27話 観測開始:2年365日目 / 父親として
「よし、これで終わりだな」
血糊に濡れたナイフから、最後のひとしずくが地面に落ちるのを待って、ディーンは深く息を吐いた。立ち上がる際に軋む腰を、労わるようにトントンと叩く。
村のはずれに据えられた古ぼけた解体台。その上には、ガラス玉のように虚ろな瞳を夜空に向けた猪の頭が鎮座している。鉄錆と獣の匂いが立ち込める中、丁寧に剥がされた毛皮、そして見事な霜降りの肉塊が男たちの食欲を静かに煽っていた。ぬらりと鈍く光る内臓の脇には、肉を削ぎ取られた骨が小さな白い山を築いている。
解体が終わるのを、まるで飢えた狼のように輪を作って待っていた男たちが、どっと歓声を上げて台に群がる。その熱気を、ディーンと共に作業していた男が大声で制した。
「おい! 待て待て! まずディーン隊長が選んでからっすよ!」
「うるせえなハンス、分かってるよ!」
「ディーンさん、一番良いところ、どうです?」
男たちは互いに目配せし、目当ての肉を確保するために牽制し合いながらも、ディーンに最良の部位を譲ろうとした。
「ん? いいのか?」
ディーンが少しばかり驚いてみせると、ハンスは「何言ってんすか」と苦笑しながら、瑞々しい大きな葉を台の上に広げた。
「明日、アリシアちゃんの誕生日でしょ?」
その言葉が、まるで合言葉だったかのように、周りの男たちも「そうだそうだ」と頷きながら声を上げる。
「もう3歳かあ、早いもんだ」
「いやー、めでたい! あの小さかった子がなあ……」
「おれ、この前レイラさんと散歩してるの見たぜ。母親そっくりで、将来美人になるぞありゃ」
「はあ!? てめえ、また畑の世話さぼって見惚れてやがったな!?」
なぜか始まる喧嘩を半ば呆れながら、ディーンは「お前ら……」と呟きつつも、その口元は微かに緩んでいた。
「うちの妻と娘を、肴にしてるんじゃないだろうな?」
「いやいや、とんでもない! ただ、ほら、アリシアちゃんが産まれた後はいろいろ大変だったじゃないっすか」
ハンスが慌てたように両手を振る。その言葉に、周りの男たちも真剣な眼差しで頷いた。
「だから、あの子が元気に笑ってるのを見ると、村の皆で良かったなって、そう話すんすよ。隊長とレイラさんがこの村に来てくれて、本当に助かってますから」
「商人との取引も、あんた達のおかげで上向いてるしな」
「何より、こんなに美味い肉が食えるようになった!」
屈託なく笑う男たちに、ディーンは照れ臭そうに頭をかくと2つの肉塊を手に取った。柔らかい赤身と乳白色の脂肪が美しい層をなす部位と、レイラの好きな、ほとんど脂肪のない赤身肉。
「じゃあ、遠慮なくもらっていく」
「へいっ! ディーン隊長、これ使ってください!」
ハンスが差し出した葉で手早く肉を包み、傍らに置いていた古びた革鞄にそっとしまう。
「それじゃあ、後は好きにしてくれ」
そう言ってその場を離れようとすると、ハンスが大げさに頭を下げた。
「承知しました! よし、それじゃあ次は俺の番っすよ!」
「お前は最後だろ」
「そうだな、アリシアちゃんの誕生日祝いなんだから、泣かせた奴の親父は残り物だ」
「息子がアリシアちゃんを泣かせたの、もう数か月も前のことっすよね!?」
後方で続く騒がしいやり取りに薄く笑い、ディーンは夜の闇へと踵を返した。
日が落ち、月明りだけが頼りの村を、家へと急ぐ。土を踏みしめる足音だけが静かに響く中、ディーンの胸にはひとつの重石が沈んでいた。最近の家の中の、どこかぎこちない空気。互いの距離感を測りかねている、二人の娘。父親として、自分に何が出来るのか。答えの出ない問いを繰り返していると、しわがれた声がディーンを引き止めた。見れば家の前でエバが、まるで待ち構えていたかのように立っていた。
