第1話
フェドートの本来の名前はフェドート・チェルノムイルジンという。
物心ついた頃には路上で生活していたので、親からもらった名ではない。ストリートチルドレンで構成されたギャングのような集団の中、兄と呼んでいた人からもらったものだ。リーに出会うさらに前、冬には当たり前のように凍死者がでる街でのことだ。
「かっこいいだろう」
得意げに笑った彼の顔を、フェドートは今でも鮮明に覚えている。生来頭の回転の速いフェドートは、彼がその名をくれるまでに、どれだけ道端の新聞や古書を広い漁り、幾度もの夜を悩み過ごしていたか知っていたのだ。
「おい、フェージャ」
かといって、この長い名前を覚えてくれる相手はほぼゼロに等しいのだが。
「その呼び方はやめてくださいと、何度も申しているはずですが」
「そういうお前は、いつまでたっても堅苦しいしゃべり方をやめねえなあ」
机の上に足を投げ出しているリーは、意地悪く目を細める。長い付き合いだが、いまだにこの男の言動には慣れきれない。
「くせになってしまっているのですよ。しょうがないでしょう」
小首を傾げてため息をついてみせると、リーもわざとらしく肩をすくめた。
「じゃあ、しょうがねえなあ。フェージャ」
理屈が全く通っていない。フェドートは今回も押し問答を諦めた。
「本日私を呼び出した本題はなんでしょう? 早くお話ください」
せっかちな奴だな、とリーはまた目を細める。机の上で足を組み直す仕草が芝居がかっていて、直立不動のフェドートと対照的だった。
「お前の兄貴がいるだろ、国の警察官をやっている」
デスク横にあるコンピューターの画面を横目で眺めながら、リーは話を切り出す。
警察官とはいっても、実際はマフィアと何の変わりもない。血のつながらない兄弟が警察官と殺し屋についていても、もはや珍しい話でもなんでもなかった。この国はすでに、それほど腐敗しきっていた。
「ええ、おりますが」
「そいつがな、とある富豪の護衛でヘマやったらしい。盗賊から一家を守るはずがミスって全滅だとよ」
フェドートは相槌をうつ。兄を慕ってはいるが、彼自身はそれほど有能な人物ではないことは知っている。
「そのときに端末も壊しちまって、お前に連絡しようにも番号がわからなくなって、この事務所に連絡してきたらしいがな」
リーがコンピューターの画面を向ける。映像つきのメッセージが再生されて、情けない顔をした兄がフェドートの目にうつった。軽くため息をつく。
「で、だ。この件でなんとか残ったものがあるから、とりあえず落ち着くまでフェージャにあずかっていてほしいんだと」
「はあ」
「この事務所で預かるわけにもいかねえからな。一応は警察からの預かりものだ。傷ものにしちゃまずいだろ。ウチの社員はお前みたいな理性的な紳士サマばっかじゃねえからな」
それは確かにそうですが、とフェドートは首をかしげる。まだるっこしく回りくどいリーの話し方は、要領を得ないわけではないが、最後の言葉まで聞かねばわけがわからない。
「預かりもの、もう届いてるぜ。相変わらずお前の兄貴は、お前の返事を聞くつもりが全くねえな」
鼻で笑いながら、心底楽しげにリーは部屋の隅を顎で指した。デスク横にある書斎への扉。フェドートは少しの音もたてずにその扉に近寄り、開け放つ。
びくりと小さな影が動く。小部屋の中には、ぬいぐるみを力いっぱい抱きしめ、歯を食いしばりながら、こちらを睨みあげてくる12,3ほどの少女が立っていた。
「一族全滅の生き残りのお嬢ちゃんだとよ」
酷く楽しげに椅子をまわすリーに、文句を言うべきなのかもわからず立ち尽くした。