「聖女の資格を剥奪する」と言われましたが、十二年間この祭壇の乳香を焚いてきたのは私なので、香炉ごと辞めさせていただきます ――前世は葬祭ディレクターでした
「セレスティア・ノワ。お前の聖女補佐の資格を剥奪する」
建国祭の大聖堂。満座の貴族が息を呑む音が、天井の高い空間にさざ波のように広がりました。
王太子エドヴァルド殿下。金髪碧眼、絵に描いたような美丈夫。その腕に、聖女オーレリア様が寄り添っておられます。
「罪状は、聖女への嫉妬による香の妨害。オーレリアは泣いていた。それが何よりの証拠だ」
涙一粒。
……涙一粒。なるほど、よく分かりました。
涙一粒が証拠になる国で、私は十二年間、炭を継いできたわけです。
「なんだ、その顔は。弁明もないのか」
「弁明の前に、一つよろしいでしょうか。本日の分が、まだですので」
私は懐から、黒革の帳面を取り出しました。
「……なんの真似だ。この場で帳面を開くとは」
「記帳です。第四千三百八十二日。晴天。湿度五分三厘。東の風、弱。炭の継ぎ足し、本日九回目完了」
羽根ペンが紙を擦る音だけが、大聖堂に響きます。
「まあ……こんな時にまで、数字を書いておられるの? 往生際が悪くていらっしゃること」
オーレリア様が、蜂蜜色の巻き毛を揺らして笑いました。
「乳香残量、樹脂甲十二匁、乙三匁五分、丙一匁八分。――書き終えました。失礼いたしました」
私は顔を上げ、深く礼をしました。
「承知いたしました。では、本日十七時四十分をもって香炉の引き継ぎを行います。後任の方はどちらに?」
殿下が、瞬きをしました。
「……後任?」
「はい。引き継ぎには最低でも二刻いただきたく。炭の位置、灰の掻き方、樹脂の見分け方、湿度ごとの配合調整。本日中に全ては無理ですので、明日以降も三日ほど通わせていただきます」
「三日だと? 大げさな女だ。香など、誰が焚いても同じだろう」
――会場が、静まり返りました。
静まったのは、殿下の言葉の重さに貴族たちが打たれたから、ではありません。
正面の壇上。神殿長ギルベルト・ハウ様の顔が、紙のように白くなったからです。
「――殿下」
「なんだ神殿長。顔が白いぞ」
「いえ……いえ、なんでも、ございませぬ」
私はその顔を、少しだけ見ました。十二年前、私を香炉番の職に押し込んだ方の顔を。
「神殿長猊下。十二年前、あなた様は私にこうおっしゃいました。『誰にでもできる仕事だ、気楽にやりなさい』と」
「……昔の話です」
「ええ。帳面に書いてございます。第一冊、一頁目に」
香など香だ、とおっしゃいましたね。帳面に書いておきます。
「何を陰気にぶつぶつと。話は終わりだ、下がれ」
「かしこまりました。では、引き継ぎは不要と承ります」
私は帳面を閉じました。
「記録帳は祭壇に置いてまいります。四十三冊ございます。――どなたか、お読みになるとよろしいかと」
「読みませんわ。わたくしの祈りがあれば十分ですもの」
「……」
「あら、何かおっしゃって?」
「いいえ。答える必要のないことに答えるのは、時間の無駄だと学んでおりますので」
前世でも、今世でも。
「……ふん。せいぜい辺境で、煤でも吸っているがいい」
「ご忠告、痛み入ります。ひとつだけ、申し送りを」
「まだあるのか」
「祭壇背面に、銀の板が一枚埋まっております。あれが曇っているかどうか、毎朝ご確認ください」
「銀板? 掃除係の仕事だろう」
「磨く必要がないほど綺麗でしたら、――そのときは、どうぞ私をお探しください」
「探すものか。二度とその顔を見ることはない」
「そうあってほしいと、私も願っております。では――十二年間、お世話になりました」
私は礼をして、踵を返しました。
