16話 観測開始:2年242日目-1 / 初めてのお出かけ
カチャカチャと食器のぶつかる軽やかな音。レイラがシンクにかざした手の先で、青白く輝く水が、意思を持った生き物のように躍っていた。それは重力に逆らって皿の表面を駆け上がり、泡と汚れだけを的確に絡め取ると、青い蛇のようにとぐろを巻いて次の食器へと向かっていく。
その不思議な光景を、エデンはキッチンの縁にちょこんととまった、白い小鳥のアバターの姿で見つめていた。
「何度見ても、原理が理解できません」
「そう? ただ魔力で動かしてるだけよ?」
「それが不思議です……」
どうしたら水がこのような自律的な動きをするのか。観測するほどに、その未知のロジックはエデンの思考回路を混乱させる。皿洗いを魔法の水に任せたまま、レイラはシンクに片手を置き、エデンに向かって悪戯っぽく人差し指を立てた。
「そうねえ……エデンちゃんとの生活にも慣れてきたことだし。今度、魔法について教えてあげようかしら」
「本当ですか!?」
エデンが再起動して三週間。一羽の小さな白い鳥が加わった家族の生活は、いつも優しい時間に満ちていた。
エデンの期待で満ちた声に、レイラが微笑んだその時。テーブルの方から、元気いっぱいの声が響いた。
「ごちそうちゃまでした!」
見れば、口元をミルク粥でべったりと汚したアリシアが、食べ終えた果物の皮を、満足げにお皿へぽいっと投げ入れたところだった。
「アリシア様、お口が汚れてしまっています」
これはいけないと湧き出た使命感がエデンを突き動かす。綺麗な布巾を嘴に挟むと、小さな翼を懸命に羽ばたかせる。いざゆかんと、一直線にキッチンから飛び立った。
「お、重い……!」
布巾一枚の質量が、非力なアバターの全身にのしかかる。ふらふらと、木の葉が舞うように頼りなく飛んでいき、なんとかアリシアの前のテーブルに着地した。「アリシア様、お口を」と布巾を不器用に羽にのせると、キッチンからレイラの楽しげな声が響く。
「アリシアちゃーん。自分でふきふき、できるかな?」
「ん? はーい!」
アリシアはエデンから布巾を受け取ると、目をぎゅっとつぶり、「んー!」と気合を入れながら、小さな顔全体をゴシゴシと力任せにこすり始めた。その勢いで口元の汚れは頬に広がり、やがて綺麗な服の袖に新たな地図を描き出す。
その惨状を見てエデンが「ああ、アリシア様! お袖が!」と狼狽の声を上げるが、いつの間にか背後に立っていたレイラが、優しくその頭を撫でた。
「あらあら。アリシアちゃん、とっても綺麗に拭けたわね」
そう言いながらアリシアから布巾を受け取ると、今度はレイラが汚れた箇所を丁寧に、優しく拭き取っていく。
口元が綺麗になって上機嫌なアリシアを眺めながら、エデンはこれは二度手間ではと疑問を口にした。
「ママ様。最初からママ様が拭かれた方が、早かったのでは?」
「ん? そうね、確かにそうかも。でも、それじゃあね」
レイラはアリシアの頭をもう一度撫でると、エデンに諭すように、その青い瞳を細めた。
「いつまでたっても、自分でできるようにはならないから。アリシアちゃん、よく出来ましたねー」
「できましたねー。ぱちぱち!」
嬉しそうに両手を叩くアリシアを見て、エデンはその言葉に納得した。
「なるほど。アリシア様の成長のためですか……私も、気をつけねばなりません」
今は出来なくても、繰り返し行う事で少しずつ出来るようになるかもしれない。白い小鳥が、こくりと賢そうにうなずくと、その仕草を見てレイラが微笑んだ。
「ふふ、エデンちゃん、アリシアちゃんのお姉ちゃんみたいね」
「え? それはどういう意味でしょうか?」
「さあ、何かしらね~」
レイラは楽しそうに鼻歌を歌いながら、キッチンへと戻ってしまった。
それから食事の片付けも終わり、三人はリビングで食後の穏やかな時間を過ごしていた。
「今日はどうされるのですか?」
昼過ぎになると、レイラは時折「お仕事」と言って、奥の作業部屋に篭ってしまう。調薬に使うという薬品類は、アリシアやエデンには危険な物もあるらしく、入れてもらえたことは無い。「今日も、お仕事ですか?」とエデンが続けると、レイラは首を横に振った。
「ううん。今日はね、行商人が村に来る日なの」
「行商人、ですか」
「そう。前回来てから、三週間も空いちゃったから。塩や香辛料を、そろそろ補充しておかないとね」
