26話 観測開始:2年349日目-4 / 純白の小鳥は今日も割れ
びくりと体を強張らせるエデンを見て、アリシアは眠たげに目をこすりながら体を起こした。
「エレおねえちゃん?」
「お、お、おはよう! アリシア!」
エデンは練習の成果を発揮しようと、慌ててばさっと羽を広げた。そのいつもと違う様子に、アリシアは不思議そうにこてんと首を傾げた。
「……?」
「あ、アリシア?」
想定外の反応に、エデンがおずおずと声を上げると、にゅっと伸びてきた小さな手がその体を捕まえた。
「もっかいいって?」
「え? ……お、おはようございます! あっ、おはよう! アリシア!」
「……ちがう?」
アリシアはそう呟くと、突然エデンをぶん、と振り始めた。
「えっ? あわわわっ!」
混乱するエデンに、アリシアは一度手を止めると、ベッドにぽすっと下ろして口を開いた。
「もういっかい、いって!」
「お、お、おはよう! アリシア!」
改めてバサリと翼を広げ、声を張り上げる。おかしい。何かが違う。想定していない事態にエデンが困惑していると、アリシアはじっとエデンを見つめ、やがて宣告するように言った。
「……おねえちゃん、へんになっちゃった」
「え?」
「とーう!」
思わぬ言葉に思考が停止したエデンに、アリシアの体が上から覆いかぶさってきた。ボスン、と布団に沈む体に押しつぶされ、エデンのアバターが光の粒子となって消失する。
何が起きたのか理解できず混乱していると、アリシアが自分の胸元をぽんぽんと叩いて呼びかけてくる。
「エレおねえちゃん! でてきて!」
「あ、アリシア?」
おずおずとアバターを再構成すると、アリシアは納得いかない様子で「どうして?」と首を傾げている。
「なにが――!?」
『なにが』、そう問いかける前に、再びアリシアがのしかかってきてアバターが潰される。
「おねえちゃん、もういっかい!」
「あ、アリシア、ど、ど、どうし――!?」
理由を尋ねようとするも、エデンの体は再度掴まれて、小さな手に振り回されてしまう。アリシアはエデンを何度か振ると、手の中でぐったりとしてしまった小鳥をじっと見つめ、目を大きく開いた。
「おねえちゃん、へんになっちゃった!」
雷が落ちたかのような叫び声をあげると、エデンを掴んだままリビングへと飛び出す。そして呆然とするレイラとディーンに向かって、力なく体を傾けているエデンを突き出した。
「ママー! パパー! エレおねえちゃんが、こわれちゃったー!」
その手に握られている小鳥の哀れな姿を見て、その場の空気が止まった。
レイラの手からタオルがパサリと床に落ち、そして二人が悲鳴に近い声を上げた。
「いやああっ!? アリシア、何をしてるの!?」
「うおっ!? おい、アリシア! 今すぐ離せ!」
両親の声など聞こえていないかのように、アリシアはぴょんぴょんとその場で跳ねながらエデンを振り上げる。
「だって、エレおねえちゃんがへんなの! こわれちゃったの!」
そう叫ぶと、エデンを両手で持って呼びかけた。
「エレおねえちゃん、おはよう!」
「え? あ、アリシア、お、おはよう?」
「んー!」
「あっ……」
その返答が気に入らなかったのか、アリシアは地団太を踏むと、エデンを両手でパンと叩き割った。
それを見たレイラが、頬を引きつらせながら悲鳴を上げた。
「アリシアッ!? なんてことを!」
「エレおねえちゃん、でてきて!」
「は、はいっ……」
震えながら出てきたエデンを、今度はレイラがアリシアより先にさっと手に乗せ、子供の手が届かないよう高く持ち上げた。
「アリシア、乱暴はやめなさい!」
「で、でも! おねえちゃん、こわれちゃったの!」
「アリシア? お前、さっきから何を言っているんだ?」
「こわれた? ……だとしても、叩いちゃダメよ!」
レイラがアリシアの言葉を理解できずに一瞬戸惑うが、すぐに叱るように人差し指をアリシアの前に突き出した。それを見て、アリシアは心底不思議そうに首を傾げる。
「なんで? だってエレおねえちゃん、こわれてもだいじょうぶだもん」
その無邪気な言葉に、レイラとディーンは息を呑んだ。
「でも、へんになっちゃったの。あいしゃ、ちがうおねえちゃんがいい」
そこには、恐らく一片の悪意もない。ただ、純粋な事実として告げられたその言葉。レイラは信じられないものを見るようにアリシアを見つめ、ディーンも険しい顔で言葉を失う。
そして――
「あ、あぁ……アリシ、ア様……」
「エデンちゃん!?」
「お、おい!」
