嵐の前の静けさ
ふと、意識の海から現実に引き戻される。手に持ったままの本のページが、若干汗で滲んでいた。
私は読みかけの本を両手で閉じると、それを机の上に置いた。
周囲は殺風景な室内であった。家具はベッドが二つにテーブルが一つ。装飾はテーブルの上に白い百合の花が刺された花瓶が申し訳程度に飾られているだけだった。最低限の寝室といった具合だが、旅先の安い宿屋であればこれでも贅沢は方だろう。
一つ溜め息をついたところで、廊下の床板がギシギシと鳴るのが聞こえた。
少し身構えた次のタイミングで、ドアがコンコンと控えめに叩かれた。
「どうぞ」
私が促すと、ゆっくり開かれたドアから一人の男が姿を現した。長身で細身。やや丸まった背中からは気の弱さが窺えた。
彼の名前はクラウス。
私たちが現在厄介になっている、パーティーの副リーダー。
少し前まで、リーダーだった人物だ。
「急に申し訳ない、カノン様」
「私に敬称は不要ですよ、クラウス殿」
どこかぎこちなく言うクラウスに対して、ふふっと笑いかける。
「私たちは同じ仲間なのですから。背中を預け合う仲間同士で上下は無い、そうでしょう?」
「まあそうなんだが、君の主だけ『様』付けというのもバランスが悪くてね」
苦笑しながら、私の向かいの椅子を引いて向かい合う。
「ではカノン嬢。我らがリーダー殿はいずこに?」
質問をしながら、既にその答えがわかっているような顔。
「リズ様は今外しております」
私もそれがわかった上で、儀礼的に返す。
「付近を散歩なさるとの仰せでしたので、しばらくすればお戻りになるでしょう」
「ふむ、そうか。それは残念」
言いながら、クラウスはどこか期待通りという表情を浮かべる。
最初から、本命は私だったのだろう。
「それなら、あなたの意見を伺おう、カノン嬢」
両手を机の上で組みながら、まっすぐこちらを見据えていった。どうぞ、と促す。
「リズペット様とあなたが我がパーティーに加わってちょうどひと月、我々は大きな成果を上げてきた。それまで手が出せなかった魔物も討伐したし、これまで目にしたことのないような報酬も手にした。だが、物事は表裏一体で、良いことの裏には必ずと言って良いほどその歪みも生まれてくるものだ」
「と、仰いますと?」
「あなた方、特にリズペット様の功績は偉大だ。いつも我々を導き、常に最前線で味方を鼓舞しておられる。だが、その在り方に少しばかり危うさを感じてしまうのだ。故に――」
「クラウス殿」
相手の話を遮って、口を開く。
「私の前で、我が主に対するお気遣いは不要ですよ。私は、我が主に不都合なことは致しませんので」
「不都合なこと、というのは?」
「そのままの意味ですよ」
私の言葉をふむ、と飲み込み、少し考えた後で再び口を開いた。
「わかりました。あなたのことを信用しましょう」
そう言って、クラウスはようやく肩の力を抜いた。
当然である。主への愚痴など、彼女の耳に入れる必要などない。
「端的に、申しましょう」
大きく深呼吸をした後で、クラウスはそう切り出した。
「ここのところ、リーダーの振る舞いに対するメンバーの不満が高まってきている。こちらの意見に耳を貸さない、独断専行で依頼を持ってくる、急にそれまでの方針を急転換する。そのやり方で結果を出しているのは事実だ。しかし、これでは常人の我々は付いていけない」
パーティーというのは、いわば冒険者の集まりである。冒険者とは特定の貴族や国家に所属しない、お金で動く傭兵と基本は同じだ。冒険者はギルドという民間組織に所属する者が大半であり、そこで依頼の仲介や情報提供といった恩恵を受ける。また、ギルドは実力の認定制度も担っており、それは冒険者のランクという形で現れる。駆け出しや見習いの冒険者が身の丈に合わない危険な依頼を請け負うことを防ぐために設けられた制度であるが、ランクが高い冒険者ほど周りに対して影響力を持つことになる。
クラウスも姿勢は低いが、チームを束ねる統率力と、それを裏打ちする確かな実力の持ち主だった。冒険者のランクはEから始まり、D、Cという順に上がっていく。その中でクラウスはBランク、上位十パーセントに位置する人間だった。彼は主に統率力の方で得た名声であったが、人当たりの良い性格も含めて非常に稀有な人物であることには違いなかった。
一方で、冒険者ランクの最上位はAランクであるが、その中でも特に実力の秀でた人間を認定する特別枠、通称Sランクが存在する。そのSランクに認定されるのは、実力者揃いのAランクの中でもごく一部、おそらく全世界に十人といないだろう。
私たちは「教団」からの紹介で、クラウスのパーティーに招待された身である。招待といってもお客さんではなく、対等な仲間としての加入だ。ただ先にも述べた通り、パーティー内の組織関係はランクの高低に大きく影響を受ける。
我が主、リズペット・ガーランドのランクはSランク。
先に述べた、十人未満の一人であった。
「ぼく個人は、リーダーがリズペット様であることに異存は無い」
クラウスはまっすぐな目で、そう言い切った。
「だが、メンバー全員が全員、そう考えるわけではない」
彼の言うことはもっともである。人は理屈だけで動くものではない。人は弱く、そして等しく愚かである。
私が観測している限りでも、自分勝手なリズのやり方に不満を覚える者がいることは否定できない。
少しの間は目先の利益で気を静めることもできるだろうが、いつまでも持つものではない。
「ぼくは予言者ではないが、これだけは言っておく」
やや緊張した面持ちで、クラウスは最後に付け加えた。
「このままでは早晩、このパーティーは瓦解する」




