35話 観測開始:3年65日目-1 / 枯れた井戸水
こんがりと焼かれたパンの香ばしい匂いが満ちるリビング。その空間を、一羽の小鳥が木のスプーンを嘴に咥えて飛んでいる。どこか危なっかしい軌道でふらつきながらも、食卓の空いた場所へ見事に着地すると、まるで宝物を置くかのようにそっとスプーンを置く。小さな嘴で角度を几帳面に調整していると、頭上からディーンの低く、穏やかな声が降ってきた。
「エデン、こっち来い」
「はい、ただいま」
差し出されたディーンの大きな手のひらへ、エデンはふわりと飛び乗る。その小さな体を優しく見つめ、ディーンは満足げに目を細めた。
「お前、いつも手伝いしてるんだろ? 偉いな」
「いえ、私ができるのはこの程度ですので」
「謙遜するな、偉いぞぉ!」
ディーンはニカッと白い歯を見せると、大きな手でがさつに小鳥の頭を撫でる。加減を知らない力強さにエデンの小さな体がぐらつき、手の動きに合わせて左右に揺れる。だがその体は割れるようなことはなく、確かな柔らかさをディーンの手に伝えている。
その微笑ましい光景を椅子から見ていたアリシアが、こてんと首を傾げた。
「パパ、なんか、たのしそう?」
「久しぶりのお休みで、嬉しいのよ、きっと」
キッチンから出てきたエプロン姿のレイラが、夫の腕の中で大人しく撫でられているエデンに柔らかな眼差しを向けながら、アリシアの隣に腰を下ろした。
「ほら、ディーン。エデンちゃんを置いて。ご飯にしましょう」
「そうだな。おー、今日も美味そうだ!」
「いただきまーす!」
和やかな食事が始まる。テーブルの隅にちょこんと座ったエデンは、家族の笑顔が揃った光景に、満足そうにこくこくと頷いた。
今日はディーンが一日中家にいる、久しぶりの休日。アリシアの弾むような声が、素晴らしい一日の始まりを告げていた。
「パパー、アリシア、おにわであそびたい!」
「ん? 外は暑いんじゃないか?」
「えー、でも、アリシア、ぐるぐるーしてほしい!」
その言葉に、レイラの眉が微かに動いた。
ディーンがアリシアを抱き上げてその場でくるくると回る、ただそれだけの遊び。しかし、遠心力の浮遊感がアリシアは気に入ったらしい。その様子を見たレイラは血相を変えて止めていたので、彼女にとっては喜ばしい遊びではないみたいだが。
エデンはレイラの方をチラッと見ると、アリシアを見上げた。
「……アリシア、今日は魔法の練習はしないの?」
「ううん! する!」
「おお、パパもアリシアの魔法見てみたいな! どうだ? うまくなったか?」
「うん! あのね、アリシアね――」
アリシアが嬉しそうにスプーンを持った手を動かしていると、玄関の叩かれる音と男の声が外から響いた。
「あら、誰かしら?」
レイラが不思議そうに玄関へ視線を向けた、まさにその瞬間。エデンの目の前で、ディーンが笑顔を顔に貼り付けたまま、ぴたりと動きを止めた。
「……」
「ディーン様? どうかされましたか?」
エデンの心配そうな声に、ディーンは重いため息を1つ落とす。「……ちょっと見てくる」とだけ告げて席を立った背中からは、先程までの上機嫌な雰囲気は綺麗に消え失せている。
「パパ?」と不思議そうに呟くアリシアに、レイラは困ったように微笑みながら「さあ……とりあえず、食べましょうか」と食事を促した。
背中を追ってくる家族の声に後ろ髪を引かれながらも、ディーンはゆっくりと玄関のドアを開けた。
「あ、隊ちょ――」
バタンッ!
毎日見飽きるほど見ている部下の顔を認めた瞬間、ディーンは反射的に扉を閉めていた。
「ちょ、ちょっと! 隊長!?」
(ハンスの奴、何しに来やがった!)
