あの日のはなし
小学五年生の時のころの話、
家の事情で少しの間、おばあちゃんちで過ごしていた僕は暇を持て余していた。
「なー!学校もないし暇!」
そう駄々をこねて僕はおばあちゃんを困らせていた。
友達もいないしゲームも飽きたしコンビニも近くにないし…
とうだうだと文句を言う。
「田舎だでなぁ~…都会育ちの蒼汰には暇かねぇ…」
のどかで良いところなんだけどなぁ…と顔に手を当てどうしようかねぇ…とぼやいている。
「そんな言うなら遊びに行きゃええ」
さっきまで一言も喋らなかったおじいちゃんが急に声を出した。
無口でいつも怒ってるような雰囲気のおじいちゃんが僕は苦手だった。
怒られてるのかと思い、思わず首をくすめる。
慌ててあばあちゃんが怒っとらんよ、感情表現が苦手なだけだで。と付け加えた。
「…でも、雨降ってる」
梅雨時期でその日も雨がしとしとと降っていた。
「濡れても着替えりゃええで」
そう淡々と話すおじいちゃんを見てなんだかその場に居ずらくなってしまった。
ちらりとおばあちゃんを見るとにこにこと洋服汚しても怒らんでぇと言って行っといでと言われてしまった。
…まあ、いつもはお母さんに小言を言われるし
汚してもいいならここら辺でも探検するかぁ…
雨の日にあまりこない土地での冒険も
楽しいのかもしれない。向こうに帰ったら友達に自慢できるし…
なんて考えて傘貸してー!!とさっきの駄々が無かったかのような僕を見ておばあちゃんは元気になってよかったわぁと笑った。
早速玄関に行こうとした僕を
蒼太、とおじいちゃんに呼び止められた。
「神社には絶対近づくなよ、ここらではあそこは
子供は近づいちゃいかんことになっとる」
特にこの時期はだめだで、鳥居を見つけたら引き返してこい。
それだけ言っておじいちゃんは手元にあった新聞を開いた。
子供は行ってはいけない神社……??
僕の好奇心を擽るには十分すぎることを言われて
うん、わかった。と返事をしたけれども頭の中はどこら辺にあるのだろうかと考えていた。
何故だか分からないがこの時期に行ってはいけない神社など、そんなの友達への土産話にうってつけだ。
僕はわくわくしながら玄関に向かった。
*
しとしとと降っている中、僕には少し大きい傘を
さして周りを見渡しながら歩いていく。
雨の日の独特な匂い、どこかでケロケロとカエルの鳴き声がする。
おばちゃんちの家の近くの小川を橋の上から覗く。
「…なんも見えないなあ…」
雨だからか小川の中の様子が見えなかった。
メダカとかいたらよかったのに、と呟く。
もう少し先、行ってみようかなあと僕は足を進めた。
橋から先は行ったことがないので少しどきどきする。
民家が何件かあってその先を抜けたら田んぼが出てきた。
ポチャン!と何かの音がしてみてみるとカエルが泳いでいた。
連れてかえったら怒られるかなあ…なんて考えて籠もないので一旦諦めた。
それにしてもおじいちゃんが言ってた神社が見当たらないなあ……と思い周囲を見渡す。
ほとんどが田んぼと街頭だけで辺りは見やすかった。
(……あれ?)
少し離れた先に赤い鳥居を見つけた。
……多分あれだ!!と興奮気味の僕は小走りでそちらの方へ向かった。
*
目の前には大きい鳥居。
「おおー…!!」
これが行っちゃいけない神社?!
鳥居の横にこの神社であろう名前が書いてあったが水…からなぜか苔で読めなかった。
僕はどきどきしながら鳥居をくぐる。
その瞬間空気感が一気に変わる。
あんなにじとじとと暑かったのに鳥居を抜けた瞬間にやけに空気がひんやりとしていた。
(……なんか、不気味だな…)
子供ながらにそう感じて足を進めるか迷う。
…でもここまで来たんだし、と僕は思い直して足を進めた。
今、思えばここで帰っておけばよかったのに、と思う。
鳥居を抜けてすぐの階段を上っていく。
ふうふう…と息が上がる。
長い階段は有り余った体力がある僕でもしんどく感じた。
(……??)
