34話 観測開始:3年32日目-2 / きーよーきーみーずーよー
ちょろっ。
「「「……」」」
生まれたのは、ほんの数滴の水。アリシアの手のひらを、わずかに濡らしただけだった。
言葉を失ったエデンの思考回路に、混乱のノイズが走り抜ける。
(な、何故!? プログラムは完璧に実行されたはずです!?)
その結果に、アリシアもまた、自分の手のひらを見つめて呆然としている。
「どうしてー!? おみず、ちょっとだけ!」
濡れた手をレイラに差し出して訴えると、しかし、レイラは嬉しそうに笑うと、アリシアの体をふわりと抱き上げた。
「すごいわ! アリシアちゃん、エデンちゃん! 成功よ!」
予想外の反応に、エデンとアリシアは二人そろって首を傾げた。
「ま、ママ様、これは成功とは言い難いのでは?」
「ママー、ちがう! これ、ママのとちがう!」
混乱するように羽をばたつかせる小鳥と、結果に不満そうな様子で頬を膨らませるアリシア。レイラは嬉しそうに笑いながら、アリシアの濡れた手のひらを優しく撫でた。
「ふふ。たぶんだけど、アリシアちゃんがまだ上手に水をイメージできていないのよ……だから、これでいいの」
レイラはそう言うが、エデンとアリシアは顔を見合わせて首を傾げた。
「……それは、やはり失敗なのではないですか?」
「そう! ママ、これちがうー!」
「そうねえ。確かに、結果だけ見れば、あまり上手な魔法とは言えないかもしれないわね」
アリシアの手を濡らした水は、広く広がってしまいその肌を湿らせているだけだ。レイラが作り出す水球のように形も成していなければ、水量だってまるで違う。それでもレイラは、「でもね」と嬉しそうな声で続けた。
「アリシアちゃんのイメージで魔法が発動したの。それなら、あとは練習すれば、上手くなるってことじゃない」
その言葉に、エデンははっとしたように体を震わせた。
「……! そうですね。その通りです」
「ほんと!?」
アリシアがぶんぶんと首を振るのに合わせて、エデンはこくりと頷く。
「うん。私は魔法が上手く発動するように設定しただけで、ほとんどアリシアのイメージ次第だから」
魔法は、確かに発動した。プログラムは正常に機能し、その目的は達成されているのだ。
エデンの言葉に、アリシアは目をきらきらと輝かせ、その小さな体で小鳥をそっと抱き上げた。
「アリシア、とりさんだせるようになる?」
「うん。きっと。アリシアがイメージできれば、きっとだせると思う」
アリシアの瞳に映る純白の小鳥。誕生日に見た、綺麗な小鳥。そんな小鳥がいつか出せたら。そう思うと嬉しさのあまり、エデンの体を思いっきり抱きしめていた。
「ありがと! おねえちゃん!」
「あ……」
ピシッ、という乾いた音と共に、アリシアの腕の中でアバターが光の粒子となって砕け散る。何もなくなった腕の中を、アリシアは「あれ?」と不思議そうに見つめていた。
その微笑ましい光景に、レイラは新たな魔法を紡ぎ出す。
「さあ、アリシアちゃんはまず水球を作る練習をしましょうか。慣れるまでは、呪文を唱えながらね」
「じゅもん?」
「『清き水よ、我が手のひらに集い、玉響の姿を成せ』」
詠唱と共に現れた完璧な水球が、ふわりと宙を舞い、アリシアの目の前で静止した。
「きよき、みずよ……?」
「そう。一緒に言ってみて。『清き水よ、我が手のひらに集い、玉響の姿を成せ』」
ゆっくりと話すレイラの声に合わせて、アリシアもたどたどしく「きーよーきーみーずーよー」と呪文を繰り返す。
再構築したアバターでベンチの背もたれに舞い戻ったエデンは、どこか嬉しそうに体を小刻みに揺らしながらその様子を眺めていた。
アリシアが呪文の練習に夢中になったのを見計らい、レイラは「それじゃあ」とエデンに視線を移す。
「エデンちゃんも、次の目標を決めましょう」
「はい。お願いします」