待ち望んだ休日。仕事のことは忘れ、家族水入らずで過ごすと心に決めていたというのに。
扉の向こうから、なおもドアを叩く音とハンスの焦った声が聞こえてくる。居留守を決め込もうかと思案していると、リビングから「ディーン? どうしたの?」とレイラの声が届いた。「何でもない」と返しつつ、ディーンは観念して、もう一度大きくため息を吐きながら扉を開いた。
「……何の用だ」
「お、おはようございます! た、隊長、ちょっと大変な事になってまして……」
ハンスの困った顔は、明らかに何かトラブルがあったことを伝えてくる。
朝一番の望まない来訪者に、ディーンは不機嫌さを隠そうともせず、低い声で言い放った。
「見回り組は今日、休みだ」
「そ、それは分かってるんすけど……」
「いいか、よく聞け」
ディーンは腕を組み、肩ほどの高さにあるハンスの顔を射抜くように見下ろした。
「俺は今日、絶対に! 家から出んぞ!」
高らかな宣言に、ハンスの肩がびくりと揺れる。
いつもは頼りになるこの隊長は、家族のこととなると、まるで駄々をこねる子供のようになってしまう。しかし、こちらにも譲れない事情があった。
「い、いや、ご家族との時間を邪魔して申し訳ないっすが、ど、どうしても来てもらいたいんす!」
「……」
ディーンの射殺さんばかりの視線にも怯まず、ハンスは帰ろうとしない。その覚悟を見て、ディーンは諦めたように口を開いた。
「……何があった」
「そ、それが……なんでかよく分からなくて。れ、レイラさんにも来てもらいたいんす」
「あ? レイラも?」
不意に告げられた妻の名に、ディーンの眉間の皺が、一層深いものとなった。
*********
「うー、ごはん……」
レイラの手を頼りなげに握りながら、アリシアはぽこりと空虚を訴える自分のお腹を撫でた。その肩の上では、小鳥がアリシアを励ますように「ぴっ」と短く鳴き、小さな体を揺らしている。
「アリシアちゃん、帰ったら食べられるから、少し我慢ね」
「……うん」
アリシアとエデンだけを家に残すわけにもいかず、結局、一家総出で広場へ向かうことになった。ディーンは、後ろを歩く家族の気配に意識を向けつつ、先導するハンスの背中に声をかけた。
「で、どこに行くんだ?」
「あー、広場にある井戸っす。あ、ほら、あそこ」
ハンスが指差す先には、日の差す広場に不自然な人だかりができていた。「おーい」とハンスが片手を上げると、群衆はこちらの存在に気づき、さざ波のような囁き声が広がっていく。
「あ、あいつほんとに連れてきやがったぞ」
「ディーンさんの顔……だからやめとけって言ったのに」
「あら、レイラさんとアリシアちゃんも一緒じゃない」
「レイラさんの髪、相変わらず綺麗よねー。どんなお手入れしてるのかしら」
「ちょっと……そんな話は後にしなさいよ」
好き勝手な囁きが収まらないことに業を煮やしたのか、人垣の向こうから「騒々しいわ!」と、しわがれた張りのある声が飛んだ。
声に命じられるように人垣が割れ、中から現れた老婆――エバが、困り果てた顔で一行を迎えた。
「すまんのう、ディーン、レイラ。ちと厄介なことになってしもうて」
「婆さん。朝っぱらからみんな集まって、いったいどうした?」
「あら、エバさん。おはようございます」
「まあ、こっちにきとくれ」
エバは「アリシアまで巻き込んで、本当にすまん」と小さな頭を撫でながら、人だかりの中心にある井戸へと一行を導く。その背を追い、井戸の前に辿り着いたディーンが、縁石に手をついて中を覗き込んだ。次の瞬間、彼の目が驚きに見開かれる。
「おい……水がねえぞ」
「え?」
レイラも弾かれたように顔を寄せ、井戸の暗い底を覗き込む。そこには、乾いた土の上に、水を汲むための桶が無残に転がっているだけだった。二人を真似て、アリシアが小さな体で背伸びをし、危なっかしく中を覗こうとする。そのたびに、肩のエデンが「ぴっ、ぴっ!」と悲鳴のような声を上げ、彼女の髪を優しく食んで引き留めていた。
「昨日から、どうも水位が低いとは思っておったんじゃが……今朝、水を汲みに来た者が気づいて、この大騒ぎよ」
エバの言葉に、ディーンは思わず空を仰いだ。中天に昇りつつある太陽がじりじりと肌を焼き、今日も厳しい暑さになることを予感させる。
「……このままじゃ干上がっちまう」
ディーンの呟きに、深刻な現実味が帯びる。
「そうなんじゃ……。のう、レイラ。お前さんはどう思う?」
「そうですね……。おかしな魔力は感じられません。……確かこの井戸は、少し離れた川から水脈を引き込んでいましたよね?」
レイラが確認するように言うと、ハンスが「そ、そうなんです!」とすがるように頷いた。
「その川も確認したんすけど、まったく水が流れてなくて! ど、どうしやしょう」
「ハンス、落ち着かんかい!」
エバはハンスを一喝すると、再びディーンに視線を戻した。
「今、手の空いている者たちに、南の川まで様子を見に行かせておる。力仕事にはなるが、水が汲めぬ距離ではないからの」
「まあ、確かにな。だけど、このままだとまずいだろ」
「そうじゃな。どうしても人手が取られる。他の仕事もあるしのう」
重い沈黙が落ちる中、じっと井戸の底を見つめていたレイラが、静かに顔を上げた。
「川の上流を調べましょう。何かが川を堰き止めてしまっただけかもしれません」
「そうか……。なあ、ディーン。本当にすまんが――」
「あー、良い。ちょっと見てくる」
エバが申し訳なさそうに切り出すのを、ディーンは片手で制した。
「悪いの、お前さん休みを楽しみにしとったじゃろ」
「……いいんだ。また休みはあるだろ」
ディーンはぶっきらぼうにそう言うと、踵を返し、自宅の方角へ歩き出した。
「ただ、行くのは飯を食ってからだ。ほら、一度帰るぞー」
「あ、パパ、待ってー!」
「ぴっ!?」
不意に歩き出したディーンを、アリシアが慌てて追いかける。その肩で、エデンが振り落とされまいと必死にしがみついていた。
その背中を微笑んで見送りながら、レイラはエバにそっと声をかける。
「エバさん、後でうちに来ていただけませんか?」
「ん? 構わんが、どうしたんじゃい?」
「いえ、私も一緒に行こうと思いますので、アリシアをお願いしても良いですか?」
その言葉に、エバは驚いて目を丸くした。
「む……お前さんまで行くのかい?」
「はい。もしかしたら、私がいた方が良いかもしれないので」
そう言って笑うレイラに、エバは眉を下げた。
「……まあ、心配はいらんのだろうが……くれぐれも、気をつけなさい」
「はい」




