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作者:宮本あおば
「おい、あんた。吸殻はちゃんと灰皿に入れなきゃ、な?」
 吸い終わった煙草を砂浜に刺して、読みかけの本に戻ろうと腹這いになったとき、声が降ってきた。
 驚いて体を起こそうとすると、砂の上にこちらに向かってくる巨大な素足が目に入った。続いて顔を上げて、本体が小山のような大男だと分かった。
 ハワイアンか、サモアンか、あるいはトンガンか。いずれポリネシアンと呼ばれる人種には違いないが、ハワイは初めの浅い私には見分けがつかない。ただ男の英語は聞き取りやすかった。
「帰るときに拾って捨てようと……」
 言い訳しようとした私を制して、男は太い指で吸殻を摘みあげた。歩いて三歩ほどの灰皿兼ゴミ箱に捨てると、また戻って来る。私は恐縮して敷いていたタオルの上に座った。
「観光かい? 最近は色んなものを持ってくる連中が多いけど、捨てて行っちゃだめだよ」
 親しげに笑ってしゃがみ込むと、私の顔を繁々と眺め、もう一度にっこりした。
 目も鼻も口も大きいポリネシアン独特の顔立ちだ。眉が太く、黒目も大きいが白目も狭くはない。この顔で笑わずに黙って睨まれたら、かなり肝が冷えるだろう。
 声も低くて太い。上半身裸でオレンジのサーフパンツを履いた男の左腕には、小さい三角形を組み合わせた模様の刺青が入っている。「いい天気だね、だけどそこにいると水が上がって来るよ。これから満ち潮だ」
 言われて私は、男とちょうど反対側の海を見た。
 タオルから波打ち際までは、十メートル近くあった。透明な水が泡立ちもせずに、静かに打ち寄せている。近寄れば、小魚が遊んでいるのが見えるはずだ。
 エメラルドグリーンと薄いブルーの混じった水の色は、沖に行くにつれて濃くなっている。百メートルも先に頭を覗かせている珊瑚礁の向こうでは、群青の波に乗るサーファー達の姿が景観にポイントを添えていた。
 まったく、日本ではお目にかかれない海の美しさだ。改めて見とれてから、私は男に言葉を返した。
「四、五日前に来たときは、ここまで来なかったけど」
 男が笑いを納めて目を見開いた。思った通り、迫力のある顔だ。何かまずいことでも言ったかと不安になったが、彼は一つ頷くと口を開いた。
「あんた山の方から来た、な? 五日も前だったら満潮だって大したことはない。今日は満月だからね」
「満月だと潮が高いのかい?」
 山の方から、というのが図星とは言えないが、三十数年の人生で海の近くに住んだことはない。潮の干満と月が関係しているのは、一日の時間帯だけだと思っていた。
 私の問いに、男はからからと白い歯を見せて笑った。
 彼の背後に揺れる椰子の木々が、いかにも南国の明るさを見せつける。その向こうには緑に覆われた山に、吸い込まれそうに濃い青空と、千切れた綿菓子のような雲が見えた。
 浅黒い肌の彼もまた景色に溶け込んでいる。
「月が潮と関わっていることは、ここなら子供だって知ってるよ。あんたの国じゃ、どうだか知らないけど」
 言う前にタオルの上へ視線を飛ばしたのは、開いたまま伏せてある本を見たのだろう。
 暑い日差しに体を焼かれながら読む翻訳小説は、一時の現実逃避にはとても効果的だ。
 彼は私が外国から来たことを確認したかったのかもしれないが、私のひどい英語を聞けば分かりそうなものだ。
 第一、最初に声をかけて来たときに、自分で「観光か」と尋ねたのではないか。どこからどう見ても、私がアメリカ本土からの観光客に見えるわけがない。
「いや、日本でも海沿いの人たちは知ってると思うよ。俺は、潮の高さが月の満ち欠けに関係してるとは知らなかった。季節で変わるのかと思ってたんだ」
 律儀に説明する必要はないのかもしれないが、日本人の全てが物知らずだと思われても困る。外国にいると、妙な気遣いをしてしまうものだと初めて知った。
「してるんだよ。季節が全然関係してないとは言わないけどね。あんた、山の方にいたんなら、野菜を植える時期とかさ、取り入れる時期に月が大事なのは知ってる?」
 真顔で尋ねた男には、苦笑せざるを得なかった。海に近くなければ必ずしも山とは限らない。もっとも彼の基準がこの小さい島なら、想像も付かないのかもしれない。
「いや、俺はずっと街場(まちば)にいたから、それもよく知らない」
 ふうん、とつまらなさそうに言った男は、すぐに表情を変えた。
「街場にいたって、月には世話になってたと思うけど、な。月ってヤツは色んなモノに関わりがあるよ。生き物にも、死んだものにも」
 片方の眉を吊り上げて、意味ありげに笑った男に、私は黙ってしまった。
