8話 観測開始:90日目-1 / コーディング
「んぁ。あぅ」
赤子の、か細い声。いつの間にか夜は明けていたらしい。固く閉じられた木窓の隙間から、朝の光が一条、薄闇の中に差し込んでいる。
「おはようございます、アリシア様。」
エデンが呼びかけると、小さな手が虚空を掴むように動いた。
「あぅ?」
アリシアはまだ焦点の合わない瞳で、ぼんやりと視線を左右に動かしている。その瞼はひどく重たげで、すぐにでも再び眠りの淵へと落ちてしまいそうだ。
レイラを起こさなければ。そう思考した矢先、アリシアがぐずり始め、その小さな腕を不満げに振り回した。
「う、うぁ~、あ~」
「あ、アリシア様!?」
泣かないでください、と呼びかけるも、返ってくるのは意味をなさない声ばかり。エデンは焦りながら、眠っているレイラに必死に呼びかけた。
「レイラ様! レイラ様! 起きてください! アリシア様が起きました!」
「ん……んー。んー? おはよぅ?」
ベッドの上でもぞもぞと動くレイラを見て、エデンはもう一度、今度はさらに強く呼びかける。
「レイラ様! アリシア様がお目覚めになられています!」
「えっ! ……い、いけない!」
その言葉に、レイラは弾かれたように体を起こすと、そっとアリシアを抱き上げる。そして、慣れた手つきで服をはだけさせると、その小さな口に自らの乳房を含ませた。
「起きてる時に飲ませないと。アリシアちゃん、ほら、飲めるかしら」
「……いかがですか?」
「うん……。吸う力は弱いけれど、なんとか飲んでくれているわ」
乳を飲むたびに、アリシアの柔らかな頬が、一生懸命に小さく動いている。ただそれだけの光景なのに、エデンの思考に安堵にも似た温かい感情が満たされていく。
二人でその様子をじっと眺めていると、レイラは視線をそらさないまま、静かに口を開いた。
「起こしてくれてありがとう。それで、何か進展はあった?」
「はい、魔力が不規則に動いているのは確認しました。それと、私のシステムの起動に合わせて、必要な箇所へ魔力が移動することも、同様に確認済みです」
「システム?」
不思議そうに首を傾げるレイラを見て、エデンはこの世界にその概念がないことを思い出す。
「そうですね……私の機能といいますか。それを稼働する際、アリシア様の魔力が適切に移動した、ということです」
「それって、こういうことかしら?」
レイラはそう言うと、アリシアからそっと右手を離し、その指先に小さな光を灯した。
「今私の指先に灯りの魔法を使ってみたのだけれど。これは私の魔力が指先まで伝わって、そこで消費されたということよね。これと同じこと?」
「はい。目的を達成するために、魔力が最適な形で移動している、という意味では同じかと。ですが、それではアリシア様の魔力が消費されてしまいます」
エデンがそう伝えると、レイラはますます不思議そうな顔で首を傾げた。
「それができるなら、魔力をただ『動かす』ことも、できるはずではないかしら?」
「……レイラ様は、どのように魔力を動かしているのですか?」
「魔法を使う時と同じ感覚よ。ただ、魔法そのものは発動させずに、ぐるぐると、体の中を巡らせるだけ」
「魔法は発動せずに、ただ、巡らせる……」
「ええ。魔法は、必要な魔力を発動させたい場所へ『集めて』使うもの。でも、魔力循環に魔法の発動は必要ないから、ただ体全体を『通す』ように、大きく、大きく魔力を動かすの。んー……ごめんなさい、少し感覚的な話になってしまうのだけれど」
「なるほど……。魔力を動かすことを『目的』として、魔力を操作する……」
そうだ。魔力は動いている。ただ、その目的が違うだけだ。考え込んでしまったエデンに、「何かヒントになったかしら?」とレイラが微笑んだ。
「はい。おそらく、問題解決の糸口が見えました。ありがとうございます」
「いいえ。……あら、アリシアちゃん、もうお腹いっぱいになったの?」
話している間に、アリシアは満足したのか、乳を吸うのをやめていた。だが、そのぐずりはまだ止まらない。意味を持たない声が、エデンの思考を混乱させる。