「婆さん、どうした? こんな時間に」
「どうしたじゃないわい。明日、アリシアの誕生日じゃろうが」
エバは「ちょいと待っとれ」とだけ言うと家の中に消え、すぐに甘い香りのする果物が詰め込まれたバスケットを手に戻って来た。
「ほれ、持っていきなね」
「お、いいのか」
「お前にじゃないわい。レイラとアリシアにじゃ」
「がっはっは」と豪快に笑いバスケットを押し付けてくるエバに、それを受け取りながら、ついディーンの口から胸の内の悩みが零れ落ちた。
「なあ、婆さん。良い父親って、どんなだと思う?」
「ん? なんじゃ、突然」
「いや……おれは父親なんて知らねえし、家にいないことも多い。娘のことは、ほとんどレイラに任せっきりだ。俺は父親として……上手くやれてるのか、時々分からなくなる」
いつも娘の傍らで、悩みながら子育てをしているレイラの姿。それに比べて、自分はどうだ。もっと父親として上手く立ち回れたなら、あの子達の間に、あんな遠慮がちな空気が流れることもなかったのではないか。
普段は見せないディーンの弱音に、エバは悪戯っぽく目を細めると、あっけらかんと言い放った。
「まあ、お前さんは上手くやれておらんじゃろ」
あまりに潔い言葉に、思わずバスケットを取り落としそうになる。それを見たエバは、にやっと口の端を吊り上げた。
「わしも聞きたいが、上手くやるとはなんじゃ? この村に、そんな父親おるのか?」
「い、いや……それは、知らんが……」
突然の問いに、ディーンは言葉に詰まる。見回り組の仲間たちの顔が浮かぶが、彼らが完璧な父親かと問われれば、どうなのだろうか。ハンスはどうだ? そんなディーンの葛藤を見透かすように、エバは静かな声で続けた。
「わしも知らん。何に悩んどるのか知らんが、上手くやる必要なんぞないじゃろ。ただ、ちゃんと家族と向き合えばいい」
その言葉が、すとん、とディーンの胸の中心に落ちた。確かに、その通りなのかもしれない。こくりと頷くと、「……そうか」と夜の空気に溶けるような小さな呟きが漏れた。
「がっはっは! お前さんも、そんな悩みを持つんじゃな。てっきり頭の中まで筋肉なのかと思っとったわ!」
「……今度、美味い肉でも持って来る」
「そうかい。なら、柔らかいのにしてくれ。もう固いのは食えんでな」
「それじゃあの」とだけ言い残し、エバが家の温かい光の中へ消えていく。その背中を見送り、ディーンは心なしか軽くなった足で、再び家に向かって歩きだした。
玄関の前で一度立ち止まり、両手で顔をごしごしと揉む。「よし!」と短く気合を入れ、一日分の疲れを笑顔に隠して扉を開いた。
「ただいま! 帰ったぞー!」
できる限りの明るい声を響かせながらリビングに顔を出すと、レイラがテーブルに瑞々しい果物を並べているところだった。魔法の灯りが、彼女の銀髪を柔らかく照らしている。
「あら、お帰りなさい」
「おう! ただい……ま?」
レイラの向こう、子供用の椅子の上で、小さな頭がこくり、こくりと揺れていた。
「なんだ、アリシアはもう眠いのか?」
もう少し早く帰る事が出来れば、遊ぶ時間も出来ただろうか。
「すまん、ちょっと遅くなっちまったな」
「いつもなら、とっくに夢の中よ。パパ待ってるんだーって、頑張ってたんだけど」
「そ、そうか……もっと早く、帰れてたらな……」
間に合っていたら、一緒にお風呂でも入れただろうか?
