義務だろうがなんだろうが結婚するしかない話
クロエとリアムは、数週間前婚約した。
クロエが19歳、リアムが22歳。
歳が近く年頃な2人。
3年ほど前に社交場で出会った2人は、そこから徐々に親交を重ねていった。そして婚約した。
しかし、婚約してから、クロエの顔色が芳しくない。
婚約した2人は以前よりも頻繁に逢瀬を重ねたが、今日に至るまでクロエの顔色は変わらず、深刻そうであった。
今日の逢瀬はリアムの別宅のテラスで、2人でお茶を飲んでいた。5月の新緑を思わせるクロエの瞳が、リアムにはいつもより思い詰めているように見えた。
焦る気持ちを抑え、リアムは普段以上に明るく喋った。そうしなければ、クロエから自分にとって良くない話を聞かされそうな予感がしたからだ。
「これが最近美味しいと噂の苺のカップケーキなんだって。本当に見た目も可愛らしくて素敵だね。それから」
「リアム様………」
「ん?」
「私………、私達の婚約を………」
リアムの話が止まらないことに、クロエは気づいたのか。最初はタイミングを見計らっていたようだが、意を決したように、半ば強引にリアムの話を遮り、クロエは口を開いた。
リアムは自身の心臓が、早く大きく脈打っているのが分かった。クロエのセリフを止めなければと思ったが、咄嗟に何もできず。ただ、ただ、クロエから発せられたセリフを大人しく聞くことになった。
「婚約を………解消しようだなんて………。
クロエ、本気かい?」
クロエのセリフはリアムにとって、予想の範疇であった。しかし、それを受け止めるほどの気持ちは出来ておらず、動揺と衝撃でリアムの声は少し震えていた。
「………はい」
小さく返事を返し、クロエは頷いた。
この時リアムは、自身が良い年の大人だとしても、泣いて取り乱したい心境だった。
だが、自分以上に涙を我慢している様子のクロエを見て、リアムは落ち着きを取り戻し、深呼吸を1つした。
「クロエ……、理由を教えてくれるかい?
婚約を解消したいと思ったのはどうして?」
「………嫌なのです。リアム様が義務で結婚するのが」
(義務で………、結婚するのがいや………)
その言葉がズシンと、リアムに乗りかかった後、すぐハッとする。
「待ってくれ。
クロエ、君が義務で結婚するのが嫌なのではなくて、僕が義務で結婚するのが嫌なのかい?」
その問いかけに、クロエは再びコクンと頷いた。
「………、つまりその、君自身は僕との結婚は嫌ではない?」
俯きがちだった顔を上げたクロエ。
リアムの質問の意図が分からないといった、不思議そうな顔で再び頷いた。
リアムはしっかりとクロエの頷きを確認した。
するとすぐ様、天にも登るような気持ちになり、リアムの気分は一気に晴れやかになった。
「クロエは僕との結婚が嫌じゃない!
そうだよね? ね?」
先程とは打って変わったリアムの様子に驚き、まるで人形のようにクロエは複数回頷く。相変わらず、どうしてそこを確認されるのか、クロエは分かっていない様だった。
ただ1つクロエが分かることは、
(こんなに気持ちが昂っているリアム様、知らない)
である。普段の余裕綽々、穏やかなリアムから離れたその姿に、クロエの思考の処理は追いつかない。
「クロエが僕との結婚を嫌じゃない!
それが分かっただけで十分だ!
それじゃあ、婚約を解消する必要なんてないね」
リアムは完全に安心しきった様子で、再びお茶を飲み始めた。
「お、お待ちください、リアム様。
良いのですか、このままでは知人程度の私を、家の義務で押し付けられてしまいますよ?」
それを聞いたリアムは心の中で、がっくりと肩を落とした。クロエにとって己は知人程度の存在だと、はっきりしたからだ。
「僕はクロエに対して好意的だったと思うのだけれど、伝わっていなかったのかな………」
「いえ、リアム様のご厚意には、いつも感謝しています。
人見知りで、男性とは特にうまく話せない私にも優しくしてくださって、本当にありがとうございます。
ですがそのせいで、両親が私の為にと、リアム様の家との縁を無理に繋げ、結婚する羽目になったのが申し訳なくて」
リアムの好意は、クロエに厚意と受け取られていた。
確かにこの婚姻は両家の利も含んだものだった。お互いの婚姻なくしては成り立たないのだから、この結婚は2人の義務とも言えるだろう。
「私と義務で結婚させてしまって、リアム様の幸せを壊したくないのです。リアム様は交友関係も広く、人望のある方ですから、もっと似合いの方がいるでしょう。
ですから、私に遠慮なさらず、婚約を解消していただいて構いません。
この婚約で生まれるはずだった利得については、両親とリアム様のご両親に、私が説明して説得しますので」
クロエの言葉にリアムはしばらく思案し、持っていたカップをテーブルへ置いた。