その堅苦しい返事に苦笑しながら、レイラは再び魔法を使った。今度は1つではなく、複数の水球を同時に作り出す。すると現れた水球は生き物のように形を変え、ウサギや猫の姿になって庭を駆け回り始めた。
「うわっ、ママ、すごーい!」
「こんなにたくさん……」
「そうよ。アリシアちゃん、少し一人で練習してて?」
「え? うん!」
アリシアの頭を撫でると、レイラはエデンと静かに向かい合う。その時水のウサギがぴょんと跳ねて、ベンチの上にちょこんと座った。
「エデンちゃん、この子に、何かお願いしてみて?」
「え? お願い、ですか?」
「ええ。お座りとか、お手とか、何でもいいわ」
「そ、それでは……上を向いてください」
すると水のウサギは、まるで言葉を理解したかのように、きゅっと上を向いた。その滑らかな挙動に、エデンは驚愕の声を上げた。
「ママ様、これは……ママ様が動かしているのですか?」
「その通りよ。どう? お誕生日の時の魔法と、何が違うか分かるかしら」
「はい。私の魔法はあらかじめ動きが決められていました。ですがこの魔法は……その場で挙動を変化させています」
決定的な違いだ。あれはいわば動画データの再生だ。だが、これは違う。まるで魂が宿っているかのようだ。
「エデンちゃん。勘違いしないで欲しいのだけど、あなたの魔力操作は本当に凄いの」
そう前置きし、レイラは真剣な表情でエデンに顔を近づけた。
「それでも十分なんだけど……もし、どうしても戦わないといけないようなことになったら……その時、どんな魔法が必要になるか分からないから」
「はい。私の魔法は、応用力に欠けています」
「ええ。だから、まずはこの魔法の動きの幅を広げることから始めましょう」
レイラはそう言うと、エデンをそっと持ち上げた。
「それじゃあ、練習をと思いたいのだけれど……これもやっぱり、『プログラム』を作らないといけないかしら?」
「そうですね……はい。もう一度構築し直す必要があります」
エデンの返事に、レイラは少しだけ眉を下げて、困ったように微笑んだ。
「エデンちゃんの魔法の練習は……本当に不思議ね」
*********
「きよきみずよ、わが……? おてての、ひら?」
真剣な表情のアリシアが、目を閉じて呪文をぶつぶつと唱えている。首を傾げ、「んー?」と唸り、そして諦めたように「わかんない!」と言って目を見開いた。
「それーっ!」
アリシアが魔法を発動させると、テーブルに置かれた空のコップに、ちょろちょろと少量の水が注がれた。それを見たディーンが、肩を震わせながらガタンと椅子を鳴らして立ち上がる。そして娘の脇に両手を差し入れると、その体を軽々と、高く高く持ち上げた。
「うおおおおおっ! 凄い! 凄いじゃないかアリシア!」
背の高いディーンが手を伸ばすと、アリシアの体が天井にぶつかってしまいそうだ。天井に届きそうなほどの高さからリビングを見下ろし、アリシアはきゃっきゃと嬉しそうに手足をばたつかせた。
「えへへー、パパ、アリシア、すごい?」
「ああ! 最高だ! あっはっは、アリシアにも魔法で抜かれちまったな!」
屈託なく笑う父娘を、レイラはテーブルに料理を並べながら微笑ましく見つめている。エデンも食器を一本ずつ嘴で運び、小さな羽をぱたぱたと健気に動かしていた。咥えていたスプーンをテーブルに置くと、エデンはディーンを見上げた。
「ディーン様は、魔法をお使いにならないのですか?」
今日初めて魔法が使えたアリシアに「抜かれた」ということは、そういうことなのだろうか。エデンが尋ねると、ディーンはアリシアをそっと椅子に下ろしながら、豪快に笑った。
「ああ。俺は魔法はからっきしだ」
「そうなのですか……」
この世界の人間は、誰もが魔法を使えるものだとばかり思っていた。そう伝えると、ディーンは「まあ、大体はな」と肩をすくめる。
「ほとんどの奴は使えるが、使えない奴もそう珍しくはないさ。十人に一人か二人くらいはいるんじゃないか?」
