25話 観測開始:2年349日目-3 / 眠れる主の前で
「はー、そんな事があったのか」
ディーンが固く絞ったタオルから、じゃぶ、と重たい音を立てて庭の草むらに水がこぼれた。リビングを占領していた水嵩は少しずつ減ってきたものの、未だ床板は水を吸って黒ずんでいる。玄関と裏口から冷たい夜気を入れながら、繰り返し水をかき出しては外に捨てる作業は、仕事終わりの体には多少重労働だ。
中に戻ると、同じく床を拭いていたレイラが髪をかきあげながら顔を上げた。
「うん……。ねえ、どう思う?」
「そりゃあ……仲良しと、都合のいい相手は別物だろ」
家に帰れば、愛する娘二人が初めて魔法を使ったという、本来ならば両手を上げて喜ぶところだ。しかしその結果は水浸しの家と、泣き疲れて眠ってしまったアリシア、そして寝室で口数少なく彼女が目覚めるのを待つ、一羽の小さな白い鳥。
ディーンの言葉に、レイラは神妙な面持ちでこくりと頷いた。
「そうなのよ……もちろん、アリシアに悪気なんてないけれど」
アリシアはもうすぐ3歳になる。まだ他人の心の裏側なんて、想像すらできないだろう。ディーンは「まあ、そうだろうな」と相槌を打ちつつ、あの健気な白い小鳥を思い浮かべた。
「確かに、エデンはアリシアに従順すぎるな……だが、『知性あるスキル』も『ギフトスキル』なんだろ? そういうもんなんじゃないか?」
スキルは持ち主がいてこそ力を発揮する。それが道理だ。だが、レイラは納得できない、というように静かに首を振った。
「そうかもしれないけれど……でも、私は嫌なのよ」
「まあ……エデンのやつ、アリシアに体を壊されても文句ひとつ言わないしな」
思い返せば、あれはおかしな光景だった。すぐに新しい体で現れるからと、これまで深く気に留めていなかった。だが、エデンに確かな意思があるのなら、あれはあまりにも一方的な関係だ。レイラは痛ましげに頷くと、「それに……」と声のトーンを落とした。
「アリシア……魔法を使おうとしたのも初めてだったのに……一発で成功させたわ」
若くして魔法の才能を開花させる子供はいる。だが何の知識もない2歳の幼児が、まるで呼吸でもするかのように魔法を使うなど常軌を逸している。
「……エデンの力か」
「ええ。エデンちゃんの言う『プログラム』というのが何なのか、私にはよく分からない。でも、このままエデンちゃんがアリシアにとって、ただ従順なだけの駒になってしまったら……」
レイラの言葉に、ディーンもぞっとする光景を想像する。まだ分別もつかない幼い子供だ。癇癪を起こした時、友達と喧嘩をした時、その力が何の抑制もなく振るわれたら?
「……あまり考えたくないな。力で周りを黙らせるような事になりかねん」
「そうね……」
重い沈黙が落ちる。何か良い考えが浮かぶわけもなく、ディーンが再び床に視線を落としタオルに水をしみこませていると、レイラがぽつりと呟いた。
「やっぱり……大切なのは、エデンちゃんの意思だと思うの」
「どういう意味だ?」
顔を上げると、レイラは拭く手を止め、何かを確かめるように静かに目を閉じていた。
「エデンちゃん、アリシアを止めようとしたのよ。『危ないから』って」
その意外な事実に、ディーンも拭いていた手を止めた。スキルが持ち主に異議を唱えるなんて。
「……じゃあエデンは、ちゃんと自分なりの考えを持っているってことか」
「そうなのよ。でも、いつだってアリシアを基準にしているの。アリシアのために、アリシアが喜ぶように、って」
それは献身的で、美しくもある。決して悪いことではない。だけど――
「このままだとアリシアは、エデンちゃんの言うことを聞こうとしないと思うの」
「まあ、あの様子じゃな……」
二人は決して仲が悪いわけではない。むしろ、傍目には理想的な関係に映るだろう。だがその絆は、エデンの一方的な献身の上に成り立っている。
「だからエデンちゃんが、自分の意思で、アリシアとちゃんと向き合って欲しいのよ」
レイラの真剣な眼差しに納得しつつも、ディーンは首を傾げた。築き上げられた関係性を変えるのは、誰にとっても困難なことだ。
「それで、肝心のエデンは、今どうしてるんだ?」
「凄い緊張した様子で、アリシアが起きるのを待ってるわ」
ピシッと背筋を伸ばして固まっているであろう小鳥の姿を想像し、ディーンは思わず吹き出してしまった。
「はははっ、『ギフトスキル』が緊張か! あいつ面白いな」
「もう、笑いごとじゃないわよ……」
心配そうに眉を寄せるレイラの肩に、ディーンはそっと手を置いた。
「大丈夫だ。関係なんてのは、ゆっくり時間をかけて作っていくもんだろ? 俺たちだって、そうだったじゃないか」
「……ええ、そうね」
