい顔をして、ラヴァグルートからの来訪者の言葉を待っていた。
「率直に申してみよ。戦って、我らは勝てるか?」
「……では、申し上げます、女王陛下。降伏なさってください。戦ったところで、とうてい勝ち目のある戦ではございません」
従者と側近たちは顔をしかめた。あるていど予想はしていただろうが、ここまではっきりいわれるとは思っていなかったらしい。不機嫌になる。
しかし、女王は片手でそれをいさめた。先を促すように黙っている。ロゼットはつづけた。
「大陸とこの島では、文明に差がありすぎます。装備も兵の質も、こちらが明らかに劣っています。いくらセレスティアルに人を癒す力があっても、多くの犠牲が出る戦場では、焼け石に水です」
女王は黙っていた。従者は言葉を待って、主を見上げている。空気が膠着した。みな、不安げに表情をくもらせた。
「マスカード伯はラヴァグルート一族を皆殺しにしましたが、開戦の前であれば、講和の余地があるかもしれません。一国を治める王として、分別あるご判断を期待いたしております」
「……」
「……この島は、ずっと魔法にかけられていた。でも、もう、魔法も解けるとき。私たちは消える時期なんですよ、女王陛下」
王の間は、陽の光に温められて、生ぬるい空気が溜まっていた。窓は閉まっている。息を吐き、自分の吐いた息を吸う。呼吸を繰り返していると、ロゼットはだんだん苦しく思えてきた。
「――くっ」
唐突にもれた笑いに、ロゼットたちも、側近たちも、だれのものかと互いに顔を見合わせ、最後に女王に目をやった。丸顔の太った従者は、きょとんと主人を見上げていた。
「ははははは!」
女王は大きく息を吸い、笑った。よどむ空気をかき回すように、喉をのけぞらせて哄笑する。
「女王陛下?」
「あはっ、はははっ、苦労してエヴァンジェリンを倒し、二百年余りにわたってこの地を治めて、これか!
素直に降伏できるとでも? ロゼット・ラヴァグルート。
私の力は人を癒すだけではない。逆に、人の命を奪うことだってできる。なんの遠慮もいらぬ敵がやってくるなら好都合、すべての敵の生命力を吸い尽くし、我が兵に分け与え、不死身の兵団を作り上げてやる!」
女王は自らヴェールを剥ぎ取った。しわの目立つ顔が衆目にさらされる。頬はたるみ、眼は落ちくぼんでいたが、その中で、目だけが異様な生気を放っていた。
女王の従者も、側近も、ロビュスタも、ウィリアムも、女王の変貌ぶりにあっけに取られていたが、ロゼットだけは落ち着いていた。
「……エヴァンジェリン」
つぶやきに、女王の眉がふるえた。
「敵の指揮官に、エヴァンジェリンの血を引く人間がいたとしても?」
女王は目を見開き、下唇を噛んだ。目に恐れが浮かんでいた。
「もし……あなたが噂どおり、初代セレスティアル王のままなら、教えて欲しいことがある」
ロゼットは拳を握り、ずっと気がかりだったことを吐き出した。
「僕の持ってる『いばらの冠』ってなんなんだ? ラヴァグルートの力の源だって聞いてるけど、本当なのか?」
「……」
「いや、力の源ってことは本当なんだろう。でも、何か変なんだ。建国話では、ラヴァグルートは『いばらの冠』を授けられたから力を得たわけじゃなく、ふしぎな薔薇の茎を食べたから、力を得たことになってる。冠のことなんて、一言も出てこない」
冠のことは一般には知られていない。ラヴァグルートの一族や、ラヴァグルートに仕える家臣たちだけが存在を知っている。
「『いばらの冠』はラヴァグルート一族の力の源。かぶせられたものが十六で死ぬのは、特別な力の代償。
でも、おかしいんだ。ラヴァグルート一族には短命の者が多い。魔力を持たないラヴァグルート一族は、魔力の代わりに命を代償にしているんじゃないのか?
女王陛下にしてもそうだ。さっき、人の命を奪うこともできるといったけど、人の命を奪わなければ人を癒せないんじゃないか? 別の人間の命こそが、奇跡の代償なんだろ?
だとすると、この冠は一体なんなんだ?」
ロゼットが不審に女王を見つめると、女王は王座を立った。壇を下り、窓辺に寄る。
「……呪い」
女王は遠くに眼をやった。視線は城下の町をすり抜け、郊外の畑を素通りし、はるか北。険しい山の連なる地。昔、エヴァンジェリンの神殿があった場所へ。
「神の献花を奪った罰……」
「花を……奪った……?」
女王はステンドグラスを仰いだ。ステンドグラスには、神に薔薇の花をささげるエヴァンジェリンの姿が描かれている。
ロゼットは記憶を掘り起こした。エヴァンジェリンがこの地を治めていた頃は、何十年かに一度、島の神に薔薇の花を奉納していたと聞く。その薔薇はふしぎな薔薇で、見たこともないほど美しく、魔力を帯びていたと語られている。
「その花を奪って力を……?」
「……」
女王は両手に目を落とした。口元に謎めいた暗い笑みを浮かべ、王座の前へともどる。
「ロゼット・ラヴァグルート。『いばらの冠』をかぶせられた、哀れな娘よ。セレスティアルにも、そなたと似たものがある。魔法の力の源が」
「いったい、なんという名前です?」
「『摘蕾の杖』」
女王は手袋を取った。ロゼットたちは息を呑んだ。
女王の指先に、芽が生えている。植物の芽が。それだけではない。日の光に当たった女王の皮膚はうっすら緑がかり、つぎつぎと小さな芽が萌芽した。
「これが私の身にかけられた呪い。この身こそが『摘蕾の杖』。セレスティアルの女王が、だれにもこの身を晒すことができない訳」
両の手のひらを上に向け、女王はまぶたを閉じた。あごをそらし、天井を仰ぐ。光を浴びて、小さな芽はみるみるうちに育ち、双葉になり、本葉が生え、つるを伸ばしはじめた。
「この身が老いて使えなくなるたび、私は一族の中から一人選び、その王女の生命力と肉体を食らって、若返ってきた」
つるはすでに床についていた。まるで意思を持っているかのように、ロゼットたちに向かって伸びてくる。
「こたびは運がいい――生きのいい生贄が、三人も来たのだからな!」
緑色の触手が、三人をめがけて襲いかかってきた。