大主教ヴァネッサ
大聖堂の前は、中心に近寄れないほどの人だかりとなっていた。
人だかりの円の中心には二人の男女が立ち、お互いが睨み合っていた。
「てめぇ! もう一回言ってみろ!」
静かな大聖堂の周りに男の怒声が響き渡る。服装はケープ付きコートとその下にダブレットが覗く典型的な巡礼者風のものだったが、顔はだけは熱湯を浴びた鯛のように真っ赤に変色していた。
「何度でも申しましょう」
一方の女は聖職者の服装だった。黒く丈の長いローブの上に白を基調としつつ金の刺繡が施された上衣を被っている。腰までかかる長い髪の頂点には冠状の帽子が乗っていた。女性は仕草こそ落ち着きを払っているが、相手を強く糾弾するような口調だった。
「あなたの行動は目に余ります。穢れに満ちた魂は今すぐにでも浄化を求めています」
「てめぇ! ブン殴られてぇのか!」
男はより強い言葉で威圧するように叫ぶが、女は全く動じない。彼女の背後に立つ別の男――似た衣服を身に着けているのでおそらく同じ聖職者――が止めに入ろうとするも、女は軽く手を上げてその動きを制した。
「礼拝中の私語。我が修道士への性的な言動。挙句、わたしの前で行った神を冒涜する発言の数々。どれを一つ取っても到底許されるものではありません」
「許さないなら、どうだってんだよ!」
「知れたことです。大主教の権限でもって、あなたを破門にします」
「なっ……!」
女の発言に、男はさすがに言葉を失った。破門は単なる追放宣言ではない。宗教は人々の生活に深く根差した、言わば水のようなものである。人々の水である宗教から破門されることとは、すなわち地域社会からの放逐を意味する。
「ふざけんなよ! 何の権限があってそんな横暴を!」
「わたしは我が父よりこの聖地を預けられた身です。聖地にそぐわない者をこの世界から追放する権限を預かっています」
「くそっ! 目的は金か!? どうせ助かりたけりゃ金を払えって言うんだろ!?」
「とことん俗物ですね。お前は」
女は眉を深く寄せ、まるで汚いものを見るかのような目で言った。
「我が父がおわします世界に俗世の金など不要です。よって、お前なんぞの汚い金も不要です。お前は、ただ地獄に落ちるのみです」
そう言い放つと、女は背後に立つ聖職者の男たちに向かって言った。
「この男を連れて行きなさい。神に対する反逆者に与えるものは――」
「――随分と威勢の良いことじゃのう」
ふと、女の言葉を遮る別の声が掛かった。
声の先に目を遣ると、いつの間にか輪の中にガロ婆が杖を突いて立っていた。
(ガロ婆……! 何を……!)
私は内心焦りながら、人混みの壁に身体を入れ込んだ。ガロ婆にどのような意図があるにせよ、彼女を一人にするのは危険だ。
「……どちら様でしょうか?」
何度か謝りながら、輪の最前列まで出たところで、大主教の女が口を開いた。
「あたしのことは誰でもいいじゃろうて。大主教猊下。いや、ヴァネッサ・レーン殿?」
「……その名を知っているということは、あなたは」
「ほっほっほ。察しがええのう。さすが元だけありよるわい」
「――っ!」
ガロ婆に対して大主教――ヴァネッサは不機嫌そうに眉を寄せた。
「……それで、わたしに何か用ですか?」
気を取り直すように一度咳払いをした後、ヴァネッサは言った。
「わたしは今から、この男に裁きの鉄槌を下さなければならないのです」
「奇遇じゃのう。ちょうどあたしもこの男のことでお前さんに用があるんじゃよ」
「まさか、この男の助命をしろというのではないでしょうね?」
「そのまさかじゃよ」
その瞬間、再びヴァネッサの眉間に皺ができた。だが、ガロ婆は怯むことなく続ける。
「見たところ、その男も反省しておるようじゃし、そのぐらいで勘弁してやってはどうじゃ?」
「おいババア! 何勝手に話を進めぐべぇ!」
悪態を付こうとした男の口を、ガロ婆の杖が黙らせた。
「わたしの目には、反省の色など見えませんが?」
「仮にそうだとしても、お前さんに信徒を破門にかける権限はないじゃろうて」
「…………」
「破門は神の信徒を処罰する、言わば神の御技じゃ。それが許されているのは、神の代行人たる総主教だけ。他ならぬお前さんが一番わかっておるのではないか?」
ガロ婆の言葉を、ヴァネッサは黙って聞いていた。その表情は苦々しそうでもあり、どこか冷めたような顔でもあった。
