37話 観測開始:3年65日目-3 / 魔法の片面
トリト村から北へ、川沿いの道を歩くこと十数分。本来なら絶えず水の流れているはずの川床を、レイラは静かに覗き込んでいた。彼女の肩で、エデンが同じように眼下の光景を見つめている。
「……確かに水は流れていないけれど、思ったよりは乾いていない、かしら?」
幅三メートルほどの、人の手で整えられた水路。村の生活を支えるこの小川は、今やその流れを止め、ごろごろとした石が転がる川底を白く陽光の下に晒していた。
レイラの隣で同じく川を眺めていたディーンは、険しい表情で腕を組むと、早々に視線を上げた。
「まあ、上流へ行けば、何かしら分かるだろう。行くぞ」
「ええ」
ディーンの背を追うレイラの装いは、いつもとまるで違っていた。身に纏うのは、夜の湖を思わせる深い群青色のローブ。艶やかな生地は光を弾き、長い袖と丈にもかかわらず、じりじりと照りつける太陽の下で彼女は汗一つかいていない。その手には白木作りの長い杖が握られ、先端には蒼い宝石が埋め込まれ、石突は銀色の金属で補強されている。
時折、他愛のない言葉を交わしながら上流へ向かう。その軽やかな足取りに、エデンはふと気づいた。
「ママ様、何だか、とてもご機嫌なご様子ですね」
「ん? ふふ、そう見える? そうかもしれないわ。こうして村の外を歩くのは、本当に久しぶりだから」
風がふわりと吹き、ローブのフードがエデンの視界を掠める。その生地の滑らかさに、新たな疑問が湧いた。
「ママ様、今日は初めて見るお召し物ですね」
「うん。これはね、魔道具なのよ」
そう言ってレイラは片腕を上げ、エデンに袖口を見せた。そこには銀糸で緻密な刺繍が施されている。
「この生地は、ある魔物の皮を鞣したもの。この刺繍も、ただの飾りじゃないわ」
「魔物の、ですか?」
「ええ。こちらの杖も同じ。ほら、ここに魔術式が刻まれているのが見えるでしょう?」
示された杖の先端、宝石の周りから石突にかけて、精緻な幾何学模様が彫り込まれていた。
「この魔道具は、どのような物なのですか?」
「ローブはね、体感温度を調整して、物理的な衝撃を和らげてくれるの。杖に刻まれた魔術式は、魔法の威力を増幅したり、制御を補助したり――」
その時、レイラの説明を、前を歩いていたディーンが足を止めて遮った。
「二人とも、ちょっと待て」
「あら、魔物?」
「ああ。 この先にな」
ディーンの言葉に、エデンは前方を凝視した。川沿いから少し離れたところに森が広がり、平坦な道が続いている。視界に入る限り、動くものの影はない。
「ディーン様、魔物はどちらに?」
「ん? ああ、1キロほど先の森の中だ」
「1キロ……先の、森の中、ですか?」
先日、ゴブリンを討伐した時もそうだった。姿が見えるずっと前から、彼は敵の存在を正確に把握していた。エデンの驚愕を察し、レイラが微笑む。
「ディーンはね、とても珍しい探知系のスキルを持っているの」
「探知系?」
「ああ。人や魔物の位置が分かるだけだがな」
ディーンはつまらなそうに言うが、そのスキルの圧倒的な有用性に、エデンは驚いたように羽を震わせた。絶対的な先制攻撃の権利。危機回避能力。これほど強力なスキルはない。
「……驚きました。素晴らしいスキルですね」
エデンの率直な賞賛に、なぜかディーンはふいっと顔をそむけた。それを見てレイラは苦笑しながら、「さあ、行きましょうか」と再び歩き出す。
「……まあ、歩きながら話すか。この先にいるのは灰狼だな。数は4匹」
初めて聞く名前に、エデンは首を傾げた。
「ハイロウ?」
「狼型の魔物よ。嗅覚がとても鋭くて、風向きによっては、こちらが気づく前に察知されることもある厄介な相手ね」
「狼ですか」
ゴブリンとは違う、獣の魔物。エデンがその姿を想像していると、ディーンが淡々と情報を加えた。
「群れのリーダーがいる事もあるが、今回はいないな」
