第1話 諦めたスローライフ【1】
「はあ……没落最高……」
庭で育てたハーブの紅茶を飲み、丁寧に手入れした小さな庭園を眺めながら、リーフェット・エレスティンはそんな至福の溜め息を漏らした。
小さな木造の一軒家。その狭い庭でハーブを育て、それを採取し自ら紅茶を淹れる貴族の娘なんて自分くらいのものだろう、とリーフェットは思っている。
なにせ、エレスティン子爵家は没落している。爵位は従兄のもとへ渡り、エレスティン家は解散となった。解散というところが父らしい。弟は母とともに母の実家へ行き、兄も婚約者のもとへ婿入りしたが、リーフェットは辺境のオルディンでの田舎暮らしを選んだ。没落とともに婚約も取り消しとなったし、ひとり気ままな暮らしをしたかった。父はどこかで元気にやっているはずだ。どこに居るかは知らないが、そのうち手紙でも届くだろう。
リーフェットにとって、没落は実に有意義なものだった。もともと、貴族というものにリーフェットは向いていなかったのである。
ただ、ひとつだけ問題がある。
乱暴に開け放たれた大窓が、その訪れを告げた。
「リフ! 力を貸してくれ!」
耳を貫くつもりかと思うほど溌剌とした声に、リーフェットは憂鬱の溜め息を落とした。
「ごきげんよう、ディラン」
リーフェットの月を纏うような銀髪とは対照的な太陽のような金髪。青空を切り取ったような澄んだ瞳は、リーフェットの幼馴染みであるディランの性格をよく表している。
「あなたは相変わらずうるさいわね」
「お前は相変わらず年寄りみたいな生活をしてるな」
「ああ、ほんとにうるさい」
ディランのパーティが、またダンジョン攻略に失敗したらしい。
それはいつものこと。こうしてリーフェットの家に勝手に入って来るのも、いつものこと。いっそのこと鍵をかけてしまえばいいのだろうが、ディランは庭側に回ってバルコニーの柵をよじ登って来るだろう。いくらディランと言えど、そんな姿は見るに堪えない。
父が選んだ地がディランのパーティの拠点だったことは、リーフェットにとって唯一のデメリットだった。やはり自分で選べばよかったと何度、後悔したことか。
「今回は何階層まで行けたの?」
「三階層だな」
「情けないわね。いつも言っているけれど、私は協力しないわ」
ディランはダンジョン攻略に失敗すると、いつもリーフェットを頼って来る。その頼みを聞き入れる理由はリーフェットにはない。
「せっかく隠居生活を手に入れたのよ。依頼は生活費を稼ぐためにしか受けないわ」
「もったいないなー。せっかくの能力を生活費のためだけになんて」
「私の勝手でしょ。とにかく、帰ってちょうだい」
「頼むよ。幼馴染みのよしみでさ。ちょっと助言してくれるだけでいいんだ」
ディランは明るく笑う。彼は温和でありながら強引で、最終的にリーフェットが折れることを知っているのだ。平民であるディランと友人であることを兄は良く思っていなかったが、父母はディランを気に入っていた。母はある縁があり、父は表裏のない人間が好きなのだ。
リーフェットは何度目かの溜め息を落とした。
「ステータスボードを見せなさい」
ディランは左手首に嵌めていた腕輪を外して。リーフェットに差し出す。青、赤、黄色、緑の四つの魔石はそれぞれパーティメンバーを記しており、魔力を注ぐと四人分のステータスが表示されるのだ。魔石の数はパーティのメンバーによって増減する。
リーフェットは藤色の瞳を細めて魔力を注ぐ。表示されたステータスボードを見て、思わずがっくりと項垂れた。
「あなたのパーティはいつになったらランクCから抜け出すの?」
溜め息とともに呆れて言う。ディランは困ったように笑った。
「頑張ってはいるんだけどな……」
「頑張るだけなら誰にでもできるわ。頑張るだけじゃ足りないって言ってるの」
「うーん……」
「個人ランクはディランがC、ライカがD、ダンがD、ヴェラがE……話にならないわね」
冒険者ギルドのランクはEからSまである。つまり、ディランのパーティは底辺であると言わざるを得ない。
「前に見たときからひとつも変わっていないようだけれど?」
「そうだな。誰もランクアップしてない」
「潔くてもはや感心してしまうわ。怠惰が過ぎるんじゃない?」
冒険者ギルドでのランクアップはそう難しいことではない。依頼を受け達成すれば、それだけ実績が増えていく。着実にこなしていけば誰でもランクアップすることは可能だ。誰もひとつもランクアップしていないのは、むしろ芸術的と言える。