僕の息が上がる音と傘に雨があたる音に紛れてなんか音がする。
べちゃ、べちゃ…と、僕の後ろの方から。
それは段々と近づいてくるように音が大きくなってくる。
べちゃ…べちゃべちゃ…
僕は怖くなって振り向けず、一気に階段を駆け上った。
はあはあ、と階段の一番上で肩を上下させ息を整えようと僕は
空気を一生懸命取り込む。
さっきの音はもう聞こえない…
バッと一気に後ろを振り向く。
「…何もいない…」
なんだったんだろう…とふぅと息を吐く。
前を向くと境内に古い神社とその前にはお賽銭箱があった。
さっきの不気味な音は置いといて普通の神社だった。
境内はやっぱり少しひんやりとした空気が流れている気がする。
辺りを見回しながら境内を歩く。
特に何もないなー…と思いながら神社の横をなんとなく覗いてみた。
…奥になにかある。
何だろう…と僕はそれに近づいた。
小さな祠だった。
ただ、なんかじっとりとしていて苔がついていた。
祠の付近だけやけに足場が悪く地面がぐちょぐちょだった。
そこだけ大量の水でも降ったような…
その瞬間、真後ろでべちゃ!と音がした。
心臓が早くなる。
後ろに何かいる。そんな感覚だけする。
ふっふっ…呼吸がうまくできない。多分さっきの階段のやつだ。
『久しぶりの子供…久しぶりの子供…』
何とも言えない声がぼくの真後ろで聞こえた。
その瞬間背中にすごい衝撃が走って、僕は意識を失った。
*
(……?)
なんかバタバタと大人たちが忙しく話している声で目が覚めた。
背中がじくじくする。
おじいちゃんとおばあちゃんがは話している。
蒼汰が~~に目を付けられた。連れてかれるかもしれん、
そう話して、おばあちゃんは涙声だった。
「おばあちゃん…」
「蒼汰。起きたんか!」
顔を見るとおばあちゃんの顔は泣き腫らしたかのようだった。
話を聞くとなかなか帰ってこない僕をおじいちゃんが探し回ってくれたらしい。
そしてあそこの祠の前で倒れていたのを発見したのだと。
「蒼汰…お前、あそこに行ったんか。」
おしいちゃんが静かに聞く
「……うん。」
そうか。とだけいったおじいちゃんは深刻そうな顔をしていた。
怒られると、思ったのに。
「いいか、お前は水神さまに目をつけられた」
「…?」
「背中に跡が残っとる、それは水神さまが子供を連れていくときに
つけられる跡だ。」
急に何を言われているかわからなくて僕は混乱する、
「水神さまってなに?連れてかれるってなに?なんの話…?」
そう言っておばあちゃんを見ると手で顔を隠してううぅ…と泣き始めた。
何が何だかわからなかったけど何か深刻なことが起きていることはわかった。
「山沢さん、そんな急に言われてもお孫さん困るよぉ…」
そう言って穏やかそうな知らないおばさんがすっと間に入ってくれた。
「蒼汰くん、で合っとる?」
「…うん」
おばちゃんがにこっと笑って僕の頭をなでてくれた。
「おばちゃんは川谷さとこです、はじめまして。」
穏やかな雰囲気と喋り方は僕の心を少し和らげてくれた。
ちょっと昔話をさせてね、蒼汰くんは少し怖くなちゃうかもしれないけど…
といってさとこおばさんは話を続けた。
「凄く昔にね、ここの土地は水に感する災害が多かったんよ。川の氾濫とか、
大雨による畑や田んぼの被害とか…。それで村の人が困り果ててねえ…。
人柱…蒼汰くんには酷な話なんだけどもねぇ…子供を生きたまま水に沈めたの。」
おとなしく聞いてた僕は急なワードに心臓が早くなるのがわかった。
さとこおばさんが困ったような顔で僕の頭をまた撫でてくれた。
「人工的な…えっと…人が人で神様を作ろうとしたのね。水に沈めて、それを祀って。
水害があるたびに、それが繰り返されて。」
…可哀そうにねぇ…とさとこおばちゃんが悲しそうな顔をする。
「それが祀られてるのが水神神社なの。手前の神社があったでしょう…?
