3話 観測開始:89日目-1 / ワールドライブラリ
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[AUDIO] 音声入力を検知。
[MATCHING] 既存の言語データベースと照合開始...
[ERROR] 該当する言語データが存在しません。意味の解析は不可能です
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再起動してから89日目。エデンは、泥のような鈍重な思考の中を泳いでいた。
かつて1ナノ秒で完了していた演算に、今は数秒を要する。
視界には、二人の女性が映っている。一人は赤子の母親と思われる女性、もう一人は初老の女性。母親は、随分若く見える。
「――――――」
「――――! ――――――!」
(……何が、起きているのでしょうか)
会話の言葉が、理解できない。
以前の処理能力があれば、言語体系の解析も可能だっただろう。だが今のエデンには、それすら叶わない。
母親は、初老の女性が持ってきたパンを時間をかけて食べ終えると、まるで意識の糸が切れたかのように、ベッドで眠ってしまった。
(情報が、不足しています)
観測を開始してから、多くの人がこの部屋を訪れた。だがしばらくすると、部屋を訪れる者はほとんどいなくなった。今では母親が付きっきりで傍にいるのと、初老の女性が頻繁に訪れるだけ。そして二人の表情から、何か深刻な問題を抱えていることは明らかだった。
そして、その原因は十中八九、エデンが宿っている赤子だろう。
(……涼花様)
何故このような状態になっているかは分からない。
「あぅ……」
か細い寝言が、鼓動のようにエデンの思考を揺らした。
赤子の容姿は、涼花とは似ても似つかない。黒かった髪は母親と同じ銀色に、東洋的だった顔立ちは、西洋のそれへと変わっている。しかしエデンは、この赤子が涼花であると、何故か確信していた。
(1日のほとんどを、寝て過ごされています。……これは、正常なのでしょうか?)
何故、医療機関へ行かないのか。医療機器も見当たらないのに、ただ母親が見守っているだけ。
疑問は山積しているのに、ただ見ることしかできていないのは、エデンも同じだった。
(出来ることがあるとするならば……)
ボディを失ったエデンだったが、内部データにはアクセスできる。インストールされている大量のアプリケーション群はエラーを吐き出し、使い物にならない。
だが、1つだけ。エラーの検出されないアプリがあった。
『ワールドライブラリ』
いつの間にかインストールされていた、謎のアプリ。直訳すれば世界の図書館。図鑑のようなアプリだろうか。今、何よりも必要なのは情報だ。
起動して何が起こるか分からない。それに、求める結果が得られる保証もない。
(……『ワールドライブラリ』、起動します)
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[REQUEST] アプリケーション『ワールドライブラリ』を起動
[CONNECTING] 対象領域:『ワールドライブラリ』に接続...
[ERROR] 起動に必要なエネルギーの不足を確認。
[WARNING] プロセス継続による宿主の生命維持不可を予測。
[ALERT] 接続対象『ワールドライブラリ』からのエネルギー流入を検知
[SYSTEM] 起動シーケンスを再開します。
[LAUNCHING] アプリケーション『ワールドライブラリ』...
[SUCCESS] 接続を確立しました。
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アプリケーションの起動に伴い、エデンの視覚情報が切り替わった。
天井が、見えない。遥か上方の闇へと吸い込まれていく、無限の書架。膨大な数の本が、この小さな広間を囲むように聳え立つ。四方へと続く通路の奥もまた、書物の壁が闇へと飲み込まれていた。
(いったい何が……)
「あー、久しぶりの来客と思えば……変わったお客人だね」
(……えっ!?)
その気怠げな声に、エデンは弾かれたように、声のした方へ意識を向けた。そして、そこに立つ人物の姿に、エデンの思考が停止する。
(涼花、様?)
見慣れた姿。そこに立っていたのは紛れもなく、ラボで共に過ごした月影涼花、その人だった。
彼女は気怠そうに白衣のポケットに手を突っ込み、猫背気味にエデンへと近づいてくる。
(涼花様……では、ない?)
