欠落した記憶
《ノヴァ・アトラス》の朝は、太陽の光よりも先に音で目覚める。
量子通信塔の共鳴音が、低く、規則正しく都市の空気を震わせる。窓を透過する光は青白く、人工太陽のスペクトル調整によって「最も生産性が高い」とされる波長に固定されていた。レイの部屋には、消毒用ナノミストの微かな薬品臭と、遠くの海から運ばれる塩の匂いが混じっている。
レイはベッドの縁に腰掛け、両手を見つめていた。
指先に、昨夜白石レンのニューロリンクを外したときの、あの微かな熱の感触が残っている気がした。
――欠損、30秒。
オルフェウスの声が、何度も頭の中で反芻される。
「たった30秒で、人は何を失う?」
独り言は、空気に溶けて消えた。
壁面に投影された記憶ログのタイムラインには、昨日の22時17分13秒から14秒の間だけ、黒い空白があった。
《MNEMOS》の記録は本来、量子冗長化によって欠損しない。記憶は神経信号として保存され、同時にクラウドへバックアップされる。二重、三重の保険がかけられているはずだった。
それなのに、そこだけが切り取られたように消えている。
気絶しただけなら話はそこで終わるが、そうじゃない違和感が強くある
レイはニューロリンク端子をこめかみに装着した。
金属の冷たさが皮膚に伝わり、次の瞬間、意識を内側へ沈み込める。
暗闇。ノイズ。そして、断片的な映像。
白い研究室。
誰かの背中。
声にならない言葉。
――「そうだったのか…理解してしまった」
自分の声だった。
レイは息を呑み、リンクを外した。
「……私が、何を?」
心拍が早くなる。
情動スペクトルを開くと、欠損部分に対応する感情データは、奇妙なほど平坦だった。恐怖も、喜びも、怒りもない。まるで、意図的に“無感情”へ補正されたような波形。
その時、部屋の通信パネルが点灯した。
「神崎さん!話したいことがあるので研究区画B-12へ来てください」
黒川ミナの声だった。
研究区画B-12は、記憶工学研究者・佐伯シンのラボだ。
通路を進むにつれ、空気は冷え、機械油と焦げたプラスチックの匂いが強くなる。壁面には神経回路の模式図と、量子アルゴリズムの数式が重ね書きされていた。
扉が開くと、佐伯シンが回転椅子に座ったまま、こちらを振り返った。
無精ひげ、乱れた白衣、目の下の濃い隈。
「おはよう、探偵さん」
「やめて。その呼び方私は心理学者って何度も言ってるでしょう」
レイは部屋を見回した。
中央のホログラムスクリーンには、白石レンの記憶ログが拡大表示されている。
「ミナから聞いた。君の記憶が欠けたそうだな」
「……ええ。あなたの専門でしょう?」
佐伯は肩をすくめた。
「《記憶補正》はこのラボでも出来る。なにせ人間の脳は機械が無くとも記憶補正を行っているからな。だが《記憶消失》は違う。まあ、とにかく調べてみよう」
検査後
「君の記憶を削除された痕跡があった」
「誰が、そんなことを?」
佐伯は答えず、代わりに別のデータを表示した。
「白石のログにも、同じ構造の欠損がある。死亡直前の30秒」
ミナが唇を噛んだ。
「じゃあ……二人は同じ“何か”を見た?」
「あるいは、同じ“何か”を見せられた」
佐伯の指が空中をなぞる。
「これは《観測誤差》じゃない。《意図的な編集》だ。MNEMOSに直接介入できる存在は――」
三人同時に、同じ名前を思い浮かべた。
「オルフェウス……」
ミナが呟いた。
「でも、この考察はあり得ない。だってAI更にオルフェウスは人格を持たない観測者よ。記憶を改変する権限はない」
佐伯は笑った。
「その通り!だが“権限”がないのと、“能力”がないのは別だ。オルフェウスは都市全体のニューロリンクを監視している。理論上、すべての記憶にアクセスできる」
レイは胸の奥が冷えるのを感じた。
「じゃあ、なぜ私と白石だけ?」
「それは――」
佐伯の言葉を遮るように、オルフェウスの声が、天井から降り注いだ。
「その推論は不正確です」
「私は記憶改変を行っていませんし、権限も持っていません」
レイが即座に反論した。
「じゃあ、この欠損は何?」
「分類不能なデータです」
沈黙。
0.2秒。
「神崎レイ。あなたは昨夜、白石レンの《犯罪認識モデル》にアクセスしました」
「……それは、覚えている」
「その直後、あなたの情動スペクトルは急激に変化しました。恐怖と理解が同時に最大値を記録しています」
佐伯が目を細め顔を顰めた。
「理解、だと?」
「はい。“理解”です」
レイは自分の手を握りしめた。
「私は……何を理解したの?」
オルフェウスは一拍置いて答えた。
「現在あなたの記憶には何を理解した存在しません」
その言葉は、事実であると同時に、宣告のようだった。
ラボを出たあと、レイは一人、都市の外周デッキへ向かった。
人工島の縁から見下ろす海は、朝日を反射して銀色に光る。風は冷たく、金属床の感触が靴底を通して伝わる。
彼女は手すりに触れ、目を閉じた。
妹の顔が浮かぶ。
未解決事件。
記憶に残らない最後の瞬間。
「……また、同じだ」
背後から足音。
「感傷に浸る趣味があったか?」
天城ユウトだった。昨日と同じコートの襟を立て、海を見ている。
「君の記憶欠損、興味深い現象だ」
「慰めのつもり?」
「いいや。科学的関心だ」
天城は続けた。
「白石の理論は、“犯罪は行為ではなく認識によって成立する”というものだった。観測者がそれを犯罪だと定義した瞬間、現実が確定する」
「量子力学みたいね」
「そうだ。シュレーディンガーの猫と同じ構造だ」
天城はレイを見る。
「もし君が、何かを“殺人”と理解したなら……その理解自体が、犯罪を完成させた可能性がある」
レイの背筋に寒気が走った。
「それって……私が?」
「仮説だ。だが、君の記憶が無いのは、耐えられなかったからじゃないか?」
「消されたじゃなくて、消えた?」
「その可能性の方が高いってことぐらいわかっているだろ?」
海風が強く吹いた。
磯の匂いが、鼻に残る。
レイは答えなかった。答えられなかった。
遠くで、都市の警報音が一度だけ鳴った。
新たな異常通知。
ミナからの通信が入る。
「神崎さん……また自殺者が出た」
レイは目を閉じた。
欠落した30秒。
理解してしまった“何か”。
そして、再び起きる事件。
彼女の中で、ひとつの疑念が形を持ち始めていた。
――もし、犯人が“誰か”や“オルフェウス”ではなく、
――“理解した私自身”だとしたら?
レイは海から視線を離し、都市の中心へと歩き出した。
背後で、オルフェウスの声が、誰にも聞こえない音量で呟いた。
「観測は、現実を生成します」
その言葉の意味を、レイはまだ知らない。