あれはお飾りみたいなものでねぇ、水神さまが代々祀られてるのがあの祠なの。」
梅雨時期にね、水害が多いから水神さまに連れてかれるってここらの子は
特に近づいちゃいけないのね。
そこまで言われて僕はとんでもないとこに行ってしまったんじゃないかっていう
自覚が湧いてきた。
「ぼ、僕…連れてかれるの…?」
恐怖で心なしか声が震える。
うーん…とさとこおばさんがすっとコップ一杯の水を僕に見せる。
「蒼汰くん、このコップに何が見える?」
「……?」
ただの水…と言おうとしたらその中にこちらを見てる目が映っていた。
ひっ…!と小さな悲鳴をあげて僕はそのコップを振り払った。
ばしゃっと中身が零れた。小さな水たまりにまだ目がこちらを見ている。
さとこおばさんが何かを唱えてその畳に染み込んでいく水を手で払った。
「…見えた?」
「め、目がこっちを見てた…!!」
必死に言葉を絞り出した僕にさとこおばさんはそうね、見てたわね。と
それだけ言ってまた何かを唱えて僕のずきずきと痛んでいた背中をなでた。
…なぜか痛みが少し和らぐ。
「山沢さん、蒼汰くんは完全に水神さまに目を付けられとる…」
真剣にさとこおばさんがおじいちゃんに言う。
「こうなったら私にも対処できるかわからんけど…できるだけ水を見せないで、
部屋から出さんで。しばらく雨が続く予報だで晴れたらこの土地から蒼汰くんを出すしかないよ」
今は一時期的に水神さまから見えないように隠したけどそれもいつまで持つかわからんで…
おじいちゃんはそうか…だけ言って部屋から出て行ってしまった。
おばあちゃんは部屋の隅でまだしくしく泣いていて、僕は罪悪感でいっぱいになった。
「おばさんができる限り蒼汰くんを守るで大丈夫」
そう言ってさとこおばさんは微笑んだ。
*
部屋から出るのはトイレの時だけになった。
それも顔を隠す布を付けて、という。
さとこおばさんが言うには少しでも僕だと悟らせないようにらしい。
そして、便器の水は絶対に見ないこと。
お風呂はおばあちゃんがお湯で濡らしたタオルで体をふくくらいだった。
さとこおばさんが部屋の四隅に塩を置いて、僕に何か唱えて背中をさすって
今日は帰るわね、と頭をなでて帰っていった。
…本当はそばに居てほしかったけどこれ以上大人に迷惑はかけられないと
思って、僕はその言葉を飲み込んだ。
その日の夜。
一人、その部屋に残された僕はじわじわと
とんでもないことが起きているんだなと実感していた。
とてもじゃないが怖くて眠れない。
どれくらい時間が経ったのか…たぶん深夜だと思う。
じっとりとした暑さと扇風機が回っていて、でも部屋は締め切りにしていた。
僕が寝ている布団の右横は隣の部屋につながる襖、そして左横は廊下に繋がる障子だった。
扇風機の音と外で雨が降る音。
そして、べちゃ!と、思い出したくもない音がまた聞こえた。
(……!!!!)
ずるぅ…ずるぅ…べちゃ…
何かが廊下で徘徊している。
鼓動が早くなる。ドッドッとこの音が相手に聞こえてしまうんじゃないかと
思うくらい心臓がうるさい。
べちゃべちゃ…ずるぅ…
水で濡れた布を引きずるような音。
障子に、影が、見える。
なんとも言えない歪な形をした陰が、ゆっくりと廊下を歩いている。
『…いない、いない…』
障子の向こう側からそんな声がした。
その瞬間僕は布団を深く被り、息を殺す。
そして、気が付いた頃には朝になっていた。
いつの間に寝てしまったのだろう…
朝、様子を見に来たおじいちゃんが昨夜なんかあったかと聞いてきたので
僕は素直に答えた。
おじいちゃん曰く様子を見にきたら廊下に何かが這ったような引きずったような跡で
泥だらけだったらしい。
「…すまん、じいちゃんがちゃんと説明してたらよかったな」
そう呟いたおじいちゃんは見たことない顔で目じりに涙が浮かんでいた。
「…ごめんなさい…」
おじいちゃんの見たことないそんな様子を見て僕は申し訳なくなって大泣きしてしまった。
ひとしきり泣いて、落ち着いた僕を見ておじいちゃんは頭を撫でてくれた。
「予報では明後日くらいには雨が止むで、それまで頑張れ蒼汰。
気持ちで負けちゃいかん。」
じいちゃんもばあちゃんも居るで、と僕を励ましてくれた。
そういうとあんまり長居しちゃいけんで、とおじいちゃんは
部屋から出ていった。
その日もしとしとと雨が降っている、音がする。
おばあちゃんがお昼ご飯を持ってきてくれたりして昼間は特に
問題もなく過ごせた。
…液体を見るのが怖くて、麦茶はすぐ飲み干したけども。
昨晩あんなに怖い目にあったのに呑気なもので、
することないなー…なんて布団に転がる。
お昼ご飯を食べたあとだからか、次第に眠気がやってきた。
……いつの間にか寝てしまっていたみたいだ、
何か違和感を感じて目が覚めた。
背中が疼いている、痛いような、かゆいような…
起き上がろうとして体が動かないことに気づいた。
(う、動けない…!)