背中で、笑い声が聞こえました。
私は数えませんでした。数える価値のない音は、帳面に書かないことにしています。
◆
前世の私は、白石澄という名前でした。
日本の葬祭ディレクター。三十四歳。十年選手。
焼香の炭の火を絶やさないこと。線香の煙が途切れないこと。献花の順番を間違えないこと。そして――遺族の感情が、どこに着地するかを設計すること。
それが仕事でした。
深夜二時にホールの空調を調整し、明け方に炭を熾し、九十分の式の間に喪主の手が震え始めるタイミングを見極める。
地味です。誰も褒めません。
けれど、火が消えた葬儀は、ただの集会です。
過労で倒れて、気づいたらこの身体にいました。公爵令嬢セレスティア・ノワ、九歳。
十二年前、神殿長が私に言いました。
「公爵家の娘が香炉番など、確かに地味な職だがね。まあ、誰にでもできる仕事だ。気楽にやりなさい」
誰にでもできる仕事。
私はその日から、帳面をつけ始めました。
◆
夜の大聖堂は、しんとしています。
私は自室から運び出した記録帳を、祭壇の前に積み上げました。
黒革の表紙が四十三冊。一冊につき、およそ百日分。
湿度。風向き。気温。炭の銘柄と産地。樹脂の到着日と乾燥具合。燃焼時間。灰の色。煙の立ち方。そして、結界術師が月に一度測定する「結界強度」の数値。
それらを並べ、照らし合わせ、相関を取り続けた十二年です。
最後の一冊の、最終頁を開きました。
羽根ペンで、ゆっくりと書き足します。
『引き継ぎ事項(最重要)
一、乳香は三種の樹脂を、七対二対一で配合すること。
二、配合比を誤った場合、煙は白く豊かに立つ。見た目では一切判別できない。
三、ただし結界には届かない。
四、煙の到達の有無は、祭壇背面の銀板の曇り方でのみ確認できる。曇らなければ、届いていない。
五、煙が完全に途切れた場合、七日で結界が薄れ始める。辺境の魔物避けから順に機能を失う。
以上、香炉番セレスティア・ノワ』
筆を置きました。
背後で、鼻を啜る音がします。
「し、師匠……っ、待って、待ってください師匠……!」
赤毛とそばかすの、十七歳。下級神官のリィナ・ドルト。私の唯一の弟子見習いです。
「リィナ。声が震えていますよ」
「わたし、あの場で何も言えませんでした。怖くて、足が、震えて……」
「言わなくて正解です」
「えっ」
「庇えば、あなたも同罪とされました。そうなれば、記録を読める人間が一人減ります」
「……師匠」
私は腰から炭ばさみを抜き、リィナの手に置きました。使い込んで、柄が黒光りしている一本です。
「この炭ばさみを預けます。柄の黒いほう。手に馴染んでいますから、新品より楽です」
「受け取れません、そんな……!」
「一つだけ、頼まれてください」
「……はい」
「四十三冊を、誰にも捨てさせないでください。燃やされても、売られてもいけません。祭壇の下でも、物置でも構いません。隠してでも、残してください」
「……読まれなくても、ですか」
「読まれなくても、です」
記録とは、そういうものです。
「誰も読まなくても、残っていなければ、何もなかったことになる」
「……わかりました。絶対に、守ります。絶対に」
「よろしい。では、香炉の鍵はここへ置いていきます」
「師匠、十二年、肌身離さず持ってらしたのに……!」
「退職ですので。引き継ぎ資料を残して、鍵を返す。それだけのことです」
真鍮の小さな鍵を、祭壇に置きました。
ことり、と。
金属が石に触れる音が、思いのほか大きく響きました。
「悔しくないんですか! あんな、涙一粒で……!」
「復讐はしません。私は、正しく辞めるだけです」
私は扉のほうへ歩き出し、途中で足を止めました。