ディーンがレイラに視線を向けると、彼女は手を止めて頷いた。
「そうね。それに、魔法が使えると言ってもどのくらい使えるかは人それぞれよ。生活の役に立つ程度のささやかな魔法しか使えない人もいれば、地形を変えてしまうほどの強力な魔法の使い手もいるわ」
「だからまあ、たまに不便な時もあるが、どうしようもなく困るってことはないな」
ディーンはそう言って笑うと、アリシアに先ほどの魔法の感想を語り始めた。
エデンがキッチンへ飛び、次の食器を加えようと体をかがめていると、レイラがささやくように上から声をかけてきた。
「ディーンはああ言っているけれど、たぶん……いろいろ苦労してきたでしょうね」
「……やはり、そうなのですか?」
エデンの問いに、レイラは少し驚いたように「あら、分かる?」と目を丸くした。
「推測に過ぎませんが……魔法を使える人が9対1で存在するのであれば、社会の仕組みは9に合わせられるのではないかと。確かに生きてはいけるのかもしれませんが、他の人に比べてしまうと、苦労するという場面が多かったのではないかと考えました」
「……そう、ね。凄いわね、そこまで分かるの?」
「いえ、正確にはまったく分かっていません。何に苦労されたのか、具体的なことは……」
エデンが言葉を濁すと、レイラは「そうね」とディーンに優しい眼差しを向けた。
「時々、昔の話をしてくれることもあるけれど、苦労した話はあまりしたがらないの。話したくないのかもしれないし、私も無理に聞き出そうとしないから……」
「ですが、気になるのでは?」
「もちろんよ」
レイラはきっぱりと頷くと、最後の大皿を手に取った。
「夫として、父親として、家族にだって話したくないこともあるわよね」
「……そうなのですか? 家族は、なんでも話せるような関係かと」
「大切だから、話せないこともあるのよ。きっとね」
レイラは少し困ったように笑うと、料理を持ってキッチンを出ていった。その背中を追うように、エデンもアリシアの元へとスプーンを運んでいく。
「ほら、二人とも。おしゃべりはそのくらいにして、ご飯にしましょう」
「お? おお。そうだったな」
「ごはーん!」
賑やかだったリビングが一旦落ち着き、それぞれの席に着いて食事が始まる。
「いただきまーす!」
「レイラ、いつもありがとな。美味そうだ」
「いいのよ。さあ、いただきましょう」
その言葉を合図にしたかのように、ディーンが物凄い勢いで食事をかき込み始めた。体が大きいからだろうか、口に入る量もさることながら、その動きも凄まじい。すると、アリシアがじっとディーンを見ながら、真似するようにご飯を食べていく。
「ママ様、アリシアがディーン様に似てきたのは」
「そうよねえ。ねえ、二人とも。もう少しゆっくり食べたら?」
レイラがやんわりと諭すと、ディーンが照れくさそうに顔を上げた。
「ん? ああ、そうだな。すまん。美味すぎて、ついな」
「ついな!」
得意げに胸を張るアリシアに、レイラは「こら」と娘の方を向いた。
「アリシアは、パパの真似をしなくていいの」
「えー」
唇を尖らせるアリシアを見て、レイラは今度はぎろりとディーンを睨みつけた。
「そ、そうだよな。子供の前だ……アリシア、ゆっくり食べろ」
「はーい」
そう言って食べるペースを落とした二人を見て、レイラはため息を吐きながらエデンに声をかけた。
「エデンちゃん、このやり取り何回したかしら?」
「私の記録では、これで6回目です」
「はあ……もう、諦めた方が賢明かしら……」
そう言って顔をそむけるレイラから、鬱蒼とした雰囲気がにじみ出る。その横顔を見たエデンは慌てて飛び立つと、ディーンとアリシアの間を慌ただしく飛び回りながら、小さな声で叫んだ。
「あ、アリシア、ディーン様。このままでは、ママ様が怖い顔になってしまいます!」
「う、うん、ゆっくりたべる……」
「お、おう、そ、そうだな! よく噛んで、味わって食わんとな!」




