理想の女性
「じゃあ、とりあえず私たちに会うまで何してたか話してくれる?」
アイリーンの水の鏡で自分の顔を確認するまで魚人になったことに気づいていなかったノエルに、その姿になった理由を聞いても答えられるはずはないため、話を聞いてそこから何があったか推測しようと考え、そう尋ねた。
「えっと、たしか……」
ノエルは私たちに会う前のことを思い出そうと目を瞑り数時間前の記憶を引っ張りだす。
※※※
「ノエルはどこにいる!」
屋敷全体にフリージア侯爵の声が響き渡る。
侯爵が怒る姿など貴族だけでなく国王ですら想像できない。
それほどまでに彼は温厚な人なのだ。
領地も侯爵の性格をあらわすかのように、美しい緑に囲まれ、空気は澄み、川は太陽の光で煌めく。
間違いなくこの国一番の美しい領地であり、人々の性格も優しく、困っている人がいたら助ける町として有名だ。
だが、ここ数年ノエルのせいで侯爵はほぼ毎日声を荒げている。
領地もそれをあらわすかのように、最近は前ほど空気は澄んでない。
川は透明から少し濁った茶色へと変わり、最も美しいと評判の緑の世界も今では少しずつ緑が消えていた。
優しい人たちも急に病気になり、自分のことで精一杯で他人を助ける余裕がなく苛立っているのか、ちょっとした喧嘩をするようになった。
そんな大変な時に息子のノエルが貴族の令嬢に高価な贈り物を贈るので、血管がキレるのではと心配になるくらい侯爵は顔を真っ赤にして「領地民のために使うお金を使うな!」と怒るが、ノエルはそのことをすぐに忘れまた使ってしまう。
そして昨日また令嬢に贈り物をしてしまい、今それがバレてとうとう我慢の限界がきた侯爵の逆鱗に触れた。
部屋にいたノエルは声を聞いて今までと違い、今回は本気で怒っていると察し、慌てて部屋の窓から飛び降りる。
腐っても騎士なので、2階の高さから飛び降りても足がジンジンと痺れただけで、どこも怪我はしなかった。
侯爵や使用人達に気づかれる前に安全なところに逃げようと街に降りた。
そこで見た光景にノエルは言葉を失った。
聞いていた以上に酷かった。
侯爵家周辺は浄化魔法がかけられているため影響はなかった。
それは侯爵が国王の最側近なため、呪われないよう宮廷魔法使いたちが3ヶ月に1回魔法をかけ直してくれているからだ。
そのお陰で侯爵邸に住むものたちは大丈夫だったが、ノエルはそのせいで侯爵が大袈裟に言っているだけと勘違いしてしまっていた。
侯爵の話をきちんと聞かず、信じなかったノエルの自業自得だが、自分の愚かさに今回は心から反省した。
だが、これまで女を口説くことが趣味だったノエルにはこの状況をどうしたら解決できるのか、いくら考えてもわからなかった。
とりあえず、侯爵に謝罪をしようと屋敷に戻ることにしたが、町の様子を確認するため歩いていたら知らない間に森に入っていた。
空気が汚れ、木や葉は変色し、気持ち悪くて早く戻りたいが、ここかどこかわからず、どっちに行けばいいか判断できない。
困り果て悩んでいたとき、女性の悲しんでる声が聞こえてきた。
ノエルは迷わず女性のところへと向かう。
だが、いくら歩いても、歩いても、女性のとこへと辿り着かない。
'声は聞こえるのに、どこにいるのど?'