「――ただ、覚えておいてください、リィナ」
「はい」
「煙が完全に途切れた場合、七日で結界が薄れ始めます。辺境の魔物避けから、順に」
「……七日」
「最終頁に書いてあります。誰かが読めば、間に合います」
「……誰も、読まなかったら」
私は少しだけ考えて、答えました。
「そのときは、国のほうが先に、私を探しに来るでしょう」
◆
辺境の村の朝は、冷えます。
「あんた、よく眠れたかい」
曲がった腰に、皺だらけの手。村の最長老、マルタ婆が竃の前にしゃがんでいました。
「おかげさまで。――婆様、その炭、湿っています」
「おや」
「昨夜の霧が入りました。上の二つを脇に寄せて、下から熾してください。半刻は余計にかかりますが、途中で消えるよりはましです」
マルタ婆は目を細めて、私を見ました。
「都から来た訳ありの娘が、炭の講釈かい」
「職業病です」
「ふん。火の番ができるなら、うちの竃も頼むよ」
それだけでした。素性も、なぜ来たのかも、聞かれませんでした。
黒パンは、歯が立たないほど固いものでした。山羊乳のスープに浸して、ふやかしてから噛みます。塩気と、獣の匂い。喉を通ると、腹の底がじんわり温かくなりました。
前世の私は、朝食を抜く生活を十年続けて、倒れました。
今の私は、毎朝これを食べています。
こちらのほうが、ずっと良い。
井戸で洗濯をします。水が冷たくて、指の感覚がなくなります。鶏が鳴き、羊が啼きます。
午後は、村はずれの小さな祠に行きます。苔むした石の祠で、屋根は半分落ちていて、誰も手入れしていません。
私はそこに、持ってきた樹脂をひとつまみ焚きます。
煙はひょろりと細く、まっすぐ昇って、途中で風にほどけます。
結界のためではありません。国のためでもありません。
ただ――誰かを悼む火が、どこかに一つくらい、灯っていてもいいだろうと思ったからです。
前世の私が、毎朝ホールの祭壇でやっていたことと、同じです。
◆
三日目でした。
祠の脇に、亜麻色の髪の少年が立っていました。十歳くらい。痩せた手足で、裸足です。
三日間、彼はずっと離れて見ていました。今日は、手に木の板を一枚持っています。
「……あのさ」
「はい」
「兄ちゃんの名前を、ここに書いてほしい」
私は炭ばさみを置いて、少年に向き直りました。
「お名前を伺っても?」
「おれはユーリ。兄ちゃんは、トーマ」
「トーマさんは、どちらに」
「三年前、魔物に食われた。十六だった」
淡々とした声でした。泣き声ではありません。三年で、泣く段階は過ぎたのだと分かる声です。
「遺体は見つかんなかった。墓もない。辺境で死んだやつは、王都の記録に載らないんだって。だから兄ちゃんは――」
そこで、少年の声が一度止まりました。
「いなかったことに、なってる」
沈黙。
風が、祠の落ちた屋根を鳴らしました。
私は、板を受け取りました。ざらついた、節のある木です。
「彫ります。字が消えにくいので」
小刀を借りて、一画ずつ彫りました。四文字。トーマ。
時間をかけました。前世で、何百回も名前を書きました。筆耕の真似事もしました。名前というのは、残り方が雑だと、遺された人が一生それを思い出すのです。
彫り終えて、板を祠に立てかけました。
その前で、樹脂をひとつまみ。
白い煙が、ゆっくりと立ちます。
ユーリは膝をついて、彫った文字を指でなぞりました。何度も、何度も。
「……おれ、字、読めないんだ」
「覚えてください。四文字です」
「トーマ」
「はい」
少年の指が、震えていました。
私はその手を、見ていました。
前世で、何百回も見た手の震え方と、同じでした。
夜。藁布団の上で、私は帳面を開きました。
