58話 観測開始:5年3日目-3 / 氷の竜はその顎を開き
「くっ!」
ディーンの絶叫に、レイラは咄嗟に前方へと倒れ込んだ。
頭があった場所を、白い拳が風を切り裂く音と共に通り過ぎる。
レイラは倒れ込む体を杖で支えると同時、その杖先から魔力を地面へと流し込んだ。青白い光が地を走り、魔族の背後から無数の氷の槍がその背中めがけて突き出した。
「おっと?」
「避けられた!?」
レイラが悔しそうに振り返る隣で、ディーンの思考は、さらに加速していく。
「左だ!」
死角からレイラめがけて放たれた拳を、ディーンが大剣を盾のように構えて受け止める。
華奢な体には見合わない、あまりに重い衝撃。
「っ、おらぁっ!」
拳を押し返すと共に大剣を振り抜くが、刃は手応えなく空を切るだけだった。
ディーンが顔をしかめると、再び現れた魔族が、不思議そうな顔で尋ねた。
「貴方、わたくしの位置が分かっていますか? 一撃で、終わらせるつもりだったのですが」
「……どうだろうな。偶然かもしれんぞ」
「なるほど……その可能性も、考慮すべきですか」
そう言って思考するように、魔族は動きを止めてしまった。
「……あいつ、馬鹿なのか?」
「かも、しれないわね……それで、どうするの?」
「まず攻撃を当てないと、話にならん。倒せなくて良い。当てられるか?」
「ええ、もちろんよ」
ディーンの口元が、ニヤリと歪んだ。
彼女がそう言うのなら、それは可能なのだ。
「あの服がお気に入りらしいな。汚せるか?」
「どうせなら、色も付けようかしら」
ディーンが剣を構え直した横で、レイラは水を霧状にして生成していく。
霧は熱気を帯び、やがて血のような鮮やかな赤色に染まっていった。
「行きなさい」
レイラに命じられ、摂氏百度を超える熱い霧が、周囲へと一気に広がっていく。
魔族は嫌そうな表情を浮かべ、想像通り姿が消える。
「――これなら、どうかしら!?」
叩きつけられた杖が、二人の周囲一面の地面を光らせる。
まるで雨が時を巻き戻すように、氷の礫が上空へと一斉に舞い上がった。
「くっ……!」
呻くような声に、ディーンの体が獣のように反応する。
握りしめた大剣を、声がした方角へとただ無心で振り抜いた。
「ちいっ!」
切れたのは袖だけ。
振り抜いた大剣を、力で無理やり引き戻す。
体勢が崩れたジェイの首元へ、渾身の一撃を振り下ろした。
(当たれっ!)
「甘いですよ」
魔族の輪郭がぶれ、大剣は残像を素通りし地面を叩きつけた。
ジェイは大剣の峰を踏み台にすると、ディーンの顔面めがけて殴りつけてきた。
「くっ!?」
咄嗟に大剣を手放し、仰け反るようにして拳を避けるが、額を掠め、勢いで肉が抉れ鮮血が噴き出した。
「っ、くそがっ!」
視界に鮮血が舞う中、ディーンは振り抜かれた右腕を、鷲掴みにした。
「お?」
攻撃の勢いを利用するように引くと、ジェイの体勢が崩れる。
右手でタキシードの胸倉を掴み、右足で腹を蹴り上げると、その足がジェイの腹へめり込んだ。
「ぐっ!?」
(っ! 当たった!)