「お前さんがこの男を処罰するのは神の意思などではない。ただの私刑じゃ。それを、恐れ多くも大主教猊下が行うというのかえ?」
「……まったく。口の減らないご老人ですね」
しばし話を聞いていたヴァネッサは、ここに来てようやく口を開いた。
「いいでしょう。そこまで言うのであれば、その男のことはあなたに任せましょう」
「寛大な御心に感謝するぞい」
「代わりに、その男がこの街で問題を起こしたら、あなたがその責を負うと知りなさい」
「元よりそのつもりじゃて。おーい、カノン!」
急に名前を呼ばれ、少し驚きながらもガロ婆に歩み寄る。
「! お前は……!」
私の顔を見るなり、ヴァネッサはまるで仇を見つけたような、鋭い視線を向けてきた。
それこそ、先程まで目の前に向けていた視線が児戯であったかのように。
「何じゃ、お前さんたちは知り合いじゃったのか?」
「いえ、初対面、だと思いますが……」
戸惑いながら答える私を尻目に、ヴァネッサは一切敵意を隠していなかった。
「あの、大主教猊下?」
「……カンナ。よくもこの私の前に姿を現せたな」
「えっ?」
意外な名前を出されて思わず声が出てしまったが、すぐに気持ちを整えてヴァネッサに向かい合う。
「……人違いでしょう。私の名前はカノンと申します。以後、お見知りおきを」
「なるほど。今はそういう名前なのか」
ヴァネッサはどこか納得したように言った後で、一層鋭い目で私を睨んだ。
一方の私は、その視線を向けられる覚えがなく、少々困惑していた。
「――それで、大主教猊下」
困っていたところ、ガロ婆が口を挟んだ。
「この男の身柄はあたしらが引き受けた。これ以上、あたしらに何か用はありますかな?」
「……ありませんよ。今は、ね」
そう言うと、ヴァネッサは踵を返した。
「穢れた魂よ。そこの老人に感謝なさい」
最後にそう言い残すと、ヴァネッサは連れの聖職者たちを引き連れて、大聖堂の奥に歩いていった。
その後ろ姿が見えなくなったのを皮切りに、周囲にできていた人の輪は徐々に離れていった。
「……事情はわからぬが、災難だったのう」
ヴァネッサの背中を追って大聖堂の正門の先を眺めていた私に、ガロ婆から声を掛けられた。
「まあ気にするでないわい。人は知らぬ間に誰かの恨みを買っているものじゃからな」
「そう、だと良いのですが……」
「おいてめぇら!」
少し考えに耽りそうになったところで、男が叫んだ。
「この俺を助けて、どうするつもりだ!?」
「何じゃ。せっかく助けてやったんじゃから、少しぐらい感謝してもええじゃろうに」
「……何が目的だ?」
「目的なんぞないわい。ただ、せっかくの巡礼が血で染まるのは御免なだけじゃわいて。それでカノンよ」
「何でしょう?」
「――この男を拘束せい」
「承知しました」
「なっ――!」
男が反応するより早く、私は男の右手を取り、背中に回した。痛みのあまり男が叫ぶのを横目に、私は男を押し倒した後、荷物袋からロープを取り出し、まずは両手を縛りつけた。
「何しやがる!」
「ほっほっほ。黙っておればケガはせんよ。黙っておればな」
男は両手と両足を使って激しく抵抗するが、既に背後を取った私からすれば子供の遊びと同じだった。
すぐさま両足も縛り上げ、やがて男の身体が地面に転がる。
「ご苦労じゃった。ついでで悪いんじゃが、こやつを担いで運んではくれんかの?」
「おい! いい加減説明しやが――」
「――黙っておれこの三下が」
その瞬間、抜刀したガロ婆の刃が、地面を転がる男の目の前に刺さっていた。
男は思わず「ひいっ!」という声を上げて押し黙る。
「さっきも言った通り、あの大主教にはお前さんを破門にする権限はない。もちろん、あたしにもじゃ」
私は無言で、男の身体を肩の上に担ぎ上げる。私の背中から下に垂れた男の顔に向かって、ガロ婆は続ける。
「じゃから、お前さんをこの街から追放する。あの大主教の権限が及ぶのは街の中だけじゃし、お前さんがこの街でさえ問題を起こさなければあたしらも責を問われることもない。まさに三方良しじゃ。運が良ければ、通りかかった誰かが助けてくれるじゃろうて」
そこまで言い切って、ガロ婆は来た道を歩いて戻り始めた。私もそれに続いて歩き出す。肩に背負った男は、もはや何も喋らなかった。
「あたしはな、あの大主教ほど気が長くないんじゃ。老い先も短いからのう。ひっひっひ」