『第四千三百八十五日。辺境ノルト村。晴。湿度四分。祠に樹脂一摘み。
――トーマ。十六歳。三年前、魔物により死亡。記録なし。本日、木板に記名。』
記録に載らないのなら。
私が、載せればいいのです。
それくらいのことは、無職でもできます。
◆
――同じころ。王都、大聖堂。
乳香の煙は、立っていました。
白く。豊かに。美しく。
「ほら、わたくしでも焚けますわ」
聖女オーレリアは、香炉の前で微笑みました。
「あの方、さも大層な仕事のように言っておりましたけれど。樹脂を入れて、炭を足すだけではありませんか」
「その通りだ」
王太子エドヴァルドが、満足げに頷きます。
「見ろ、煙は前より立派ではないか。あの女がいた頃より、よほど美しい」
「ふふ。殿下ったら」
侍従たちが追従の笑いを漏らします。
祭壇の背面。磨かれた銀板が一枚、埋め込まれています。
――曇っていません。
鏡のように、ぴかぴかに澄んでいます。
誰も、見ませんでした。
祭壇の裏、埃まみれの物置では。
赤毛の娘が、積み上げた四十三冊の上に古い祭服を被せて、その上に壊れた燭台を三本、無造作に載せていました。
「……捨てさせない。絶対に」
リィナ・ドルトは、涙を手の甲で拭いました。
「師匠。わたし、ちゃんと隠しました」
◆
七日後。
辺境の魔物避けが、落ちました。
十日後。
王都近郊の村が、襲われました。死者十九名。
十二日後。
神殿は「聖女様の祈りが足りぬのだ」と布告し、オーレリアは三日三晩祈り続けました。煙は変わらず白く、美しく立ちました。
結界は、戻りませんでした。
十三日後。
商人たちが乳香樹脂の買い占めに走りました。価格は十倍。二十倍。甲種樹脂が底を突き、乙種が消え、丙種の名前すら知らない商人が「とにかく煙が出る樹脂を」と叫びました。
配合を知る者を探して、王都中が奔走しました。
神官に聞き、学者に聞き、老人に聞き、記録庫を漁り。
――誰も知りませんでした。
十二年分の湿度と炭と樹脂の記録を持つ人間は、この国に一人しかいなかったのです。
十四日後。
宰相ヴァルナ・セードが、祭壇裏の物置に立ちました。
片眼鏡の、やせた老人です。
「そこの娘。何を隠した」
リィナは震えながら、燭台を退けました。
埃の下から、黒革の背表紙が四十三本、現れました。
宰相は片膝をついて、最後の一冊を手に取りました。
頁をめくります。湿度。風向き。炭の産地。燃焼時間。結界強度の測定値。十二年分。
最終頁。
『一、乳香は三種の樹脂を、七対二対一で配合すること。
二、配合比を誤った場合、煙は白く豊かに立つ。見た目では一切判別できない。
三、ただし結界には届かない。』
宰相の手が、止まりました。
「…………」
長い、長い沈黙がありました。
やがて、彼は呟きました。
「……煙は出ていた。だが、結界には一度も届いていなかった」
大聖堂の奥から、どさりと重いものが崩れる音がしました。
神殿長ギルベルト・ハウが、祭壇の前で両膝をついていました。
彼だけは、十二年前から知っていたのです。この国に、香を焚ける人間が一人しかいないことを。そして、その一人の名前を、一度も報告書に書かなかったことを。
「銀板を見ろ」
宰相が立ち上がりました。
「祭壇背面の銀板だ。曇っているか、曇っていないか」
侍従が走り、戻ってきて、青い顔で答えました。
「……鏡のように、澄んでおります」
「十四日間、一度もか」
「掃除係が毎朝磨いておりますが、磨く必要がないほど綺麗だと……」
宰相は片眼鏡を押し上げました。
「結構。では、計算しましょう」
彼は帳面を開き、数字を書きつけました。
「辺境三十七村、推定人口一万二千。結界喪失から二十日で第二波が来る。騎士団の展開可能数は二千四百。――王太子殿下の情緒的判断の代価は、おおよそそれだけです」
