第2話「 手のひらの体温 」
「 もう食べ物ないじゃん 」
朝食後、部屋を漁っていたアイツが、何かを発見したように振り返った。
白いワンピースが揺れるたびに、部屋の空気がわずかに変わる。
「 そりゃ、朝飯で最後だったしな 」
俺は素直に答えたが、アイツはちょっとだけ不満そうに唇を尖らせる。
「 えー、じゃあまた買いに行くの ? 面倒だなあ....」
ソファに体を預けて、彼女はぐでっと脱力する。
夏休みだからって、部屋に来てだらける自由人。まあ、怒る気も起きないけどさ。
「 お前がそんなこと言っても、家にないなら出るしかねぇだろ 」
俺がそう言うと、アイツはあっさりと手をひらひら振って返す。
「 はいはい、じゃあ私はここで待ってるね。涼しいし 」
....どの口が言うんだか。文句はあるけど、出て行く準備を始めた。
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買い物袋を片手に帰る道は、昼の割には静かだった。
蝉の鳴き声も少し遠くで聞こえるだけで、風の音ばかりが耳に残る。
歩道の先に、見覚えのある人影が浮かんだ。
「 あれ......神崎? 」
歩み寄ると、やっぱりそうだった。
「 わっ、苑里じゃん ! ひさしぶりー 」
彼女──神崎 蓮は、明るい笑顔を向けてきた。高校の同級生で、割と仲がいいやつ。
けど、アイツほどではない。
「 買い物帰り? 夏休みって感じだねー 」
「 まあな。昼飯がなくなっててな..... 」
「 あ〜、わかる。私もよく冷蔵庫カラになる 」
他愛ない会話を交わしながら、ゆっくりと並んで歩く。
────────
「 最近、あの子と仲良いんでしょ? よく一緒にいるって聞くよ 」
唐突な話題に、俺は少し眉をひそめた。
「 ....まあ、勝手に来てるだけだけどな 」
「 そっか。でも……なんか、うらやましいなって 」
「 は? 」
「 あ、違う違う! 私じゃないよ?それに私もう付き合ってるし。....ただ、あの子さ、嬉しそうだったから 」
神崎は笑った。ちょっと、あたたかい笑顔だった。
「 あんな顔、初めて見た気がしたんだよね 」
俺は返す言葉に迷った。
そんなこと、気にしたこともなかった。
「 苑里って、鈍いよね 」
「 は? またかよ.... 」
「 ううん、いい意味でだよ。そういうとこ、案外いいなって思うし 」
神崎はふっと空を見上げて、軽く笑った。
「 応援してるよ、ちゃんと 」
その言葉は軽やかで、嘘が混じっているようには思えなかった。
俺はただ、「 変なやつ 」とだけ返して歩き出した。
振り返ると、神崎は手を振っていた。
まるで、夏の陽炎みたいに──あっけらかんと、まっすぐだった。
玄関を開けると、いつも通りの空気が出迎えた。
リビングの隅、床に寝転がっていた“あの少女”が、袋を見て目を細める。
「 遅かったね 」
「 ....寄り道しただけだ 」
「 ふーん。じゃあ、美味しいのあるよね? 」
返事をする前に、彼女の手が袋に突っ込まれる。
躊躇なんて存在しない。遠慮も礼儀も、ここにはもう必要ないらしい。
「 おい、勝手に触るな 」
「 触ってないし、見ただけだし 」
「 ほぼ同義だろ。それ 」
「 細かいなぁ....あ。私コレ好き!も~らい 」
そう言って、彼女は袋の中から一つ取り出し、ソファへふわりと移動する。
当たり前のように居座る姿に、俺ももう何も思わなくなっていた。
「 そういや、神崎に会ったぞ 」
「 え。マジ?いいなぁ 」
「 いいなって....お前の方が会ってるだろ 」
「 そんなことないよ!週2だからそんな多くないって 」
「 いや十分多いだろ 」
「 えぇ...それは苑里が会わなすぎるだけだと思う 」
────────
テレビの電源が唐突に入る。リモコンを握っていたのは、言わずもがな、あいつだった。
「 明日、快晴だってさ 」
画面に映る天気予報士が、やけに明るい声で伝えている。気温は高め、湿度は低め。まさに夏の散歩日和。
「 ってことで、明日、どっか行こうよ 」
「 .....は? 」
「 は、じゃないの。もう決まり 」
いつの間にか手帳を取り出して、予定に丸をつけるそぶりまでしている。こいつの行動力、どこで鍛えたんだ。
「 いや、俺そんなこと一言も── 」
「 言ってないけど、了承ってことでいいよね 」
笑顔でそう言い放つと、やれやれとでも言いたげに伸びをして、玄関へと向かっていく。
「 じゃ、明日ね。あ、約束だからね 」
そう言い残し、いつもの調子で玄関の戸を開けた。
....ドアの閉まる音が、妙に静かに聞こえた。
────────
苑里は手帳を開き、昨日アサギマダラが決めた約束を確認した。8月8日、午後2時、最寄りの駅。
「 仕方ないか... 」
小さくため息をつきながら手帳を閉じ、立ち上がる。食材の買い物も済んだし、あとはアサギマダラとの約束を守るだけだ。気持ちを切り替えて、玄関を出る。
駅までの道のり、気乗りはしなかったが、すでにここまで来た以上、行かないわけにはいかない。嫌でも、だ。
