カノンと子守り③
グレゴールの街から外れた郊外には牧草地帯が広がっており、牛や豚といった家畜が放牧されていた。
そこには主に貴族が所有する乗用馬を飼育している区画があり、その一角をアーミテージ家が所有していた。
「ようこそいらっしゃいました」
クラリアに案内されて赴くと、一人の老人が出迎えた。髪は白髪で、長い髭と温和な表情が特徴的なその男性はヨージと名乗ると、長い間住み込みで厩務員として働いていることを教えてくれた。クラリアも彼のことを「じい」と呼んでおり、だいぶ懐いているように見受けられる。
「お馬さんは二頭いて、男の子はジョージ、女の子はエリザベスって言うのよ?」
得意げに語るクラリアの話を聞きながら待っていると、ヨージが一頭の馬を引き連れてやってきた。高さは私の肩と同じくらいで、馬としてはやや小さめだが、騎乗用の馬としては一般的な大きさだろう。
「……それで、あれはどちらですか?」
「んーっとね……あれはエリザベスね!」
「残念。ジョージでございます。クラリアお嬢様」
ヨージが説明すると、クラリアは肩を竦めながら舌を出した。かわいい仕草で誤魔化そうとしても無駄だ。
「では、始めましょう」
「うん……」
ヨージの言葉を受けて、クラリアは一つ深呼吸をした。ここに来る前に乗馬用の準備として、スカートの下にズボンと厚手のブーツを穿き、頭にはヘルメットを被っている。彼女の目にはかなり大きく映る馬を目の前にして、さすがに緊張しているようだった。
「それじゃ、見ててね」
「はい。頑張って下さい」
一つ言葉を交わした後で、クラリアは私の手を取りながら馬具に足をかけ、馬の上に乗った。
「それでは、参りますぞ」
ヨージはその合図と共に、馬の頭にかかった頭絡を引いてゆっくり歩き始めた。それに合わせて馬も一歩ずつ歩みを進める。乗馬するようになって日が浅いらしく、普段は元気なクラリアもその顔にはありありと緊張の色が浮かんでいた。
その後はゆっくりとしたペースを崩さずに辺りを周回していた。最初は緊張していたクラリアも次第に慣れてきたのか、三周目に突入する頃にはこちらに向かって手を振る余裕も出ていた。
「あー怖かった。でも楽しかった!」
四周を終えたところでヨージが馬を引く手を止めると、クラリアは馬から降りた開口一番でそう言った。
「よく躾けられている良い馬ですね」
馬の鼻先を撫でている背中に話しかけると、ヨージは「そうでしょう」とにっこりと笑った。彼にしてみれば、丹精込めて育てた馬なので我が子を誉められたのと同じなのだろう。
「カノン様もお乗りになりますかな?」
私が馬を見ていると、ヨージが言った。
「騎乗のご経験は?」
「まあ、ダンスに比べたら多少は」
「それなら問題ございませんな」
私の言葉を受けて、ヨージは長い髭をふぉっふぉっふぉっと笑う。実際、普段馬に乗る機会はないが、騎乗の訓練は一通り受けている。それこそ、ダンスよりは余程簡単なミッションだった。問題があるとすれば、今の私がスカートで来てしまっていることぐらいだが。
それでもせっかく勧めてもらった手前、ここで断るのは少々気が引ける。それに、クラリアから寄せられる期待の眼差しを裏切るのもなかなか難しい。
仕方ないと自分に言い聞かせながら、私は馬具に足をかけ、一気に馬に跨った。
ヨージとクラリアが馬から離れたのを確認してから、軽く馬の腹を蹴る。すると馬は機械のように正確に、ゆっくりと歩き始めた。私は久し振りの馬上の感覚を確かめながら、さらに何度か腹を蹴り、馬を走らせた。思ったより強い振動が脇腹に伝わって少し顔をしかめたが、風を切りながら進む感覚は非常に心地良かった。
一周し、再びヨージとクラリアのところに戻ったところで、手綱を強く引いた。馬は軽く鳴き声を上げながら停止した。