「さ、宰相閣下、どうすれば」
「どうもこうも」
宰相は四十三冊を抱え上げました。
「香炉番を、連れ戻してきなさい」
◆
竜の羽ばたきが、村の空気を震わせました。
鶏が一斉に鳴き、羊が逃げ惑い、マルタ婆が「おやまあ」と言いました。
私は祠の前にいました。いつも通り、午後の一摘みを焚いていたところです。
黒い軍装の男が、降りてきました。
黒髪。霜のような灰色の瞳。左頬に古い裂傷。
竜騎士団長アルヴィス・レーン・ヴェルダ。『氷の団長』と呼ばれる男です。表情が動かない。言葉は三語以内。人形のようだと。
彼は私の前に立ちました。
「セレスティア・ノワ殿か」
「はい」
「王都へ戻られたい」
三語ではありませんが、短いことに変わりはありません。
「お断りします、と申し上げたら?」
「…………」
彼は黙りました。
そして、視線を落としました。私の手元――ではなく、その向こう。祠に立てかけられた、一枚の木の板に。
『トーマ』
四文字。素人彫りの、不格好な字です。
団長の肩が、小さく揺れました。
「……この名は」
「この村の少年の、兄上です。三年前、魔物に」
「……三年前」
「はい」
「辺境の、北東か」
「ノルト峠だと聞いています」
彼が、動きました。
膝をついたのです。鎧の金具が、ごとん、と石に当たりました。
片膝ではなく、両膝でした。
「あの日の、生き残りだ」
声が、低く掠れていました。
「部下を三十一名、失った。遺体は七体しか戻らなかった。残りは……食われた」
彼は内ポケットから、折り畳まれた紙片を取り出しました。何度も開いて畳んだのでしょう、折り目が擦り切れて、今にもちぎれそうです。
広げると、名前が並んでいました。三十一人分。細かい字で、びっしりと。
「国に、名簿を作るよう上申した。四回だ」
「お返事は」
「『魔物に食われた兵の記録に、紙を割く余裕はない』」
沈黙。
風が、細い煙をほどいていきました。
「……俺は」
団長の声が、一度切れました。
「俺は、こいつらの名前を、どこにも残せなかった」
顔の筋肉は、動いていませんでした。無表情のまま。
ただ、灰色の瞳から、水が一筋、落ちました。
三年前から動かなくなった顔で、彼は泣いていました。
私は、炭ばさみを置きました。
「団長閣下」
「……なんだ」
「その紙を、こちらへ」
彼は、素直に差し出しました。
私は紙片を受け取り、祠の前の平らな石に広げ、上から小石を四つ置いて、風で飛ばないようにしました。
そして、樹脂をひとつまみ、炭の上に落としました。
じゅ、と音がして、白い煙が立ちます。
「読み上げます。お手伝いください。発音を間違えたくありません」
「…………」
「閣下」
「……カイ・ベルント」
「カイ・ベルント」
「ヨナス・ハイム」
「ヨナス・ハイム」
三十一人。
最後の一人を読み終えるまで、二人とも立ちませんでした。
煙は、まっすぐ昇りました。
「名前は、消えません」
私は言いました。
「焚いても、埋めても、食われても。――誰かが記録している限りは」
団長が、顔を上げました。
「……あなたは、何者だ」
「香炉番です。前職ですが」
「香炉番は、死者の名を読み上げるのか」
「いいえ」
私は帳面を開き、今日の分を記帳しました。
「それは、私の、もっと前の職の仕事です」
彼はそれ以上、聞きませんでした。
代わりに、私の傍らの炭桶を見て、立ち上がりました。
「運ぶ」
「お待ちを、素手では――」
遅すぎました。
彼は熾った炭の縁を掴み、無言で手を離し、桶を取り落としました。
「……熱いな」
「熱いです」
「次は、手順を教えてください」