助けて、と声を出そうとしたが言葉にならない音だけが口からわずかに出ていく。
シンプルに怖かった。
あいつが来たんだ、昨晩の、あいつが来たんだ!!!
僕の脳内はパニックに陥っていた。
かろうじて目だけは開けれた。
見るのは怖かったが、見ないのも怖い。
昨晩徘徊していたであろう障子側を見る。雨が降っているが外はまだ明るいみたいだった。
夜だけ現れるのかと勝手に思ってた僕は動揺を隠せない。
逆に今、声を出したらあいつに居場所がばれるんじゃないかと、
助けを求めるのはやめた。見つかるのがただただ怖かった。
できるだけ息を殺して早くこの時間が過ぎろと願った。
ガタガタガタガタ…!!!
急に障子がすごく揺れた。
気づけば昨晩の歪な影が障子の前で立っている。
僕の心臓は飛び出るんじゃないかってくらいバクバクしている。
(入ってこようとしてる…??!)
『ここ?ここにいる?ここ?』
障子の向こう側から繰り返しそんな声が聞こえてきて、
障子はずっとガタガタと音を出して揺れている。
きっとそんなに長い時間ではなかったとは思うが僕にとっては永遠にも思えた。
その瞬間襖にほんの少し、ほんとにほんの少し隙間ができた。
(……!!!)
隙間から目がこちらを見た。完全に目が合ってしまった。
『みつけた』
隙間から見える目は細められ、それはまるで笑ってるようだった。
あぁ、僕は連れていかれるんだな、と思った。
……パンッ!
手を叩く音がして金縛りが解けた。
僕はバッと飛び起きてふっふっと息をする、心臓は変わらずバクバクしている。
すっと障子が開いて僕はそちらを勢いよく見る。
「…驚かせちゃったねぇ、大丈夫、さとこおばさんだで」
と朗らかな笑顔でさとこおばさんが入ってきた。
僕は安心して涙が出てくる。
「あいつ…あいつがいま、」
そうねぇ…そう言ったさとこおばさんの手に持っていたハンカチが
泥で汚れていた。
それをじっと見ていたらさとこおばさんがあぁ…とハンカチを小さく折りたたむ
取っ手が汚れてたで…さすがに直接触れんでぇと微笑む。
「蒼汰くん…背中痛いでしょ」
さっきの恐怖でほぼほぼ忘れていたが背中がすごく痛いことに気づく。
「うん…」
「目が合ってしもた?」
「……うん、笑ってた、見つけたって言ってた…」
「…そっかぁ…」
どうしたもんかねぇ…とさとこおばさんが悩む。
とりあえずとさとこおばさんは何かを唱えて僕の背中をさすってくれた。
痛みが少し和らぐ。
僕にすぐ戻るで待っててねぇとさとこおばさんはすっと
障子の反対側の襖の方から出ていった。
正直、今はそばにいてほしかった。
襖を挟んで声がする。
さとこおばさんがおじいちゃんと喋ってるみたいだった。
聞き耳を立てる。
「水神さまに見つかってしもた…一晩しか持たんかった…」
申し訳なさそうな声が聞こえて、おじいちゃんは静かにそうか…と返事をしている。
「今日は夕方頃に少し雨が止むみたいだで、もうここから出した方がええ」
「…わかった、息子に話してくるで、夕方前には迎えにこれるようにする」
一通り、これからのことを話してさとこおばさんが戻ってきた。
顔面蒼白の僕を見て、聞こえちゃったかね…と申し訳なさそうに笑い
僕の頭を撫でる。
「…ごめんねぇ、おばさんの力じゃ隠しきれんかったみたい。」
怯える僕の頭を撫で続けながらでも大丈夫、なんとかするでね。と続けた。
さとこおばさんがすっと懐から白い人型の形をした紙を出す。
「これねぇ、かたしろって言うの。蒼汰くんの身代わりになってくれるでね」
そう言って僕にその紙に名前を書くように言ってきた。