「そう。それじゃあ、今回は私が戦おうかしら」
レイラはそう言うと、むん、と杖を前へ突き出した。
「おい、お前が戦うのは久しぶりだろう。大丈夫か?」
「あら、大丈夫よ。それにディーンはこの前、エデンちゃんに良いところ見せたんでしょ?」
レイラはこちらをじっと見つめ、その瞳に悪戯っぽい光を宿した。
「わたしも『ママは強い』ってところ、見せてあげなくちゃね」
レイラは杖を片手に、ディーンを追い越し、先頭に立った。エデンが心配そうに二人を交互に見つめるが、ディーンは「やれやれ」と肩をすくめるだけで、何も言わない。
しばらく進むと、ディーンが「……来るぞ」と低く告げて足を止めた。レイラが数歩前に進み出る。ディーンは剣に手をかける素振りも見せず、ただ静観する構えだ。彼の圧倒的な戦闘を目の当たりにした後では、レイラが同じように戦えるとは、どうしても思えなかった。エデンが心配のあまり彼女の頬に体を寄せると、レイラはまるで緊張を感じさせない声で、不意に問いかけた。
「エデンちゃん、魔法は、楽しい?」
「え……? なんですか、突然」
「魔法はね、本当に色々なことができるわ。アリシアも毎日楽しそうに練習してるし。でもね、魔法はただ楽しいだけじゃないから――」
レイラがそう呟き、杖を軽く一振りした。先端の宝石が淡く輝き、キラキラと光る極小の氷の粒が、霧氷のように周囲に広がっていく。
その瞬間、森の木々が激しく揺れ、血に飢えた三つの影が飛び出してきた。大型犬ほどの体躯。しかし、剥き出しの牙はより鋭く、その瞳には理性のない獰猛な光が宿っている。
「ガアアッ!」
「グルルルァァッ!!」
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[ALERT] 未定義の生体情報を複数、観測。
[CLASSIFICATION] 暫定分類:哺乳綱ネコ目イヌ科イヌ属に近似。
[ERROR] データベースに該当する既知の地球生物が存在しません。
[SYSTEM] 新規カテゴリ『魔物:灰狼』として仮登録します。
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「よく見ていてね」
レイラの顔から、微笑みが消えていた。彼女は杖の石突を、地面に強く一突きする。杖の先端の宝石が閃光を発し、青白い光の波紋が、地面を霜で覆いながら広がった。それが猛進してくる灰狼たちの足に触れた瞬間、波紋は瞬時に凍てつき、狼たちの下半身を分厚い氷の塊で地面に縫い付けた。
「ガウッ!?」
狼たちは驚愕の声を上げ、氷から逃れようと必死にもがく。だが、氷塊は軋む音1つ立てず、その動きを完全に封じていた。
肩の上で呆然と固まるエデンに、レイラは静かな、しかし凛と響く声で語りかける。
「これも、魔法の1つの顔よ」
そう告げると、彼女は再び杖を地面に叩きつけた。今度は青白い光の筋が三本、地面を裂くように走り、凍りついた狼たちの足元へと伸びる。次の瞬間、ギイィィン、と空気を引き裂くような音と共に、地面から巨大な氷の槍が三本、突き出した。それは狼たちの体を、頭を、容赦なく貫いた。あまりの威力に、一体の首から上は形を保てず、脳漿を撒き散らし、眼球が飛び出し、もはや顔の判別もつかない肉塊へと変わる。
圧倒的な、そして冷徹な光景にエデンが言葉を失っていると、レイラは空いている方の手のひらを前にかざした。
「ミスト・サーチ」
初めて会った日に見た、彼女のスキル。手のひらから生まれた水球が弾け、無数の霧となって周囲に拡散していく。霧が四体目の位置を捉えたのだろう。レイラが杖を天に振り上げると、切っ先が鋭く光る新たな氷の槍が、宙に数本生成された。そして、彼女が杖を振り下ろすのに合わせ、その氷槍は空を裂く音を立てて森の中へと消えていった。そして数瞬後、森の奥から短い断末魔が響いた。




