コーディネイトの社会性
なんとはなしにしまむらのチラシを見ていたらあるyoutuberが着ていたようなジーンズが載っていた。そのyoutuberはジーンズに黒のダウンというコーデがダサいと散々言われていたのだけど、俺もダサいと思う。
ダサいというが呪物めいた異様さを感じだ。
それはセンスがどうとかではなく、人様の前にお出しする自分という視線がないせい。
人って社会で生きる社会性のある生き物だから、人様の前にお出しする自分という視線がないだけで凄く非社会的になるしそれでダサいを越えて異様に見えるんだ。
そのyoutuberを見ていると衣服というのはプライベートなものだけはなく、社会装置としての機能もあるのだなと実感できる。
着こなしというのはただお洒落というだけではなく、社会と私、社会というものをどれだけ深く理解しているか?その社会とどう言う立ち位置でどう関わっているのか?と示す指標になるのだな。
そういう視点を得るとファッションコーデができないわからないという人のことが理解できるようになる。
俺はコーデなんて息をするのとか歩くのとかと同じ感覚で、できないわからない人のことがとことん不思議だったのよ。
センスの問題じゃなくてコンセプトの問題だったんだ。
人様の前にどういう自分をお出しするか?という問題に明確な答を出してないとなにをどうしたらいいかわからなくなる訳だ。
しかし、コーデの時に社会と私なんてことを深く考えている人なんでいないので、その問題を野生の勘でクリアしてる人とか社会に対する立ち位置が明確で揺るがない人とか、難しいことは分からないけどパッションで乗り切る人とか以外の人はコーデよくわからんとなるのだな。
だから服をマネキン買いしたり、雑誌のコーデをそのまま真似したり、店員に言われるままに服買ったりする人がいる訳だ。
謎だったのよな、なんで服買う時に一番楽しい部分を人任せにするのか。
社会と私の問題に自分で答を出せないから模範回答を求めているのだな。
それを踏まえて考えるとヤクザとか半グレが変な格好するのはそのまま反社会的行為だけど、オタクとかがなんか妙な違和感ある格好をするのは非社会的行為なんだな。
ただその非社会性を言語化できないから似たような言葉でダサいと言ってる訳だ。
これもずっと不思議だったんだよな、オタクのダサいとも微妙に違う着こなしの変さはなんなんだろう?と。
他の人が社会的ななかで非社会的な着こなしするから悪目立ちするし異様なんだ。
ではどうしたらいいのか?
それぞれ好きでいいんじゃね?
そもそも俺はこうなんだ!こういう人間なんだ!と世間に打ち出すのが苦手、嫌いという人も結構いるみたいだし、そういう人にファッションの楽しさを説いてもなあ、じゃん。
周りと同じ服着るとか、雑誌のコーデそのままが無難じゃなかろうか。
一番楽しい部分を捨てるとかなんてもったいないと思うけど、それはその人の自由だしなあ。
俺はダークスーツに派手な花柄のシャツを合わせてチンピラコーデするけどな。