 煙草の吸殻と満潮を注意してくれた親切な地元人だと思っていたけれど、さらに妙な話題を持ち出した彼の目的は何だろう。
 女ならナンパかと考えるだろうが、腹の出かかった三十男と親しくなりたいと思う男はまずいまい。
 彼は二十代半ばに見える。ウェーブのきつい長髪を後ろで一つに括っている。羨ましくなるほどに筋骨逞しい。
「死んだものにも関わりがあるって?」
 彼の意図が知りたいのが半分と、上手く会話を打ち切る英語が思いつかないのが半分で、私は鸚鵡返しに尋ねた。
 バックパックから取り出したリンゴを彼の手に転がしたのは、自分が咽喉の渇きを覚えたからだ。
 ありがとう、と無邪気な顔で受け取った彼は砂の上に腰を下ろした。本格的に話をしようという姿勢だろうか。
 私がもう一つ取り出したリンゴを自分の口に運ぶのを見て、彼は質問に答えた。
「そう。この辺りじゃないけど、新月から数えて二十七番目の夜にナイト・マーチャーズが出る場所がある」
 ナイト・マーチャーズとは、夜に行進する人々という意味だろうか。よく分からない。首を傾げてみせて、説明を促す。
「大昔の酋長が、軍勢を引き連れてうろつき回るんだ。奴らは見られるのをすごく嫌ってて、見ると死ぬって言われてる」
「幽霊?」
「そうとも言うね」
 日差しは強いままなのに、鳥肌が立った。
 その手の話は苦手だ。こんなに明るい場所で、いきなりこの世ならぬ者の話をされたせいもある。怪談などは、暗くていかにもという雰囲気でする方が、案外恐ろしくない気がした。怖い思いをするぞ、という覚悟が出来るからだ。
 一体この男は何だろう。見知らぬ人間に土地の伝説を聞かせる趣味でもあるのだろうか。決して好ましい趣味ではない。
 死んだものにも関係があるのか、と聞いた自分を呪った。
「面白いと思わないか? 決まって二十七番目の夜なんだってさ。幽霊だって月に影響されるってわけだよ」
 私の様子など頓着せずに、男は朗らかに空を仰いだ。もちろん月は出ていない。午後の太陽が照り輝く中、雲が眠たげに流れている。
「ちょっと待ってくれ。必ず二十七番目ってことは、誰かが毎月観察したのかい? どうやったんだ? 見ると死ぬんだろ?」
 怪談や伝説にありがちな落とし穴を見つけて、私は勢い込んで聞いた。男を不愉快にさせるつもりは毛頭ないが、幽霊の類は本当に苦手だ。男はちょっと笑って、鼻を鳴らした。
「行列の中に自分の先祖がいたら、大丈夫なんだ。実際に見た奴らから聞いた話だから、本当だよ。最初はぼんやりした光が見えるんだ。それが三つも四つもどんどん増えて、太鼓の音が聞こえてくる。自分の先祖がいるかどうか確かでないなら、その辺りで地面に伏せないと危ない。見ちゃいけないからね」
 暗闇の中、淡い光を発しながら行進する古代ハワイアンの姿は、恐ろしいというより荘厳な気がする。とはいえ寒気は去らない。
「だけど、人に見られるのが嫌なのに、この世に現れるのは解せないな。普通、幽霊は人に何かを訴えたりするために出てくるんじゃないのか?」
 男は大袈裟に肩を竦めた。
「あんた、死んだことあるかい? 死んでみなきゃ分からないことだってあるだろ? たとえばそうだな、死んだら霊魂になって自分の意思とは関係なしに、月の満ち欠けで現世に出るのかもしれないよ。それこそ潮が満ちるみたいにね」
 眉を顰めて、私は言うべき言葉を捜した。
 自分の死後に意思とは関係なく現世にさまよい出るなんて真っ平御免だし、既に鬼籍の人となっている者たちにもそうあって欲しい。
 急に、月が憎むべき物体のような気がした。
「そんなの嫌だな」
 やっと言葉を搾り出した私に瞳で笑ってみせて、男は立ち上がった。芯になったリンゴを手首だけで放り投げる。見事な弧を描いて、それは数メートル離れたゴミ箱へ飛び込んだ。
「ほら、もう水がそこまで来てる」
 驚いたことに、タオルの五十センチ手前まで波が押し寄せている。
 私は慌ててタオルを引き摺った。砂浜と道路との境に低い堤防がある。もうタオルと堤防の間の距離は殆どなくなった。
「月の力には逆らえないさ。気を付けな、今晩は満月だ。ほら、あんたがあの男を殺した夜も、満月だっただろう? 覚えてないか? そいつをここに置いて行こうったってだめだよ」
 リンゴを取り落とした。
 この男は何者だ。
「あんたは、一体……」
 喘ぎながらの質問に答えはなく、代わりに哄笑が帰ってきた。
 太い首を仰け反らせて笑い声を響かせた男は、そのまま海へ向かって走って行った。膝ほどの深さで見事な飛込みを見せたかと思うと、二度と浮かんで来なかった。

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