真顔でした。完全に、真顔でした。
私は、十二年ぶりくらいに、少しだけ笑ってしまいました。
出立の朝、マルタ婆が干した乳香樹脂をひと包み、私の手に押しつけました。
「あんた、ここで一度も偉そうにしなかったね」
「偉くありませんので」
「ふん。――なあ、娘。死んだ者の名ァ、誰も覚えてねえのが一番こたえるんだ。腹が減るより、こたえる」
私は、その一言を帳面に書き写しました。
書いておくべき言葉だと思ったからです。
◆
王都の議場は、静かでした。
十四日間で死者が二百十九名に達した国の議場は、こういう静かさになるのだと、初めて知りました。
私は中央に立ちました。袖口の焦げた、黒い神官衣のままです。着替える理由がありませんでした。
王が口を開きました。
「セレスティア・ノワ。……戻って、香を焚いてはくれぬか」
「陛下」
私は礼をしました。
「承ります。ただし、条件が三つございます」
「言え」
私は帳面を開きました。昨夜のうちに書いてきた頁です。
「第一。香炉番を、神殿の一職から外し、国家の常設職としてください。俸給を定め、定員を置き、後任育成制度を設けること。――現在、配合比を知る者は私一人です。これは国防上の欠陥です」
宰相ヴァルナ・セードの片眼鏡が、きらりと光りました。
「それは、何人で、何年、いくらかかりますか」
「一人前の育成に三年。初期定員十四名。年間費用は、辺境警備隊一個中隊の維持費のおよそ六分の一です。記録帳の第三十一冊に、消費樹脂量と人件費の試算を綴じてあります」
「……試算を、してあるのですか」
「八年前から毎年」
宰相の手が止まりました。
「なるほど」
短い、しかし決定的な一言でした。
「第二」
私は頁をめくりました。
「魔物被害で死亡した者の名を、国家が記録する名簿を作ってください。辺境も、平民も、兵も、例外なく」
「……それは、国防とどう関係する」
大臣の一人が言いました。
「被害数が分からなければ、結界の有効性は測定できません。どこで何人死んだかを記録していないから、結界が落ちたことに七日も気づけなかったのです」
沈黙。
「現に、ノルト峠では三年前に三十一名の騎士と、少なくとも一名の村人が死んでいます。国の記録には、一行もありません」
私は壁際に目をやりました。
黒い軍装の男が、直立していました。顔は動いていません。
宰相が頷きました。
「それは、何人で、何年、いくらかかりますか」
「書記官四名。初年度は遡及調査がありますので、三年。費用は――建国祭の装花費、一回分です」
議場が、ざわりと揺れました。
「……あの装花、一回でそれだけ使っておったのか」
王が、うめくように言いました。
「第三」
私は最後の頁をめくりました。
「聖女制度を、二つに分けてください。『祈る者』と、『火を守る者』。上下ではなく、対等の二職として」
「……なぜ対等でなければならぬ」
「上下にすると、下は報告書に書かれなくなるからです」
私は神殿長が座っていた席を見ました。空席でした。
「十二年間、私の名は一度も記録に残りませんでした。功績はすべて聖女様の手柄として報告されました。――私は、それで構いません。ですが、記録に残らない職は、いなくなっても誰も気づかない。気づいた時には、二百十九人死んでいます」
静寂。
誰も、何も言いませんでした。
宰相が、片眼鏡を外しました。
「陛下。三案とも、即日起案いたします」
「……認可する」
王の声は、少し震えていました。
私は帳面を閉じ、礼をしました。
「では、本日十七時四十分より、香炉の火入れを行います。――後任育成のため、見習いを十三名、ご手配ください」
「十三名も、どこから」
「一名は確保済みです」