「というか……ランクどうこうより、なんなの、その貧相な装備は」
ディランが身に着けているのは、おそらく銅製の鎧。初級冒険者が使用するような品だ。手甲や具足も質素な物で、依頼報酬で生計を立てようとしている者の装備ではない。安物をパーティ結成時からそのまま使っているような気配を感じる。つまり五ヶ月間、同じ装備のまま、ということだ。
「いやあ、そこにかけるお金がなくて……」
「いまの所持金は?」
「銀貨五十枚だな」
「元子爵家よりしょっぱいじゃない。あなたたちはいったい、何をしていたの?」
呆れて溜め息が止まらない。ひたいに手を当てるリーフェットに、ディランは曖昧に笑っている。いつもそうだ。
ディランはとにかく考えが足りない。これでパーティを運営しているのだから驚きだ。他のパーティは何も言わないのだろうか。
「あなたたちは宿にお金をかけすぎなのよ」
一度だけどの宿を拠点としているか聞いたことがあるが、このランクで何をどう間違えたらあの宿を選ぶことになるだろう、と呆れたものだ。この村には安宿がある。設備はそれなりだが、駆け出しの冒険者がよく利用している宿だ。
リーフェットは家が没落しても父から貰い受けた個人資産でこうして生活できているが、平民の彼らが負債を溜めれば路頭に迷うことになる。読みの甘さがあまりにあまりである。
「まずはそこを見直すべきだわ。話はそれからよ」
ディランは困ったように笑う。返す言葉がなくなると何も言わなくなるのは彼の悪い癖だ。
「まずは低級の依頼を受けてお金を稼いで、装備を整えること。依頼と並行して魔獣討伐で実力を身に付けること。いいわね?」
「ああ、わかった」
「というか……あなたたち、勇者パーティ候補だったわよね。勇者パーティ候補がランクCだなんて、話にならないわ」
ディランはまた曖昧に笑っていた。
彼らのパーティが結成された五ヶ月前、王宮が勇者パーティ候補を募った。魔王が復活すると予言があったためだ。予測されるのは三年後。現在から二年半後だ。それまでに各パーティでは実力を養うことが求められている。
ディランはまだ時間に余裕があるなどと考えているのかもしれないが、半年で候補が減らされることは頭に入っていない可能性がある。彼らのパーティが勇者パーティ候補でいられるのは、このままではあと一ヶ月となる。それがわかっているなら、こんな貧相な装備ではいないはずだが。
ディランは居辛そうなのを誤魔化すように金髪の頭を掻く。それから、窺うように言った。
「まあ、とにかく冒険者ギルドに行くしかないか」
「それ以外に選択肢はなくてよ」
「よし、じゃあ行くぞ」
それが自分に向けられていると気付いたリーフェットは、貴族の令嬢にあるまじき歪み具合で顔をしかめてしまった。
「私も行くの?」
「頼むよ。もう頼れるのはお前しかいないんだ」
縋るようにディランは言う。その腹立たしい顔としばらく睨めっこしたあと、リーフェットは肺の中身をすべて吐き出すように大きな溜め息を落とした。
「ティーカップを洗って来るから待っていなさい」
すっかり冷めたハーブティーを飲み干すリーフェットに、ディランは明るく笑う。幼馴染みのよしみなどではない。こんなちゃらんぽらんのせいでパーティメンバーが落選するのが不憫だからだ。
エレスティン家がようやく没落して、自由気ままなスローライフが待っていると思っていたのに。父がオルディンを選ばなければ、きっと思った通りになっていただろう。ディランのパーティの拠点を父が選んだのが運の尽きだったのだ。
リーフェットは、それが父の気遣いだとわかっている。幼馴染みのディランがいる町なら安心、ということだろう。
正直なところ、その気遣いはリーフェットには不要だった。なにせ、リーフェットはかつて、ランクSの勇者パーティの一員だった。それに加え、個人ランクはA。誰の手も借りずに充分に生きていけるのだ。
その勇者パーティは先日、八十五歳の魔法使いの引退の際に解散した。それに合わせ、王宮が勇者パーティ候補を募ったのだ。リーフェットのパーティが健在であったなら、魔王との戦いはリーフェットのパーティが担ったことだろう。
それがなぜ、この能天気な間抜けの手助けをしなければならないのだろう。心の中でそう悪態を吐いても、もはや無駄なことだろう。
リーフェットは頷いてしまったのだ。