霧が濃くなり、前がよく見えなくなるが、耳を澄ますと水の流れる音と塩の香りが微かにする。
気づくとノエルは山から降りて海まできていた。
いくら霧で前が見えなかったからと言って、海に来る気はなかった。
山に入る前に町の人たちが会話している内容を聞いたからだ。
世界一と称される絵に描いたような美しい自慢の海が、今では黒く染まり唯一魔物が出ないと言われていた海に魔物が出て、もう何人もの領地民が死んだと。
今のノエルは魔物と戦う装備を何一つ持ってない。
もし、魔物と出逢ったら間違いなく殺される。
今のうちに逃げようと踵を返そうとすると「助けて」とここまで連れてきた声が今度は鮮明に聞こえた。
ノエルは後先考えず声のする方へと向かう。
もし魔物だったら、領地民だから助ける、そんなことは何も考えずただ走る。
助けを求める女性がそこにいるのなら、それが例え魔物であろうと向かうのがノエルという男だ。
今、ノエルの頭の中にあるのは「泣いている女性を笑顔にする」ということだけだ。
「大丈夫……か?」
女性の後ろ姿を見た瞬間、ノエルは声をかけるが、振り返った女性の顔を見て一瞬、息が止まった。
そこにいた女性はノエルが理想とする女性像を体現したかのようなものだったからだ。
腰まである長い黒髪、太陽の光はないのに輝く黒曜石のような大きな瞳に色白の肌。
儚げなのに可憐で、美しい顔立ちに反して可愛いらしく笑う顔が男心をくすぐり守ってあげたくなる。
彼女はノエルの理想を全て体現したかのような女性だった。
これぞまさに運命!
そう思ったノエルは、何故彼女が危険な場所にいるのか少し考えれば怪しいとわかるものを、運命の相手に出会ったと喜んでいるため危機能力が低下していた。
だから、この状況で最も相応しくない言葉を気づけば口にしていた。
「タイプです。俺と結婚しましょう」
初めてあった男にいきなりこんなことを言われたら、例え顔が整っていても恐怖を感じるだろう。
普通なら一目散で逃げ出す。
もしかしたら喜ぶものもいるかもしれないが、この状態で言われたら普通なら「頭イカれてんのか?こいつ」と思うはずだ。
だが、女性は笑顔で「はい。喜んで」と答えた。
もしここに、第三者の人間がいたら両方とも頭がおかしいと思うだろ。
視線を横に移動すれば真っ黒い海。
反対方向を向けば、死んだような不気味さを感じさせる森での求婚なのだから。
「本当に!?本当に!?俺と結婚してくれるのか!?」
承諾されると思わず、女性の返事に喜びを隠せない。
「はい。もちろんです」
「じゃあ、今から父に紹介するよ。善は急げって言うしね。行こう」
女性の手を掴み、屋敷へと向かおうとするが「待ってください」と逆に引っ張られる。
女性とは思えないほどの強さにノエルは驚いて倒れそうになるも、そんな無様な姿を好きな人に見せるわけにはいかず、根性で耐える。
「どうした?」
'まさか、やっぱり嫌とか?'
ノエルは不安になる。
「その……大切なものを海に落としてしまって……」
「え?」
「すごく大切で見つけないといけないんです。だから、今は行けません」
'見つけるってこの海から……?'
ノエルは女性の発言に言葉を失う。
真っ黒すきで海の中がどうなってるかわからない。
子供でもわかるくらい危険だ。
それがわからないほど女性は馬鹿ではないはずだ。
どうやって説得するか考えていると女性が海の中へと入っていた。
ノエルが「でろ」と言う前にどんどん中に進んでいく。
慌てて女性を海から引き摺り出そうとノエルも後を追って中に入る。
女性の歩くのが速く、追いついたのは胸まで海に浸かったところだった。
「危険だから。戻ろう」
そうノエルが言おうとしたとき、いきなり女性に抱きつかれ驚いて何も言えなくなる。
「ねぇ。私のこと好き?」
女性が尋ねる。
「もちろんだ」
ノエルは即答する。
会ったばかりなのに、彼女のためなら命をかけれると思うほど好きだった。
「嬉しい。なら、私のために死ねる?」
「君が望むなら、喜んで」
ノエルは女性を愛しそうに見つめながら言う。
すると、その言葉を聞いた女性は嬉しいというよりは、どこか馬鹿にした感じで微笑んだ。
だが、今のノエルには冷静な分析ができないため、自分の言葉に喜んでくれているのだと勘違いした。
「よかった。なら……」
女性は下を向きながら言葉を紡いでいたが「死ね!」と発したとき顔を上げノエルに襲いかかった。
顔を上げたときの女性の顔はさっきまでの顔とは全く違った。
目は鋭く、口は裂けているのではと思うほど大きく開き、歯はナイフのように鋭く、何より人間の顔ではなく化け物の顔だった。
ノエルは彼女の顔がいきなり理想から化け物になったことが理解できなかった。
そのまま何の抵抗もできずに、首元を噛まれ海の中へと引き摺り込まれた。