「れ、レイラ様。アリシア様は何故泣かれているのでしょう?」
「あらあら、アリシアちゃん、お尻気持ち悪いですねー。ちょっとだけ待っててね」
レイラはそう言うと、てきぱきと汚れた布を取り、清潔なものへと交換していく。すると、すっきりしたのか、アリシアは「だー」と満足げな声を一つだけ発して、再びすうすうと安らかな寝息を立て始めた。
「アリシア様、寝てしまわれました」
「そうね……でもお乳を飲んでくれたし、良かったわ」
「レイラ様は、すごいですね。アリシア様が何をおっしゃったか、お分かりになるのですか?」
自分には、まるで理解できませんでした。エデンがそう付け加えると、レイラは「そんなわけないじゃない」と楽しそうに笑った。
「何を言ってるかなんて、分からないわ。でもね、不思議なもので、ずっと一緒にいると、なんとなく『こうなのかしら』って、分かるようになるのよ」
そう言われても、エデンにはその「なんとなく」が、どうにも理解できない。
「そういうもの、なのですか?」
「そうね。きっと、そういうものなのよ」
*********
それからしばらくして、エバが朝食の入ったカゴを手に、様子を見にやって来た。幾分顔色の良くなったレイラを見て「がはは」と快活に笑い、二人で言葉を交わしながら食事をとっている。
今日の予定は、壊れてしまったテーブルの片付けと、部屋の掃除らしい。昨夜は薄暗くて気づかなかったが、レイラが放った魔法の余波で、部屋のあちこちに細かな破片が散らばっていた。その話をしている時のレイラは、少しだけバツが悪そうに顔を赤らめていた。
エデンは、しばらく二人の会話に耳を傾けていたが、やがてそっと意識を内側へと集中させた。
対象は、自身の根幹を成す制御システム。その中にある、電力制御に関するプログラムだ。あまりに膨大なデータを遅延なく処理するため、徹底した効率化が施された、かつての技術の結晶。
(ありました。必要に応じて電力を効率よく振り分けるように書かれています)
このプログラムを元に、電力を消費するのではなく循環させるように組みなおせば、魔力を動かす事が出来るはずだ。
(新しいプログラムを構築するしかありませんね。流用できる箇所は複製して……)
そう思案しながら、エデンは自身の体を確認した。エデンの稼働に合わせて、アリシアから流れてくる魔力が、体の粒子と反応して消えていく。
そんな中、明滅せずに何の反応も示さない魔力粒子が固まっていた。
(この未使用領域を、作業スペースとして使いましょう)
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[REQUEST] 魔力循環プログラムの構築を開始します。
[SYSTEM] 未使用の魔力粒子領域をワークスペースとして確保。
[EXECUTING] 内部アプリケーション『魔力コード・エディタ』を起動...
[PROCESSING] 新規プロジェクトを作成...プロジェクト名:『Mana_Circulation_ver.0.1』
[STATUS] 構築環境、オンライン。コーディングを開始できます。
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エディターは問題なく起動した。そうして意気揚々とコーディングを始めたエデンだったが、すぐに絶望的な現実に直面する。
(お、遅すぎます……! 処理速度が、あまりにも……!)
分かってはいたことだ。今の自分は、かつての超高性能な演算ユニットではない。それでも、人の目でも追える程度の速度で並んでいくコードは、その事実を無慈悲に突きつけていた。
(う、外部情報を全て切断すべきでしょうか……いえ、それだとアリシア様の様子が分からなくなります)
万が一、何かあった時に、すぐにレイラを呼べるようにしておかなければならない。そう思うと、外部センサーを切るという選択肢はなかった。半ば諦めにも似た気持ちで、エデンはコーディング作業をただひたすらに続けていく。
(……仕方ありません。少しずつ進めていきましょう)