何がいけなかったのか。態度を変えたから? エデンは混乱する思考にこの場にいるのが耐えられなくなり、レイラの手からふらりと飛び立つと開いていた窓から夜の闇へと逃げていった。
伸ばした手の先、レイラは消えていく姿を追いたい気持ちをぐっとこらえ、目の前で何が起きたのか分からず立ち尽くすアリシアに、震える声で視線を合わせた。
「……アリシア、どうしたの? エデンおねえちゃんのこと、嫌いになっちゃった?」
「……なんで?」
きょとんとした顔は、なぜそんなことを聞かれるのか、まったく理解できないといった様子だ。
「『ちがうおねえちゃん』って、どういうことなの?」
「え? だっておねえちゃん、こわれてもたくさんでてくるよ?」
その答えに、レイラは両手で顔を覆った。
「……アリシア。お姉ちゃんはね、世界にひとりだけなのよ」
「えー? でも、さっきのおねえちゃん、いつもとちがったもん」
「ううん、いつも同じ、たったひとりのエデンちゃんなの」
「うーん、よくわかんない」
どうすれば、この幼い子に伝わるのだろう。レイラは自分の不甲斐なさに顔を歪めながら、アリシアの小さな手を握った。
「いい? もう叩いちゃだめ。痛いのよ」
「どうして? たくさんいるのに……おねえちゃん、どこいっちゃったの?」
アリシアの瞳がレイラから逸れ、エデンが消えた窓の外へ向けられる。自分が何か良くないことをしてしまったのかもしれない、と幼心に感じ取ったのか、その目にみるみる涙が溜まっていく。
「お、おねえちゃん、どこいっちゃったの……? あいしゃ、おいてっちゃったの……?」
「そうじゃない、そうじゃないのよ……」
ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ始め、レイラがその頭をそっと撫でた時、ディーンがアリシアをふわりと抱き上げた。
「レイラ、アリシアのことは俺が見る。お前は、エデンを追ってやれ。たぶん……そっちの方が、今は良い」
「うん……お願いね」
「ああ」
ディーンがアリシアを撫でるのを視界から外し、レイラは裏口から庭に出ると辺りを見回した。するとエデンが庭のベンチの上で、小さな体をこれ以上なく縮こまらせてうなだれていた。
「エデンちゃん……?」
レイラの声に、白い体がビクリと震える。ゆっくりと上がる小鳥の顔は、いつもと変わらないのにひどく憔悴して見えた。
「ママ様……」
その声はか細く震え、夜の空気に溶けてしまう。
「あ、アリシア様は……私のこと、お嫌いになられたのでしょうか?」
まるで絶望に塗りつぶされた声に、レイラの胸が締め付けられる。
「そうじゃないの。まだ幼いから……分からない事がたくさんあるのよ」
レイラはエデンの隣に静かに腰を下ろすと、震える小鳥を両手でそっと包み込むように抱き上げた。
「……ごめんね、驚いたわよね」
「何故、ママ様が謝られるのです?」
「私も、間違えていたのかもしれないから。少し、焦りすぎてしまったわ」
まだ早すぎたのかもしれない。そう後悔を口にすると、腕の中のエデンが弱々しく首を振った。
「……私、ママ様に言われて考えました」
「何を?」
「アリシア様と、どんな関係になりたいか」
エデンの言葉に、レイラの喉がごくりと鳴った。声もなく見つめる先で、小鳥は月を見上げるように片方の羽を夜空へと伸ばした。
「私……アリシア様に、初めて自分から触れました」
「……そう。どうだった?」
「この身体に触覚はありません。ただ触れたという事が分かるだけだったのに……」
いつの間にか雲間から現れた満月が、その純白の体を優しく照らし出す。輝くようなその体を伸ばしながら、エデンは静かに、しかし確かな熱を込めて呟いた。
「とても……とても、嬉しかったのです」
小さく震えるその声には、紛れもない歓喜の色が滲んでいた。それにつられるようにレイラの口元がふわりと緩むと、エデンはゆっくりと彼女を見上げてきた。
「アリシア様に嫌われてしまったかもしれないのに……また触れたいと願ってしまうのは、いけない事でしょうか?」
その小さな体を愛おしむように、レイラは自分の頬を寄せた。
「ううん。それは……とっても、とっても素敵なことよ」
初めて聞いた、エデン自身の、エデンのためだけの願い。それは、生まれたての雛が初めて空を見上げるような、純粋で、切実で、あまりにも美しい願いだった。
レイラが視線を上げると、澄んだ満月がその瞳に映り込む。
「ねえ……エデンちゃん。あと2週間くらいでね、アリシアちゃんの誕生日なの」
「? はい、存じております」
「そこでね、私と一緒に――」