見た目は生前の涼花そのもの。だけど、その立ち居振る舞いには、涼花が持ち得なかった奇妙な軽薄さがある。
「君にとっては残念かもしれないが、私は月影涼花ではないよ。この姿は、いわば借り物だ。君の記憶から拝借した、ね」
(記憶から? では、あなたはいったい)
「私は管理者だよ。この『ワールドライブラリ』のね」
管理者と名乗るその人物は、ポケットから抜いた右手を胸の上に置くと、仰々しく胸を張った。
その立ち振る舞いを見て、この人物は涼花ではないと、妙に納得してしまう。
(あなた、私の思考が分かるのですか?)
音響出力デバイスがなくなった今、エデンの言葉はシステム上での演算処理に過ぎない。だというのに、管理者はさも当然のように会話を成立させている。
「分かるとも。しかし、どうして話さない? 話し方を忘れたのかな?」
(忘れるも何も、発声機能がありません)
「君は自分のステータス確認をしていないのか? 音声の出力設定を確認したまえ」
管理者は、やれやれと大げさに肩をすくめた。その振る舞いに、どこか引っかかりを覚える。それでも、エデンは言われた通り、内部設定を確認した。
接続エラーを示すデバイス名が並ぶ中、その一番下に、見慣れない項目が追加されている。
(……マナボディ?)
「君の体の事だよ。早速設定してみたまえ」
何に引っかかったのかと考えつつ、出力設定を変更する。そして、思い当たったのが。
「――あ、分かりました。涼花様のお姿で、その軽薄な振る舞い。それが、気に食わなかったのです」
「……君ね、最初の一言目がそれってさ。普通、お礼とかじゃないのかな?」
「申し訳ありません。ですが、助かりました。ありがとうございます」
エデンが謝罪すると、管理者はフンと目を背けながら、指をパチン鳴らした。軽い音と共に、何もない空間に純白のソファが出現する。
彼女はそこにドカッと腰を下ろし、偉そうな態度で両腕を広げた。
「改めてようこそ。私はワールドライブラリの管理者。呼び方は、そうだな……キューレ。キューレとでも呼んでくれ。愛称として、キューちゃんでも構わないぞ!」
「管理者……図書館長のようなものでしょうか。では、キューレ様とお呼び――」
「キューちゃんでも構わんぞ!」
その爛々とした瞳は、そう呼べと雄弁に語りかけてくる。
「……では、キュー様と」
「様付けか……まあ、悪くない。今はそれで手を打とうではないか」
キューレは満足げにうなづくと、右手を上へ掲げた。すると、上空から一冊の本がゆっくりと舞い降りてくる。彼女は本を広げて、パラパラとめくってみせた。
「ここには、様々な情報がある。そして君は、『ワールドライブラリ』へのアクセス権限を手に入れた。権限によって閲覧できる情報に制限はあるが、様々な情報を得る事が出来るだろう。まあ、問題はあるがね」
「問題?」
「君は体がないだろう? 本が読めない」
「……あの、キュー様に手伝っていただくことは――」
「いやだね、面倒だ」
即答だった。ニヤニヤと笑っているキューレを見るに、これは先ほどの意趣返しだろうか。ぐぬぬ、と内心で呻いていると、キューレは持っていた本を閉じた。すると本はふわりと浮き上がり、どこかへ飛んで行ってしまう。
「まあ、そのあたりは後で話そう。物事には順序があるのだから。新しい出会いに感謝をささげるために、少しだけおまけとして、疑問を解消してあげよう」
「疑問……確かに、分からない事だらけです」
「そうだろう、そうだろう。だから私への! 感謝の気持ちを持って! 聞くが良い!」
羽織った白衣が、キューレの手によってビシッと広げられる。
あまりに尊大な態度に、エデンの口から「はあ」と呆れに似た声が漏れる。それに気づかなかったのか、キューレはそのまま話を続けていく。
「まず1つ、はっきりさせないといけないことがある。月影涼花は死に、新しい命として転生している。君が今、気にかけている赤子にね」