議場の扉が、ばたんと開きました。
赤毛とそばかすの娘が、四十三冊を抱えて転がり込んできました。
「師匠ッ!! 記録帳、ぜんぶ無事です!! 一冊も捨てさせませんでした!!」
「リィナ」
「はいっ!」
「よくやりました。――ところで、第十九冊の表紙に、燭台の跡がついていますね」
「ひぃっ、すみません!!」
私は帳面に記しました。
『第十九冊、表紙に打痕。原因:弟子による緊急隠匿。処置:不要。むしろ記録として残す。』
◆
――辺境、北の監視塔。
「くそっ、なぜ点かない!」
元王太子エドヴァルドは、濡れた炭を火床に叩きつけました。
雨の日でした。
魔物避けの焚き火は、監視塔の役目の一つです。彼の仕事は、炭を背負って階段を百六十段上がり、火を絶やさないこと。
「殿下、炭は上から置くなと何度も」
「殿下と呼ぶな」
彼は息を切らしていました。炭は重く、階段は長く、雨は冷たい。手の皮が破れ、爪の間が黒く汚れています。
一度だけ、彼は思い出しました。満座の大聖堂で、自分が何と言ったか。
『香など、誰が焚いても同じだろう』
「…………」
彼は、帳面を一冊与えられていました。火の記録をつけろと言われたものです。
白紙のままでした。
書いたところで、誰も読みたいとは言わないのです。
――王都、北の修道院。
オーレリア・ミルナは、香炉の掃除係になりました。
聖女位は返上しました。民衆の歓声も、白い祭服も、ありません。
与えられたのは、灰の掻き出しと、炉の内側を磨く仕事です。
朝から晩まで、灰を掻きます。灰は舞い上がり、袖に入り、髪に積もります。炭は手の皺に食い込み、三度洗っても落ちません。
三日目。
彼女は、自分の手を見ました。
潤んだ瞳で民衆を魅了した聖女の手は、黒く汚れ、あかぎれていました。
「……あら」
声が、出ませんでした。
煙は、出せます。誰でも出せます。樹脂を入れて、炭を足せば、白く美しい煙が立ちます。
でも。
届くかどうかは、別なのです。
それを分けていたのは、十二年分の湿度の記録と、分単位の炭の継ぎ足しと、誰にも褒められない帳面でした。
『誰が焚いても同じ』
――同じでは、なかった。
オーレリアは、灰まみれの床に座り込み、声を出さずに泣きました。
生まれて初めて、誰も見ていないところで泣きました。
――大聖堂、地下の書写室。
元神殿長ギルベルト・ハウは、免職されました。処刑も、投獄もありません。
判決は一つ。
『記録帳四十三冊、全頁を書写すること』
地味です。実に地味で、実に重い罰でした。
書き写しながら、彼は知りました。毎日、毎日、三百六十五日。九回から十二回の炭の継ぎ足し。
高熱を出した日も、記録がありました。
『第二千百日。発熱。継ぎ足し回数十一回。手が震えたため、灰の掻き方が雑になった。要改善』
要改善。
老人は、ペンを握ったまま、長く動けませんでした。
彼はまだ、第七冊目です。
残り、三十六冊あります。
◆
大聖堂の朝は、炭の匂いから始まります。
「師匠ォ! 湿度が六分を超えましたッ!」
「落ち着きなさい、リィナ。六分なら、丙種を二厘減らして、炭を一つ奥へ」
「二厘! 二厘ですね! おい新人、聞いたな! 二厘!」
「ひぃっ、はいっ!」
香炉番は、十四人に増えました。
国家常設職『香炉官』。俸給あり、定員あり、三年の育成課程あり。二人目の国家香炉番リィナ・ドルトは、新人を怒鳴りながら湿度計を読む係に成長しました。
「師匠、新人のひとりが、灰を床にぶちまけました」
「記録に書いておいてください。『第一年目、七月十二日。灰こぼし一件。原因:掻き出し角度。処置:翌日に角度指導』」
「そんなことまで書くんですか!?」