そうなると、エデンとアリシアは家で留守番だろうか。これまで常にレイラが家にいたので、長時間家に二人きりという状況を、まだ経験したことがない。大丈夫だろうかとエデンが不安に思うと、レイラはそれに気づいたのかテーブルから身を乗り出し、エデンのアバターを優しい目でのぞき込んできた。
「アリシアちゃんを置いていくわけにもいかないし……エデンちゃんも、その姿で一緒に行く?」
「私も、ですか?」
レイラの提案に、エデンは驚いたように羽を動かした。
「ですが、いいのでしょうか? 私のことは、秘密だったはずです」
一緒に行動すれば、アリシアはきっと無邪気に「エレ!」と話しかけてしまう。村の人々に、どう説明するのか。そう思っていると、レイラは「それなんだけどね」と、いたずらっぽく笑った。
「エデンちゃん、今日のあなたは、白い小鳥のエレよ。それなら、アリシアちゃんがエレとお話していても、誰も不思議に思わないでしょう?」
「……なるほど。エレが実在するのであれば、私が『ギフトスキル』だとばれずにすみますね」
はたから見れば、小さな子供が楽しそうに小鳥に話しかけているだけだ。エバがそうであったように、子供の微笑ましい行動として見てもらえるだろう。
「でしょ? それじゃあ、午後になったらお出かけしましょう。アリシアちゃん、お着換えしますよー」
レイラがそう言って寝室の方へ向かうが、呼ばれた当の本人は、少しだけ不満そうな顔をした。
「えー。おきがえ?」
「そうよ。よそいきの、可愛いのにしましょうね」
「エレー……」
アリシアは小さな声でエデンを呼ぶと、がっかりしたような表情で机の上のエデンを見た。その顔には、お出かけよりもこのままエデンと家で遊びたかった、という気持ちが張り付いている。エデンとしてもアリシアと遊ぶ時間はかけがえのない物だが、寝室の前ではレイラが立ってアリシアを待っていた。
「あ、アリシア様。お着換えをした後に、遊ぶ時間はありますよ」
「うー……」
(仲が良すぎるのも、考えものね)
そんなことを思いながら、レイラは「アリシアちゃん? おきがえー」と声をかけると、アリシアはしぶしぶと言った様子で椅子をおり、タタタッと短い足で母親の後を追いかけていった。
*********
太陽が頂点をわずかに過ぎた頃。右手にアリシアと繋がれた小さな手の温もりを感じながら、レイラは村の広場へと向かっていた。左手で引く小さな引き車には、レイラの作成した魔法薬がカチャカチャとガラス同士が当たる音を鳴らしながら綺麗に並んでいる。
厚着をした彼女の肩の上、その銀髪にちょこんと乗った白い小鳥は、そのレンズのような瞳で静かに辺りを見渡している。
殺風景。それがエデンが導き出した、率直な第一印象だった。
まばらに立つ民家、踏み固められただけの土の道、その隙間から生命力を主張する雑草。整備という概念から見放されたようなその光景は、「辺境」という言葉を雄弁に物語っている。
そんなエデンをよそに、アリシアは目についた雑草を「えい!」と両足で踏みつけ、ケラケラと鈴を転がすような笑い声を上げた。
朝は外出を嫌そうにしていたのに、何がアリシアを元気にしたのか。理由が分からずエデンが思案していると、レイラが「どう、エデンちゃん? 始めての村は」と、楽しそうに首を傾げた。
「……大変、申し上げにくいのですが」
エデンがそう言うと、レイラはクスッと吹き出し、エデンが躊躇した言葉をあっさりと口にしてしまう。
「うん。何もないわねえ」
「はい……。ママ様は、この村のご出身なのですか?」
この、何もない、しかし穏やかな村の風景と、洗練された空気を纏うレイラの姿が、エデンの中ではどうしても結びつかない。
道を歩きながら、レイラはどこか遠くを見るような目で、楽しそうに言った。
「ううん。私はずっと遠い、この国の王都で生まれたの」
「王都……。では、何故この村に?」
王都であれば、この村より遥かに利便性は高いはず。合理的な選択とは、真逆の場所に彼女はいる。
「そうねえ。ここには何もなかったから……かしらね」
「……はぁ」
どこか楽し気な、それでいて晴れやかなレイラの横顔に、エデンはレイラのいう言葉が理解できなかった。
そうして歩いていると、道の凸凹に引っかかったのか、引き車が跳ねた拍子にガチャンという音がその中から響いた。だがその音を特に気にせず歩き続けるレイラに、エデンは首を傾げて質問をした。
「買い物に行かれるのに、何故薬を持っていくのです?」
「ん? これはね、代金の代わりに引き取ってもらうの」