胸が詰まるような悔しさを感じながら、エバからのバスケットをテーブルに置く。ふと飾り棚に目をやると、白い小鳥がアリシアの揺れに合わせて、心配そうに視線を右へ左へとうろつかせていた。
「エデン、ただいま」
「はい、ディーン様。お帰りなさいませ……あ、あの、アリシアが……」
「ん。そうだな」
アリシアの脇の下にそっと手を差し入れ、ふわりと持ち上げる。すると、アリシアの瞼がうっすらと開かれた。
「……ん……パパ?」
「ああ、遅くなって悪かった。ただいま」
「お……おかえりぃ……」
もう意識は半分夢の中だ。「寝かせてくる」とレイラに目配せし、寝室へ向かおうとしたその時。腕の中のアリシアが、ぼんやりとした瞳で飾り棚を見つめた。
「エレおねえちゃ……おやすみ……」
「お、おやすみ……アリシア」
そのどこか遠慮がちな、たどたどしい返事にディーンは内心で苦笑しながら、アリシアと共に寝室へ消えた。
レイラはディーンの背中を見送ると、棚の上で微動だにしないエデンに、優しく声をかけた。
「エデンちゃん、こっちにいらっしゃい」
「……はい」
ふわりと音もなく棚から飛び立つと、吸い寄せられるようにレイラの肩に着地する。
「そんなに、離れている必要はないのよ?」
「ですが……アリシアは、私を呼びませんので……」
そう言って俯く小さな頭に、レイラの胸がちくりと痛んだ。あの日以来、二人は互いの出方を窺うように、見えない壁を作ってしまっている。そのもどかしさにレイラがため息をついた時、寝室の扉が静かに開き、ディーンが戻ってきた。
「アリシアのやつ、布団かけたら、すぐ寝ちまった」
そう言いながら革鞄から葉に包まれた肉を取り出すと、部屋に微かに血の匂いが広がった。
「猪が取れてな。解体してたら時間かかっちまった。一番いいところ貰って来たぞ」
「あら、ありがとう。それじゃあ、キッチンに置いておいてちょうだい」
「おう。保存する分、切り分けとくか」
ディーンがキッチンで肉を切り分け始め、レイラはエバからの差し入れの果物を確認し始める。夜のゆっくりとした時間が流れる中で、小さな白い鳥だけが、所在なさげにテーブルの上できょろきょろとしていた。
「……なあエデン。何を、そんなにためらってるんだ?」
前なら、言わなくてもアリシアと一緒に寝室に入っていたはずだ。
目の前の分厚い肉にナイフを入れながらエデンへと向けたディーンの声に、ピタリと動きを止めたエデンが、レイラとディーンの顔を交互に見比べる。
「私、ためらっていますか?」
「そうね。アリシアに声をかけるのを、ずっと躊躇しているように見えるわ」
「言ってみろ、何が気になってる?」
ディーンの問いに、エデンは小さな声で、ぽつりと言葉を零した。
「……もしまた、『べつのおねえちゃんがいい』と、言われてしまったらと……」
「だったらどうする? 別のお姉ちゃんでも、探してきてやるか?」
「い、いえ! それは、絶対に嫌です!」
ぶんぶんと首を振り、小さな羽をばたつかせるエデン。
その必死な姿に、ディーンは「こんなにはっきりと自分の意思を示す奴だったか」と目を細め、そして続けた。
「だったら、遠慮なんてするな。ぶつかって、喧嘩になったって。またぶつかればいいだんだ」
「もう、それはちょっと乱暴すぎない?」
「ん? まあ、そうか? でも失敗した時は、俺とレイラを頼れば良い」
「そうね……エデンちゃん」
「はい」
レイラはテーブルに果物を置くと、エデンのことをそっとすくい上げた。
「明日、頑張りましょうね」
「……はい!」




