血
「お嬢様。何があったんですか?」
戻ってくるなり、アスターは報告より先にそう尋ねた。
数時間、離れていただけなのに何があったら美しい世界に汚れを落とせるのかと思う。
上も下もどこまでも続く青い世界。
太陽の光で輝く砂。
風に運ばれてくる塩の匂い。
どれも世界を美しく感じさせるものなのに、なぜかある一定の場所だけ、この場に不似合いなものが見え、アスターは頭が痛くなるのを感じる。
帰ってきて真っ先に目に入ったのは二つの血の山。
近づけばそれが何かすぐにわかった。
一つはセイレーンの死体。
もう一つはセイレーンの鱗。
次に何故か泣いているノエル。
魚人の姿をしているせいで、魚が泣いているようで怖くて仕方がない。
そしてなぜか日陰で寝ているのに魘されているオリバー。
最後に最もこの場に似つかわしくない存在、血塗れなのに笑顔なローズ・スカーレット。
聞かなくても大体予想はできるが、本人の口から聞きたかった。
一体この状況でなんと答えるのか知りたくて。
「なにって見たらわかるでしょう?セイレーンに襲撃されたのよ。死ぬかと思ったわ。まったく、いい迷惑よ」
'全然困ってるようには見えませんけど?'
困った、困った、と笑いながら鱗についついる血を拭くローズを見てアスターはそう思った。
「それで、そっちの鱗は?」
'鱗?血じゃなくて?'
私の言葉にアスターはやっぱりそっちが目当てだったかと頭が痛くなる。
「ルネの中に」
運ぶのが大変なためルネの魔法空間に保管してもらっていた。
アスターがルネの名を出すと当の本人は、どうだ、と言わんばかりの顔でチョロチョロとローズの目の前で踊り出す。
「血も?」
私がそう尋ねると、やっと聞いたよ、みたいな顔でアスターが見てくるので、何さっきからとイラっとする。
「はい」
アスターがそう言うと私はルネの名を呼ぶ。
呼ばれたルネは「なんだ?」と顔で語りかけてくる。
ーーどうだ?俺はすごいだろ?とムカつく顔で近づいてくるので一発どころか百発殴りたくなる。
「血は?」
相手にするのも疲れるので無視して血だけ貰うことにした。
当然褒められると思っていたルネは何も言われないことにムッとするが、言われた通り素直に血を渡す。
574匹のセイレーンの血を。
「多くない?」
出された血の入った瓶を見て若干引いてしまう。
「誰が襲ったかわからないからな。全員分取ってきた」
ルネの発言に私は驚く。
まさか、襲ったセイレーンが誰かわからないなんて思いもよらなかった。
だが、よく考えればそうだとわかる。
お金に気を取られていたせいで、そこまで頭が回らなかった。
もし、私がこれを飲まないといけない立場だったら何としても襲ったセイレーンを特定した。
1匹分飲むだけでも嫌なのに、574匹は無理だ。
でも、飲むのは私ではない。
なら何も問題はない。
私はそう自己完結し、ノエルの方を向きこう言った。
「じゃあ、飲もっか」
他人事だと思うと、何故か笑えてしまい、私はとてもいい笑顔でそう言った。
'悪魔か、お前は'
私の笑顔を見たアイリーン以外のものは全員そう思った。
誰が見ても、人の不幸を楽しんでいるようにしか見えなかったからだ。
言われたノエルはと言うと、キラキラと輝いている笑顔が、もはやこの世で最も恐ろしいものしか見えず、情けない悲鳴を上げて腰を抜かしてしまう。
「……」
私はそんなノエルを見て「なんなんだ、こいつは。人の笑顔を化け物をみたみたいな反応をして。これから命の恩人になる相手に対して、失礼なやつだな」と死んだ魚のような目で見下ろした。
一気に感情がなくなった私を見たノエルは、これ以上何も見たくなく意識を飛ばしてしまう。
「あ……」
'倒れた'
白目を剥きながら後ろに倒れたノエルを見て、特に心配もせず、ただ見たままのことを思う。
「どうしますか?」
気絶した以上、血を飲すのは無理だと思い、アスターが尋ねる。
「どうするも何も、やることは一つよ」
アスターの質問に私は笑顔で言う。
その笑顔を見たアスターは今から何をするのかわかった。
目は口ほどに物を言う、とはまさにこのことだなと思いながら、これから悲劇に見舞われるノエルに同情の目を向ける。
「叩き起こすのよ。意識が戻るまで」
'うん。さすが、悪魔!'
ニヤッと笑う私を見て、アイリーン以外の全員がそう思った。
「さて、やりますか」
私は腕を回しながら、ノエルに近づく。
今のノエルは魚人なため、服は着ていない。
上半身を起こすには気持ち悪い肌に触れるしかない。
うぇ、と思いながら肩を掴み、右手で思いっきりノエルの頬を打つ。
バチンッ!
いい音が響く。
5人がいい音鳴ったな、と思っている間に連続ビンタが行われた。
ノエルは最初の一発で意識を取り戻したが、あまりの痛さに驚いて声が出ずにいると、反対の頬に新たな痛みが走り、また驚いて声が出ずにいると、また反対の頬に痛みが走りを繰り返し、結局、意識を取り戻しては失いを繰り返した。
解放されたのは、魚の顔とわからないくらいなった後だった。
「あの、起こしていただきありがとうございます」
ノエルは自身の顔を鏡で見なくてもどうなっているのかわかるため、これ以上怒らせて、今より酷くならないようお礼を言った。
「気にしなくていいわ。困ったときはお互い様でしょ」
'お嬢様のやり方は違うと思いますが?'
すかさずオリバーが心の中で反論する。
ノエルのようにはなりたくないので声には出さない。
「ハハッ、そうですね」
ノエルもオリバーと同じことを思ったが、それを指摘する勇気はなく、笑うことしかできない。
その笑みにつられ私も笑う。
暫く、ノエルと笑い合ったが飽きたため、真顔に戻りこう言った。
「それじゃあ、これ飲もっか」
血の入った瓶を指しながら言う。
「……はい」
いや、と断れる空気ではないため、そう言うしかなかった。
だが、ノエルはその場から動くことができなかった。
どれを飲めばいいかわからないのではなく、魔物の血を飲むというのが気持ち悪くて急に体が拒絶反応を示した。
もちろん、最初は飲むつもりだった。
飲まなければ人間に戻れず、この先ずっと魚人として生きなければならなくなるのだから。
だから、心の準備をして待っていたのだが……
大量の血の瓶とセイレーンの死骸の山を見た後では飲みたいとは思えなくなっていた。
「はい。どうぞ」
そう言われて血の瓶を受け取るが、やっぱり飲む勇気は出ない。
最終的に飲むが、それは自分の意思ではなく悪魔に無理矢理飲ませられただけだった。
だが、ノエルは574匹全ての血を飲んだが元に戻ることはなかった。