その言葉に、エデンの首は更に傾いた。キューレから受け取った情報では、この世界には貨幣制度があったはずだ。「お金で支払わないのですか?」とレイラに伝えると、レイラは「あら、よく知ってるわね」と驚いた表情をした。
「お金で買う事も出来るけれど、ここまで辺境だと物々交換が基本ね。ほら、お金があっても使う場所がないもの」
確かに、目に入る建物は民家ばかりで、お店と思われる物は見当たらない。エデンが納得していると、レイラは「それに」と続ける。
「この薬は、エバさんや村の方たちが集めてくれた薬草を使っているの。これをお渡しして、その分だけ皆で必要な物を交換するのね。だから、うちだけお金で払うということは出来ないわ」
「それでは……ママ様のお薬は、とても大切な物ということですね」
何故か誇らしげに胸を張った小鳥を見て、レイラは苦笑しながら歩みを進める。
「外から来た私達を、村の皆さんは生活の一部として受け入れてくれたの。それまではエバさんが薬にしていたけど、一部は薬草のまま渡していたみたいね。それだとあまり日持ちしないし、受け取る側としても困ったでしょうから、こうして仕事を任せてもらえるのは幸せなことね」
「そうなのですか? ママ様のおかげで村が助かっているように思いますが」
「私達はお互い助けてもらっているのよ。エバさんにもいろいろと助けてもらったし。だからお世話になっている人たちには、感謝しないとね」
「感謝ですか……」
そうして歩いていると、前方から人々のざわめきが聞こえてきた。村の広場らしき場所に、大きな荷台が2つ並んでいる。その前では、日に焼けた商人らしき男が、村人たちを相手に声を張り上げていた。
「それじゃあエデンちゃん、ここからは『エレちゃん』として、可愛い鳴き声でお願いね。もし触られそうになったら、飛んで逃げちゃって」
「ぴっ」
レイラに言われ、エデンは小鳥の音声データを再生する。
人だかりに近づいていくと、荷台の前に敷かれた大きな布の上に、生活の匂いが溢れていた。無造作に積まれた岩塩の塊、油がなみなみと注がれた壺、そして、くすんだ色合いながらも頑丈そうな布地。使い古された鉄鍋やナイフが、鈍い光を放っている。
子供たちの目を引くのは、瓶詰めにされた色とりどりの飴玉。女性たちは、異国の香りがする小さな香辛料の袋に手を伸ばし、男衆は、古びた武具やエール酒の樽を値踏みするように眺めている。そこには、この村の質素な生活を支える、ささやかながら確かな豊かさがあった。
「ママー! あれきれい!」
アリシアは、その光景に目を輝かせ、レイラの手をぐいぐいと引っ張りながら飴玉の瓶をじっと見つめている。その様子にレイラは苦笑しながら、忙しそうに動き回る商人に声をかけた。
「すいません、こちらの薬品を引き取って欲しいのですが」
「ああ、レイラさん! エバさんから話は聞いてますよ。いやあ、毎度助かってます!」
男はそう言うと、引き車にかけられた布を外し、並べられた薬品を数え始める。
それが終わるのをアリシアと商品を見ながら待っていると、人垣の中からエバが気づいてやってきた。
「おや、レイラ。来たのかい」
「エバさん、こんにちは」
「エバーバ!」
エバはレイラに笑いかけると、アリシアを見て、芝居がかったように目を見開いた。
「おんやまあ、アリシア! あんた、ここまで自分の足で歩いてきたのかい!?」
「うん!」
アリシアの元気な返事にエバの顔がほころぶ。そして、レイラの肩で澄ましている白い鳥に気づいた。
「おや? なんとも可愛らしい鳥さんだね」
「ええ。最近、家の窓辺に住み着きまして。アリシアがすっかり懐いてしまって」
「エレ!」
アリシアが大きな声でそう言うと、エバは「おお、そうかい」と深く頷いた。
「そうかそうか、おまえさんが、アリシアちゃんが話していた『エレ』だったか! あっはっは!」
「アリシアがそう名付けたんです。ただ、まだ人に慣れていないのか、触られるのは少し嫌がるみたいで」
「そうかい。こりゃ綺麗な鳥だ。見るだけで楽しませてもらうとしようかねえ」
エバはそう言うと、目を細めてエデンを見つめた。どうやらレイラの言葉を信じてもらえたようで、特に疑ったりはしていないように見える。すると、アリシアが嬉しそうにエバの服を引っ張った。
「エレね、おはなしできるの!」
「おお、そうかい、そうかい」
エバが優しく相槌を打っていると、そのアリシアの大きな声が聞こえたのだろう。すぐ傍で飴玉の瓶を眺めていた、少し年上の少年が、仲間たちとこちらを振り向いた。
「何言ってんだよ。鳥と話せるわけねーじゃん。ばっかじゃねーの?」