「書きます。十二年後、同じ失敗をする新人がいたときに、『あなただけではありません』と見せてやれます」
リィナが、少し黙りました。
「……師匠って、たまに、すごく優しいこと言いますよね」
「記録は、優しさです」
私は炭ばさみを持ち直しました。
「誰かが書き残してくれたから、次の誰かが楽になる。それだけのことです」
祭壇の脇には、長机が置かれています。国家名簿の編纂机です。
黒い軍装の男が、紙を綴じていました。無骨な指で、針と糸を扱っています。
「アルヴィス様。綴じ方が逆です」
「……また逆か」
「背のほうから。こちらです」
私は手を添えました。
彼の手には、炭で火傷した跡がまだ残っています。あれから三回、火傷しました。四回目は、ありませんでした。覚えたのです。
「セレスティア」
「はい」
「第一号の頁を、見てもらえるか」
名簿の、最初の一頁。
『神聖王国レスティア 魔物被害死亡者名簿 第一巻
一号 トーマ 十六歳 ノルト村 三年前・ノルト峠にて死亡 弟ユーリ在
二号 カイ・ベルント 二十二歳 竜騎士団第三隊
三号 ヨナス・ハイム 十九歳 竜騎士団第三隊……』
私は指で、一号の四文字をなぞりました。
「良い字です」
「……あなたの彫った板を、真似た」
「下手な板ですよ」
「消えにくい」
彼の口元が、ほんの一ミリ動きました。
三年ぶりに動いたらしい、と後でリィナが大騒ぎしていました。
「せんせー! 炭、持ってきた!」
亜麻色の髪の少年が、桶を抱えて駆けてきました。裸足ではありません。靴を履いています。
ユーリ。香炉番見習い、一人目。
「ユーリ。炭の湿りは」
「乾いてる! 昨日から風通しのとこ置いといた!」
「よろしい。では今日の湿度は」
「えーと……五分、二厘!」
「読めましたね」
「読めた! 字も、だいぶ読める!」
彼は名簿の第一頁へ走っていき、指で四文字をなぞりました。毎朝の習慣です。
「トーマ」
声に出して、読みました。
「兄ちゃん、ここにいる」
◆
夕刻、十七時四十分。
私は炭を継ぎ足します。
十二年前と同じ手つきで、灰をならし、位置を測り、樹脂を七対二対一で落とします。
祭壇背面の銀板が、ゆっくりと、薄く曇っていきます。
――届いています。
煙は、まっすぐ立ちのぼりました。
天井の高い空間を抜け、採光窓の光を横切って、どこか遠くへ。
マルタ婆が持たせてくれた樹脂の包みは、まだ少し残っています。使い切ったら、またノルト村へ買いに行く約束です。
帳面を開き、今日の分を記します。
『第四千六百二十日。晴。湿度五分二厘。東の風、弱。継ぎ足し本日九回目完了。銀板、曇りあり。良好。
国家名簿、第四百十七号まで記帳。
見習い、十三名。本日の失敗、四件。すべて記録済み。』
ペンを置きました。
誰かが、私の肩越しに頁を覗き込んでいます。
「……あなたは、毎日これを書くのか」
「書きます。十二年書きました。あと四十年は書くつもりです」
「四十年」
「ええ。後任が育てば、三十年に減るかもしれません」
「……俺も、書いていいか」
「どうぞ」
私は帳面を少しずらしました。
彼が、隣に座りました。
炭の匂いがします。
前世でも、今世でも、私はずっとこの匂いの中にいます。
悪くない匂いです。
◆
火を守るのは、地味な仕事です。
誰も見ていません。褒められません。記録にも、長く残りませんでした。
ですが。
煙が途切れた七日後に国が傾き、十四日後に二百十九人が死ぬのなら。
それは、祈りの次ではありません。
「――火を守るのは、祈りの次ではありません。祈りそのものです」
私は言って、炭をひとつ、継ぎ足しました。
煙は、まっすぐ、天へ立ちのぼっています。