駅に到着し、改札を抜けてホームに向かう。時計を見れば、ちょうど2時を過ぎたところだった。遅れたかな、と思いながらも、案外アサギマダラは遅れるタイプだから、そんなに焦る必要はないだろうと考える。
「 アイツ、遅れがちだしな 」
それにしても、アイツは本当に元気だな、なんてことを考えていると、視界の端に見覚えのある人影が現れた。
──笑顔で手を振りながら歩いてきた、あの人。
アイツだ。予想通り、少し遅れて現れたようだが、笑顔で手を振りながら近づいてくる。
「 ごめん!遅れた! 」
元気よく声をかけられ、俺は少し眉をひそめた。
「 別に、待つつもりじゃなかったけどな 」
そう言いながらも、心の中では少しだけホッとする自分がいた。それに、コイツが遅れるのは予想通りだし、それに文句を言っても仕方ない。
「 え~、そんなこと言わないで! だって今日、二人でお出かけなんだから! 」
コイツは元気に言いながら、俺の隣に並んだ。
「 お前、無理矢理約束させたくせに、もうそんなこと言うのか? 」
俺は気だるそうそうにそう言い、肩を軽く叩いた。
アサギマダラは笑って、
「 じゃあ、今日は本当にありがとう!さ、行こう! 」
と嬉しそうに歩き出した。
俺もつられて歩き出す。俺たち二人の足音が響き、その音は段々と遠のいた。
────────
例の自由人は元気よく歩きながら、突如として俺の手を引いた。
「 は...? 」
突然のことで驚き、少し足を止めたが、コイツの力強い引っ張りに抵抗する間もなく、手を繋がれてしまう。
コイツは、何事もなかったかのように、悠々と歩き続けた。
「 おい、何を.... 」
「 ほら、今日は二人で出かけるんだから、手くらい繋いで歩かなきゃ!って思って! 」
彼女はにっこりと笑いながら、手を繋いだまま歩いていく。その笑顔に、俺ははどう反応していいのか分からず、少し困ったように顔をしかめた。
「 お前、こんなこと強引にやるなよ... 」
「 だって、私、そういうの好きなんだもん 」
自由人は少し照れたように言うと、また元気よく歩き出した。俺は思わず深いため息をつきながらも、嫌々とは思いながらも、無意識にその手に力を入れて握り返していた。
静かな道を歩く二人。周りの景色が静かに流れていく中、しばらくの間、何も言わずに歩き続けた。
やがて、彼女が突然立ち止まり、振り返って言った。
「 でも、たまにはこうやって歩くのもいいかもね。なんか、どこか遠くに行くみたいな気分でさ 」
俺は少し驚いたが、また何も言わずに歩き出す。静かな道には、二人だけの世界が広がっているような、そんな気がした。
手を繋いだまま歩き続ける。その距離が、どこか不安定で、でも、心地よかった。
「 ....言葉だけみたら誤解されかねないよ?大丈夫かな二人とも。一応ストー...後を追うけど。それ以上に本当に付き合ってないの? 」
────────
手を繋いだまま、静かな道を歩く。
最初はぎこちなさが勝っていたが、次第に慣れてしまっている自分がいた。
どこか悔しい気もしたけど、それ以上に──悪くない、と思ってしまっている。
蝉の鳴き声が遠くで揺れて、風が少しだけ頬を撫でた。
舗道に差す木漏れ日が、彼女の髪を優しく照らしている。
時折、振り返っては笑うその顔を、俺は何度も目で追ってしまっていた。
結局、俺は大した抵抗もせずに彼女のペースに巻き込まれていた。
寄り道をして見つけた喫茶店では、何故か俺が奢る流れになっていたし、
近くの公園に立ち寄って、ベンチで休憩してるときなんか──
「 こういうの、悪くないでしょ 」
彼女はそんなことを言って、俺の隣にぴたりと座った。
悪くない。....それは本音だった。
ただ、これが何なのか、言葉にはできなかった。
夕方の陽が傾きかけた頃、俺は腰を上げた。
「 そろそろ帰るか 」
そう言って歩き出そうとしたとき、背後で小さな引っかかりを感じる。
「 ...おい? 」
裾を掴まれた感触に振り返ると、彼女が何か言いたげな顔でこちらを見ていた。
言葉にせずとも、何か伝えたそうなその目を見て、俺は小さくため息をつく。
「 どうした? 」
すると、彼女は急に表情を明るくし、指をしゃっと伸ばした。
その先には、少し歩けば着く繁華街の通り。
普段は人気もなく、通る人もまばらなあの場所に、今日はなぜか人だかりができていた。
「 珍しいな 」
俺がそう言うと、彼女はコクリと頷いた後、小さく言葉を添える。
「 ね、せっかくだし、ちょっとだけ見ていこうよ 」
もう帰るつもりだったけど、その笑顔に押される形で、俺は結局そのまま足を向けることにした。
手を繋ぎ直されながら──その温度をまた、感じながら。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は苑里と自由人の微妙な距離感と、神崎との会話が織りなす日常のひとコマが印象的でした。手を繋ぐその瞬間の温度が、二人の関係を少しずつ動かしていく予感を感じさせますね。
では、また次の話でお会いしましょう。──広瀬