チョコレートの祝福
ホット・ショコラになりたくないチョコレート。だって、一度そうなってしまったら、二度と元には戻れないから。
少年とチョコレートの、冬の夜の小さなお話。
1.
チョコレートは、お鍋の中に沈んでいく仲間たちを見ていました。濃厚なカカオ色のチョコレートはミルクの色と絡まって、とろりと甘くとろけていきます。
寒い冬の日のことです。すっかり暮れた空の下を、人々はコートの襟を立てながら歩いていきました。雪のような雨のような冷たい雫が舞う中で、ろ店の少年からとろけたチョコレートを受け取った人たちは、ほうと深く息をつくのでした。「このホット・ショコラほどおいしいものなんて、想像もつかないね!」
少年には夢がありました。いつか立派なパティシェになって、とびっきりのお菓子を作るのです。少年のパパもママも甘いお菓子が大好きでしたし、隣の家の女の子だって、きっと喜んでくれるでしょう。そのために街に出て来た少年は、冷たい風に身を震わせながら、固いチョコレートをミルクに溶かしているのでした。
ゆっくりとお鍋をかき回しながら、少年がいいました。
「寒くないかい?」
寒いさ、とチョコレートはこたえました。
「氷ってしまいそうに寒いね。割れてしまわないか心配だよ」
「だったら、さぁ」
少年はお鍋を少しだけかたむけていいました。
「お鍋の中に、おいで」
けれどチョコレートは動きません。不思議に思った少年が首をかしげると、チョコレートはため息をつきました。
「僕はホット・ショコラにはなりたくないよ」
2.
少年はびっくりして、チョコレートにたずねました。
「一体どうして、そんなことをいうんだい?」
甘い甘いチョコレートは、おいしく食べてもらうことが夢のはずです。それなのに、ホット・ショコラになるのが嫌だなんて!チョコレートはちょっと黙ってから、少年にいいました。
「ねぇ、僕はずっとここにいたいよ」
お鍋の中に飛び込んでホット・ショコラになるということは、一体どういうことなのでしょう。それはとても幸せなことなのかもしれません。それなのに、チョコレートはどうしてもホット・ショコラになりたくなかったのです。
「お願いだよ、僕はこのままでいたいんだ」
「でも君は、こうなるために生まれてきたんだよ」
「どうなるために?君はパティシェになれるのに僕はそうじゃないなんて、あんまりじゃないか」
少年は困りました。というのも、チョコレートのいうことがまったく正しかったからです。
さらにチョコレートはいいました。
「ねぇ、僕は怖いんだ。そのお鍋の中に入ったら、僕は僕でいられなくなってしまうんだよ」
その通り、一度ホット・ショコラになってしまえば、チョコレートはもう二度と同じチョコレートには戻れないでしょう。たとえ寒さで再び固まっても、それは色も形もちがう、今のチョコレートとは別のものなのです。
「君は僕を溶かせても、その逆のことはできないんだ。だったら、僕をホット・ショコラにするべきじゃないんじゃないかな」
とろけていくチョコレートの甘い匂いが、冷たく雪の舞う空気に溶けていきます。それに気づいた人々は速足に歩きながら、少年とチョコレートに短く挨拶をして行くのでした。「神のご加護がありますように!」。
3.
聞き慣れた喧騒に耳を澄ませながら、少年はゆっくりといいました。
「じゃあ君は、明日の夜もその次の夜も、ずっとここにいるのかい?」
「そうとも」
「ここにあるチョコレートがみんなホット・ショコラになっちゃっても、いつか僕が立派なパティシェになって田舎に帰っても、ずっと?」
チョコレートは黙りました。少年は続けます。
「僕はずっとここにいるわけにはいかないよ。明日はトリュフをつくるつもりなんだ」
「それは素敵だね」
「そうだろう?僕が思うに、大人になるってとても素晴らしいことなんだ。だって、生きていなきゃそうは出来ないからさ」
チョコレートはしばらく考え込んでいましたが、やがて少年にたずねました。
「僕のことを覚えていてくれるかい?」
少年は答えました。
「もちろんだとも!」
ホット・ショコラはチョコレートとはちがうものだけれど、チョコレートがなければショコラはできないということは誰でも知っています。たとえホット・ショコラになっても、それはチョコレートがチョコレートだった証なのです。少年は神様ではないけれど、この美しい冬の夜のことをずっと覚えていてくれるでしょう。
チョコレートはほほえむと、少年の頬にひとつキスをして、ゆっくりとお鍋の中で溶けていきました。
「おめでとう」
くるりとひとつお鍋をかきまぜて、少年はチョコレートを祝福したのでした。
変わることは恐くない。
祝福と共に迎え入れて。