なぜか、転移しない魔族。
ディーンは蹴り上げた足を踏み込むと、それを軸足に顔面へ上段蹴りを叩き込んだ。
「がはっ!」
確かな手応えが、足を伝ってくる。
ジェイの体が吹き飛び、無様に地面の上を転がった。
「おい、レイラ。……当たったぞ。なぜ転移しなかった?」
「……何か、条件があるのかもしれないわ。……例えば、掴まれていると、転移できない、とか」
「……なんとか、もう一度掴んでみせる。その後は頼む」
確証はないが、ディーンは大剣を拾い上げ、レイラは右腕を竜の腕へと変えていく。
二人の視線の先でジェイが起き上がると、肩が小刻みに震えている。
ディーンが何かと目を細めると、その顔がバッと上がった。
「き、貴様あっ! よ、よくも、やってくれたな!」
見れば、その頬に一筋の涙が流れている。
「汚れてしまったではないか! 見ろ! わたくしの穢れなき一品がご覧の有様だ!」
狂ったようにタキシードの土埃を払い、ジェイは歯ぎしりをしながら、怒りに燃える瞳で二人を睨みつけた。
突然、土埃で汚れてしまった上着を勢いよく破り始める。
「こんなもの、いらん! 貴様ら、許さんぞ! 殺してくれる!」
「……なんだ……魔族ってのは、皆ああなのか?」
「分からないわ。会ったのは、初めてだから」
冷静さを失った魔族に二人が狼狽えていると、ジェイは両手を広げ獣のような呻き声を上げ始めた。
シャツの下の肉体が異常に盛り上がり、音を立ててシャツが破けていく。
青白かった肌が禍々しい薄黒い色へと染まり、腕は太く長さも倍近くに伸びた。手の先には鋭く伸びた爪が、地面をギリィと引っ掻いている。顔は口が耳まで裂け、歯が異様に尖っていた。
気づけば、上半身だけが肥大化した異様な姿が立っていた。
「……化け物、だな」
「っ! くるわ!」
「がアああっ!」
雄叫びと共に、化け物の右腕が振り下ろされた。
「――っ! 氷鱗!」
咄嗟に、レイラが一枚の巨大な氷の盾を作り出す。
拳が打ち付けられ、鈍い音と共に巨大なヒビが入った。
「そんなっ!?」
「糞虫ガあぁっ!」
ジェイの姿がふっとかき消え、ディーンの瞳が鋭く横を射抜く。
「っ見えているぞ!」
空気を裂くようにして放たれた拳は、しかし、ディーンの予測を僅かに上回っていた。
咄嗟に体を反らし避けようとするが、ディーンの右肩を骨ごと打ち抜いた。
肉が弾け飛び、腕がおかしな方向へと折れ曲がる。激痛が全身へと広がり、衝撃に体が浮き上がった。
「ぐうぅっ! うおおおぉぉっ!」
大剣を放り投げ、振りぬかれた腕を両手で掴むと、ジェイの目が見開かれた。
「レイラァッ!」
「ええっ! 潰れなさい!」
竜の腕がさらに巨大化し、ジェイを真上から叩き潰した。
衝撃で地面が割れ、ジェイの頭が下がる。だが膝をつきながらも、倒れることなく体で受け止めていた。
「ぐ、グううぁ!」
「くそっ、もう一発だ!」
「ウオおおォッ! この、糞どモガぁっ!」
「なっ!?」
振り払われた腕に竜の手が弾かれ、砕け散りながら宙へと消えていく。
ディーンが掴んでいた腕も、抑えきれずに外されてしまった。
そして、残像を置き去りにしてジェイの姿が消え――。
「うしっ――ろ!?」
反応を追ったディーンの腹に衝撃が走った。
めり込んだ拳から骨を砕く鈍い音が響き、ディーンの体が数メートルも吹きとぶ。
「……がはっ」
口から血の塊が零れ落ちる。呻きながら腹に手を当てるが、動ける。
殴られただけだ。だが――。
「コのアマがあぁっ!」
一人残されたレイラをジェイの目が貫き、呻り声を上げながら再び転移する。
頭の中に鳴り響く警報に、レイラは咄嗟に杖で地面を叩いた。
「鱗華!」
無数の氷の鱗が花弁となり、レイラを守るように咲き乱れる。
直後、背後から叩きつけられる重い音に振り返れば、鱗に巨大なヒビが走っている。
「――っ!?」
もう一撃と拳が引かれるのが、盾の向こうに透けて見える。
このままでは、防ぎきれない。
「――分子間結合!」
「ッグギャアアァァッ!?」
一枚に姿を変えた盾が、その一撃を受け止めた。
殴りつけたジェイの指がおかしな方向へと折れ、皮膚を破って骨が突き出している。
安堵にレイラがふっと息を吐いた。次の瞬間、視界から輪郭がブレたかと思うと――。
「しまっ――!?」
横から襲いかかった左手が、レイラの細い腰を掴んだ。
「ヨグもぉ! やってクレだなぁっ!」
「ぐっ! あああぁっ!?」
あまりの力に、骨が悲鳴を上げて砕けた。
内臓が潰れるおぞましい感触。血が喉を逆流し、口から溢れ出す。
息が詰まり体がびくりと跳ねると、ジェイの顔が嬉しそうに歪んだ。
「ヒヒ、ハははっ! コレが、わたくしを、汚シタ報いダ! 死ねエぇっ!」
長い爪がレイラの腹を抉り、鮮血が黒い手を汚していく。
悲鳴も声にならず、レイラの体が大きく震えた。