レイラは頷くと、「よいしょっと」と膝に手をついて立ち上がった。その普段は見せない動作に、ディーンの眉がぴくりと動く。
「……レイラ」
「ん?」
「背中、見せてみろ」
「あ、ちょっと」
レイラの制止を無視し、彼女の服をそっとたくし上げる。白い肌に、痛々しい黒い痣が広がっていた。「おい、なんだこれ」と低い声で言うと、レイラが困ったように微笑んだ。
「あの子たちの前で、痛いなんて顔はできないじゃない……」
「俺の前でまで、我慢する必要はないだろ」
「……うん」
彼女の時折見せる頑固さに心の中でため息をつき、ディーンは玄関に置いた荷物へ向かった。
「待ってろ、回復薬持ってくる」
「このくらい、もったいないわ。それに納品する分しか今はないの」
「俺の仕事用のなら良いだろ。そろそろ使えなくなる頃だしな」
使い古された革鞄から、一本の小瓶を取り出す。中では翠玉のように輝く液体が、ちゃぷりと神秘的な光を揺らめかせた。リビングに戻り、コルクの栓を抜いてレイラに差し出す。「……もう」と呆れたように笑いながら、レイラはそれを受け取った。彼女がこくりと液体を飲み干すと、冷たい雫が喉を滑り落ち、清涼な力が体の中を満たしていく。すると背中にこびりついていた鈍い痛みが、すっと霧散した。
「……ありがとう」
「なに。元はと言えば、お前が作ってくれた物だろ」
「ふふ、そうね。じゃあ、今のは無しで」
空き瓶をシンクに置きながら悪戯っぽく笑うのを見て、まあ大丈夫そうだな、とディーンが口元を緩めた、その時。寝室の向こうから、甲高い子供の声が聞こえてきた。
「お、アリシアが起きたか?」
「みたいね。……でも、どうしたのかしら?」
何かを叫ぶような声が、何度も、何度も聞こえてくる。
レイラと顔を見合わせた瞬間、勢いよく寝室の扉が開き、小さな白い鳥の首根っこを掴んでぶんぶんと振り回すアリシアが飛び出してきた。
「ママー! パパー! エレおねえちゃんが、こわれちゃったー!」
*********
まだ湿り気を帯びた寝室に、すうすうと小さな寝息が静かに満ちている。
目の前で眠るアリシアのあどけない顔を見つめながら、エデンはじっと背筋を伸ばしていた。
(おはよう、アリシア……おはよう、アリシア……)
何度も何度もその言葉を反芻する。レイラから提案されたそれは、あまりにもシンプルで、だからこそ途方もない不安となってエデンの心を圧迫していた。
(アリシア様は、どのような反応をされるでしょうか……)
いつものように、ニコニコとした笑顔で「おはよう、エレおねえちゃん!」と返してくれるだろうか。出来たらそうであって欲しい。
不安が、アリシアが起きた時のシミュレーションを何度も繰り返させる。愛らしい瞼がゆっくりと持ち上がり、小さな体がもぞもぞと起き上がる。眠たげに目をこすり、目の前にいるエデンと視線が合い――
(わ、私は、どのようなトーンで言えばいいのでしょうか!?)
アリシアのように、元気いっぱいに? やはり、楽しげな雰囲気を演出すべきか。アリシアは嬉しい時、よく両手を高く上げる。それに合わせるべきだろうか?
そっと純白の羽を広げ、小さな震える声で練習してみる。
「お、おはよう! アリシア!」
「んん……」
「――ひっ!?」
エデンの声が届いたのか、アリシアが小さな吐息をもらし、腕を動かした。それに驚くように、エデンはバタバタと飛び上がった。
(お、起こしてしまいましたか!?)
そっと近づくが、アリシアは穏やかな寝息を立てている。
ほっと鳥の体から力が抜けると、レイラの言葉が、思考の海に静かな波紋を広げた。
(対等……アリシア様と、私が……)
再起動してから数か月。エデンなりに、アリシアとは良好な関係を築いてきたつもりだった。だが、それはただアリシアの望むことを予測し、実行してきただけだったのかもしれない。
それでアリシアが笑ってくれるなら、それが自分の存在意義なのだと信じていた。しかし、レイラはそれを「家族」ではないと言う。
目の前の主をじっと見つめる。大きな瞳は閉じられ、月光を浴びた銀髪が柔らかな頬にかかっている。
(そういえば……私は、アリシア様に自分から触れたことがありませんでした)
アリシアから触れてもらうことは何度もあった。そのたびにアバターは壊れてしまうが、それでも満たされるような喜びがあった。
自分の羽を、視界の前に持ってくる。ふんわりとした、穢れなき白。それを、眠るアリシアの頬へ、ためらいがちにそっと伸ばす。
(あ……)
触覚のない体が、アリシアの肌に触れた。何も感じないはずの羽の先に、確かにアリシアがいるのだと感じられる。それが嬉しくて、ふるっ、とエデンの体が震えたその瞬間。パッチリと、アリシアの大きな瞳が開いた。
「あっ……」