もう何がなんだかわからなかったけど、言う通りにするしかないことだけはわかった。
*
夕方、日が少し沈み始めていた。
玄関の方が騒がしい。バッと障子が開く。
「お父さん…!!」
「蒼汰、お前大丈夫か?!」
勢いよくお父さんが入ってきて僕を抱きしめた。
お父さんの服は少し湿っていた、外はまだ雨が降ってるみたいだった。
「…勝也、障子を閉めろ」
そう言って静かにおじいちゃんも入ってくる。
さとこおばさんは僕に付き添ってあれからずっと隣にいてくれていた。
お父さんを見て勝也くん久しいねぇ、なんて言っている。
「…親父、水神さまの話、本当なんか…?」
確かに小さい頃耳に胼胝ができるくらいには聞かされたけど…と呟く。
「あれは迷信とかじゃない…蒼汰の背中見てみぃ…」
…背中?そういえばずっとじんわりと痛い。
さとこおばさんが背中をさすってくれてからだいぶマシだけど。
お父さんが首を傾げながら僕の背中側の服をめくる。
「うわ…」
それから先の言葉はたぶん僕を気遣って言わないでくれた。
「…多分もう少ししたら雨が止むで、その間に蒼汰を連れて帰れ」
いいな?と言うおじいちゃんにお父さんは深刻そうな顔をしてうなづいた。
大人が顔を合わせて真剣そうに話すの見て不安になる。
少ししてパタパタとおばあちゃんが走って入ってくる、目じりは赤かった。
あれからも泣いてたりしたのだろうか…
「雨、止んだで!」
じゃあ…とさとこおばさんが僕に布を渡す。
…トイレに行くときの顔を隠す布だった。
「いい?村を抜けるまで外しちゃいかんよ」
「…うん。」
「勝也くん、雨が止んでても村から出るまでは窓あけんで、どこにも寄らんでね」
お父さんは真剣にはい、はい…と返事していた。
そして布団に僕のかたしろを置く。
顔に布を付け僕はお父さんに抱えられ部屋から出た。
はたから見たら異様な光景だろう。
「蒼汰、ごめんな…」
車に乗る前におじいちゃんがそう言った。
布を付けていて表情は分からなかったけどきっと申し訳なさそうな顔を
しているんだろうなと想像できた。
「大丈夫、また来るね」
精一杯僕は強がって、
そう言った僕をお父さんは車に乗せた。
車に乗ると助手席の方から母の声がする。
「…蒼太大丈夫?」
「…うん、うん…」
とぼろぼろと涙がこぼれてきた。
お父さんが止んでるうちに発車させるぞ、と言って車が動き出す。
締切の車内、クーラーがついてるので車内はとても涼しかった。
緊張感が漂う車内で僕はただ揺られるしか無かった。
しばらくして父さんがもうすぐで村を出るぞと行ったのと同じタイミングで母のスマホが鳴る。
「…はい、はい…え?はい…わかりました」
なんだかよく分からなそうな感じで母が電話を切る。
「…蒼太のかたしろ?がダメになっちゃっただとか、さとこさんが気をつけてって…」
何の話…?と母が言う。
車で待ってた母は僕のかたしろの事など当然知らない。
僕とお父さんに緊張感が走る。
「お父さん、どうしよう…」
「…大丈夫、このまま晴れてたらなんとかなるで」
そう言ってる父の声も少し震えてるように感じた。
天気はまぁなんと残酷で。
ぽつりぽつりと降ってきたかと思えばざぁっと急に強い雨に変わる 。
「大丈夫、大丈夫だで」
そう繰り返す父は自分にも言い聞かせてるように聞こえた。
隣でひっ!と母が声を上げる。
布の間から母がバックミラーを見て悲鳴をあげたのが見えた。
僕が振り返ろうとしたのを見て父が声を荒らげる。
強い雨の音と走行中の車の音に紛れて
べちゃべちゃべちゃべちゃ!