血で喉が詰まり、息ができない。下半身の感覚が消え、腹部は燃えるように熱い。
この傷は助からないと、思考が霞んでいく。すると、遠くからレイラを呼ぶ声が聞こえた。
うっすらと目を開くと、必死の形相で駆け寄ってくるディーンの姿が見える。
(……そう、ね。まだ……)
レイラの手が震えながらゆっくりと上がり、ジェイの腕に触れた。
「ゴフッ、ぐ……」
口から零れた血が黒い肌を濡らす中、手のひらに魔力を集めていく。
「ン? なんダ、まだ息ガあったノカ?」
「……まげるの……は……あなだ、よ」
触れた場所から魔力が走り、腕を凍らせる。
杖で地面を突くと、ジェイの足元へと閃光が走り、低い音を鳴らしながら氷らせていく。
最後の足掻きとジェイは鼻で笑うが、次の瞬間にはうろたえたように顔をゆがめた。
「……何ダ? 割れんゾ!」
体を登るように進む氷に、ジェイはレイラの体を持ち上げた。
「クソが! 叩き潰シテグレる!」
肘まで固まった腕が、レイラもろとも大きく振り上げられる。
そこへ、飛び上がったディーンが上段から大剣を振り下ろした。
「――放せ」
一閃が、ジェイの腕を肩口から切り落とした。
一瞬の浮遊感。そして地面に落ちた衝撃に、レイラの体が悲鳴を上げる。
(起き……ないと……)
頭では理解しているのに、体からは血と共に力が抜け出ていく。
暗くなっていく視界の中で、ディーンと魔族が対峙しているのが見えた。
氷に捕らえられたジェイは、転移できないのか脱出しようともがいている。
その首元めがけて、ディーンは大剣を振り下ろした。
黒い一閃が肉を裂き、体の中心へと深くめり込んでいくが、残されたジェイの左手が刃を力任せに掴んだ。
「キ、貴様アぁっ!」
「ぐ、うおおおぉぉっ!」
渾身の力を込め、ディーンはゆっくりと、大剣をさらに深く押し込んでいく。
「わ、ワタくシが、ムシけら、ごとき、にいぃっ!」
ジェイが歯ぎしりする間も、ディーンの大剣は、静かにその命を削っていく。
その時、足元の氷からビギッと不吉な音が響き、ジェイがニヤリと笑った。
「う、うおおおっ!」
「ぐぐグ、グアアああぁっああアアああ!」
氷が砕け散り、ジェイの自由になった左足が、ディーンを押しのけるように蹴り飛ばす。
「っ、くそがぁっ!」
後ずさりながらディーンが悪態を吐くが、視線の先にはおびただしい血溜まりだけが残っている。
反応を追い背後を振り返ると、微かに見えた拳が、ディーンの右肩から先を完全に吹き飛ばした。
「ぐっ……!」
血しぶきを撒き散らしながら、それでも、ディーンは左手一本で大剣をジェイめがけて振り下ろす。
だがあまりに力のない一撃を、ジェイの拳が容易く弾き飛ばした。
大剣が手から離れ、無防備になったディーンの腹を、抜き手が貫いた。
「がっ……!」
「あ、アハ、ヒャはは! 雑魚が! ザこがアっ!」
勝った。勝ったのだ。思わぬ苦戦を強いられたが、それもこれで終わり。後はさっさと村を滅ぼせば。
そんな考えがジェイの思考によぎると、腹を貫かれたまま動かなかったディーンが静かに口を開いた。
「おい。……まだ、終わってねえだろうが」
赤い瞳をギラリと光らせ、残された左手でジェイの腕を掴んだ。
目に見えるほどの、赤くゆらぐ膨大な魔力が溢れ出す。指が黒い皮膚を貫通し、肉へと深くめり込んだ。
「ぐっ!?」
「……レイラ……まだ、生きてるだろう」
「……ええ」
消えるようなか細い声に、ディーンは振り返ると笑った。
「やれ」
その言葉に、レイラの最後の魔力が溢れ出した。
周囲一帯の空気を白く染め上げ、大地を根こそぎ凍らせていく。冷気はディーンの吐く息を凍らせ、ジェイの体を包み、そしてレイラ自身も凍らせていく。
「な、ナんだ、ソの、魔力量ハ……?」
凍りついた空気が圧縮され、徐々に輪郭が浮かび上がる。
細い足は大地を力強く噛みしめ、長く伸びる尾は優雅に揺らめいている。全身を覆う純白の鱗は朝の光を反射し幻想的に輝いていた。
美しく輝く氷竜の顎が開かれ、竜の体を形成した全ての魔力が収束していく。
「や、ヤメロ……は、放セ!」
焦るようにジェイが腕を振るうも、ディーンの体はピクリとも動かない。
すると、しなだれかかるように竜の体に身を任せたレイラが、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり……良い、ママには……なれなかった」
「……あ? また、どうした」
ディーンの優しい声に、レイラの目から、一筋の氷の涙がこぼれ落ちた。氷の粒は頬を滑り、カランと虚しい音を立てて砕ける。
「……約束……たった……たった、1つだけ、だったのに……守れ、なかった……」
「……なら……俺も、同じだな」
「ヤメろ……ヤメろおおおオオオおおぉぉぉっ!!!」
絶叫と共に、世界が、白く染まった。