「カノン、すごーい!」
戻った私をヨージは拍手で、クラリアは歓声で迎えてくれた。
「あたしも乗りたい!」
「わかりました。では交代しますね」
「違うの! カノンと一緒に乗りたいの!」
「ちょっと、さすがにそれは……」
私は少し躊躇した。馬は見た目以上に危ない生き物であり、私自身も訓練を受けただけの中級者の域を出ない。何か起きた時に、クラリアの身を守れない可能性がある。
「じい、良いよね?」
「まあ、仕方ありませぬな」
ヨージが諦めたように言ったことで、私の選択肢が消え失せた。
私は諦めるように溜め息をついた後、クラリアの手を取って馬上に引き上げた。それから彼女を私の前に座らせ、彼女を抱くようにして手綱を握った。
「カノン様お気を付けて。お嬢様を頼みましたぞ」
頼むぐらいなら最初からやらせないで欲しい、と内心呟きながら、私は馬の腹を蹴った。それを合図に、馬は再び歩き始めた。
「もっと速く!」
「危ないので駄目です」
「けちー」
クラリアは文句を言いつつも、それ以上は何も言ってこなかった。やはり、私が一緒でも怖いものは怖いらしい。
ひとまず、軽く一周して終わりにしよう。
そう考えながら馬を歩かせつつ、半周まで来た、ちょうどその時だった。
それまで穏やかだった馬が、急に鼻息を荒くし始めた。
違和感があり咄嗟に手綱を引くが、馬は止まらない。そればかりか、歩く脚が段々速くなる。
「カノン、どうしたの?」
「馬が、止まらない?」
「うそ! 大変!」
私が呟くと、クラリアは悲鳴に近い声を上げた。
「ほら! 止まって! お願い!」
クラリアは叫びながら、馬の腹を両足で蹴った。
「お嬢様、あんまり暴れるのは――」
危ない。そう言おうとした刹那、馬は急に加速した。
「きゃーー!!」
あまりの速度に、クラリアは悲鳴を上げた。私はクラリアの身体と手綱を押さえながら、思考を巡らせる。
一度暴れ始めた馬を止めるのは不可能だ。このままではクラリアが危ない。
すぐにそう判断した私は、行動を開始した。
「クラリア様! 私に捕まって!」
私が叫ぶと、クラリアは戸惑いながらも私の身体に手を回した。
クラリアが固く捕まったのを確認して、私は馬上から飛び降りた。続いて来る衝撃に備え、歯を食いしばった。
クラリアを抱きかかえながら、肩から着地する。
「――っ!」
接地と共に肩に強い痛みが走り、その後も脇腹、背中と痛みが襲った。
何度か地面の上を回転しながら、ようやく止まった。
「……ご無事、ですか?」
痛みを堪えながら、腕の中のクラリアに声を掛ける。
「カノン……大丈夫?」
クラリアは震えながら、私の名前を呼んだ。
「はい、大丈夫で——」
私は答えながら、身体を起こそうとした。
「——ぐっ!」
その時、脇腹に激痛が走った。思わず、患部を抑えてうずくまる。
「カノン!? 大丈夫!?」
金切り声にも似たクラリアの悲鳴を聞いて、内心舌打ちをした。
余計な心配をかけさせる予定ではなかったのだが。
「お嬢様! カノン様! ご無事ですか!?」
遠くからヨージが駆け寄って来るのが見えた。
「じい! 人を呼んで! カノンが!」
クラリアが指示すると、ヨージは慌てて駆け出していった。事を大きくしたくないので呼び止めようとしたが、息が詰まってうまく声が出ない。
「カノンしっかり! 今、人が来るから!」
私の状態が深刻だと思って励まそうとするクラリアの目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
――心配いらない。少し休めば大丈夫だから。
私は痛みに悶えながら、たったそれだけの言葉を伝える難しさを感じていた。