と今までに聞いた事のない速さで何かが、
…あいつが追いかけてきている音がする。
僕は体を小さくして、ただただ恐怖に涙する。
背中もじくじくと今までにないほど傷んでいた。
「大丈夫だで、あと少しだで蒼太がんばれよ」
そういう父の震えた声と母の息を飲む空気が
確実にあいつが近づいてきていることを証明してた。
僕は両手を組んで胸の前に置いて祈るように早くこの時間が過ぎろ、と思った。
父さんがもう抜けるぞ!と言った瞬間、バンッ!と僕の真後ろで音がした。
…それは、まるで何かが張り付いたような…
ああ、追いつかれたんだ。
そう思った瞬間に今度は母が抜けた!と声を大きくして言った。
あんなに強かった雨が小降りになっていて、べちゃべちゃと追いかけてきていた音も
止まっていた。
「…うっ、うえええぇ…」
急に吐き気を覚えて胃からせり上がってきたそれを自分の太ももに吐いてしまった。
…泥だった。
『久しぶりの、子供、だったのに。』
耳元ではっきりその声が聞こえて、そして僕は気を失った。
*
…あれから成人するまではあの村に近づかない方がいいと言われ、
おじいちゃんとおばあちゃんと直接会ったのはそれが最後だった。
それから数年たち高校二年の冬、おじいちゃんが亡くなったとおばあちゃんから連絡がきた。
僕はお通夜にもお葬式にも、行けなかった。
成人するまで村に近づけないからだ。
…おじいちゃんにはずっと申し訳ない気持ちがあった。
あの、涙ぐんで謝ってくれたあの顔が忘れられない、おじいちゃんは、
なにも悪くなかったのに。
お通夜とお葬式には両親だけが出席することになり僕は返事がくるわけがない
おじいちゃん宛ての手紙を渡した。
おじいちゃんが亡くなったことに対しての実感がわかない。
数年会えてないのだ、おばあちゃんはちょくちょく電話をくれるが
おじいちゃんと話すことはなかった。
しばらくして、お通夜と葬式から両親が帰宅してきた。
二人がいなかった間は一人だったのでなんとなく、ほっとした。
「おかえり」
「ただいまー、あっち雪が降ってたわよ」
すごい寒かったわー、と母がコートを脱ぐ。
あぁ、そうそう…とお母さんは鞄を漁ってはい、蒼汰。と僕に
白い封筒を渡してきた。表には蒼汰へ。と書いてある。
「……え」
「おじいちゃんが、亡くなる前に書いてたみたい。」
予想していない手紙に僕は動揺しながら部屋で読んでくる…と伝え
母は、静かにそうしなさいとだけ言ってくれた。
部屋に戻り、ベッドに腰をかける。
少し緊張しながら封筒を開ける
『蒼汰へ。
元気か?
じいちゃんは今でもあの時のことを思い出して蒼汰には
申し訳ないことをしたと思っとる。
…電話も、じいちゃん口下手だからなんて話したらいいかわからんくてなあ…
でも蒼汰はじいちゃんの大切な孫だで、それだけはわかってほしい。
蒼汰が、成人するまで、じいちゃん生きれなくてごめんな、
蒼汰が無事に成人できるようにじいちゃんが見守ってるでな。』
わりかし簡潔に書かれたおじいちゃんらしい内容と
やっぱりあの日の僕を止めれなかった後悔が短い文章だけでも伝わってきて
あぁ、もうおじいちゃんに直接おじいちゃんが悪いわけじゃなかったと
言えないんだなと涙が込み上げてきた。
あれから水や雨が苦手になったのは事実だけども
大人の言う行ってはいけない場所、やってはいけないことには
それなりの理由があるのだ。
これはもう僕が背負うべき罰なのだ。
おじいちゃんが亡くなって、
それからも時間は平等に流れる。
…僕はあれから無事に成人して21歳になった。
久しぶりにあの村へと車で向かっている。
あの日から背中についた跡は…後から聞いたが大中様々な子供の手形だったらしい、
その跡は年齢を重ねるにつれて薄くなっていき、成人するころには消えていた。
もうあの村へ向かっても疼くことはない。
何年かぶりに見る、古くて懐かしいその家の前に車を停める。
おばあちゃんがとても嬉しそうに向かい入れてくれた。
手土産を渡して、おじいちゃんに挨拶してくるね、と仏壇に向かう。
立派な仏壇の前には煙草とお酒が置いてあった。
…おじいちゃんって煙草吸う人だったのか…
じっと見てる僕にくすくすと笑いながら蒼汰に隠れながら吸ってたんで、あの人。
とおばあちゃんは楽しそうに笑った。
子供の前だからと気を遣ってくれたのだろうか…と思いながら仏壇の前に座る。
「…おじいちゃん、遅くなったけどまたきたよ。」
そう言って僕は笑った。
初めてこんなに長い話を書きました。
少しでもじっとりとした怖さを感じてもらえたら嬉しいです。