「クロエ………、僕はこの結婚を義務だなんて思ってない。
そう言ったら、このまま僕と結婚してくれるかい?」
「え?」
「まぁ、僕としては義務だろうがなんだろうが、君と一緒になれれば良いんだけど。
これで伝わったかな? もっと直接的に言おうか?」
「あ………えっと、その………」
クロエは赤くなった頬を抑えて、狼狽えた。
クロエのその表情を見たリアムは、クロエに自分を意識してもらえる可能性を感じた。と、同時に、加虐心と悪戯心が、むくむくと膨れてしまった。
「いや、やっぱりもっと僕の気持ちを伝えておかなくてはね。また、気持ちがすれ違って、君が婚約を解消したくなってしまっては困る。
僕は君と結婚したい。
そうだ、クロエ。君にも確認したいんだけど、知人程度の僕と、このまま結婚してくれるかい?」
赤くなっていたクロエだが、ニコニコと機嫌が良すぎるリアムの顔を見て、からかわれているのだと分かり、徐々に落ち着いていった。
「リアム様、少し意地が悪いです…………。
私にとってリアム様は、おこがましいようですが、心の中では友人と………。
いえ、白状いたしますと、以前からお慕いしておりました。
ただ、先程も申し上げました通り、リアム様にはご友人も、お知り合いも沢山いらっしゃいますから、リアム様にとって自分の立ち位置が分からず、自信が持てなかったのです」
クロエは少々投げやり且つ、観念した気持ちで、コップに手をかけると、一息にお茶を飲みほした。
リアムは、笑顔のままピタリと止まっていた。
不審に思ったクロエがリアムの名前を数度呼ぶと
「クロエが僕のことを、以前から慕ってくれていたって!?」
思わず叫び声に近い声が漏れてしまったリアムは、慌てて口を押えた。
しかし、そんなのに何の意味もなく。
クロエは驚愕した表情を浮かべていた。
「………私の浅ましい気持ちなんてご存じだとばかり。
………違ったようですね」
クロエは先ほどより一層、顔を赤く染め、そこから黙ってしまった。
「どうしよう………。こんなにも嬉しいことはないよ。
こんなことなら、家を巻き込まずとも君に直接プロポーズすればよかったな」
「………え? 今なんとおっしゃいました?」
聞き捨てならないセリフに、クロエが一気に冷静になった。
「あ……」
「家を巻き込まずとも?
この婚約は、私の両親が私の為にリアム様を巻き込んだと思っていたのですが、違うのですか?」
クロエの瞳に疑惑が宿っている。
今日のリアムは気持の落差が激しかった。そのせいで、気持ちが緩んでうっかり、思っていた事が口に出てしまった。
リアムは仕方ないと、クロエに正直に話すことにした。
「すまない、クロエ。
この婚約を持ち掛けたのは、僕の家でも君の家でもなく、僕だ。
君のことが好きだったんだ。
君に嫌われてはいないだろうけど、恋愛感情を持たれているか、僕は自信がなかった。
それで結婚を断られたくなくて、互いの家の利益の為という建前を使った。
恋愛感情がなかったとしても、義務があれば僕と結婚してくれると思ってね」
クロエの瞳が疑惑から、驚きへと変わっているのがリアムには見て取れた。
「予想外だったのは君が僕に優しすぎたことだ。
まさか、僕の為に婚約を解消しようと言われるなんて思ってもみなかった。
焦ったけど、君が僕の幸せのことまで考えてくれたことが嬉しくてしかたない。
反対に僕は君の選択を潰すばかり………、酷い奴だな。
けど、後悔はしてない。
クロエ………、こんな状況にしてから言うのはずるいと思うが、本当に愛してるんだ。
これから先、君の隣にいさせて欲しい。
君の隣にいたいんだ」
暫く沈黙が続いた後
「選択肢なんて………ないじゃないですか」
ぽつりとクロエが返した。
「………そう………だね」
この婚約をリアムが解消すると言わない限り、クロエの選択は1つしか残されていない。
クロエの言葉に棘があるように感じ、仰るとおりと、リアムは少し項垂れた。
「ぷっ………。
ふふ、私がリアム様のこと、とてもとてもお慕いしてなかったら、ここで引っ叩いていたかもしれませんよ?」
先ほどの重苦しい声音とは打って変わって、弾むような声にリアムはぐっと視線を上げ、クロエを見た。
「選択肢が1つしかないなら、仕方ないですね」
「クロエ………」
「ふふ、リアム様だって、先ほど知人と言った私をからかったでしょ?
私もちょっと、お返しがしたくなったんです。
ごめんなさい」
クロエが無邪気に笑った。
ここ最近、見れていなかったその顔を見て、リアムは立ち上がり、クロエの横に立った。
「リアム様?」
思わずクロエも立ち上がると、リアムはクロエの背中に腕を回し、抱きすくめた。
クロエは驚いたが、少し震えているリアムをそっと抱き返し
「私、とてもリアム様に愛されていたんですね」
笑い交じりにリアムに言った。
「とても! とても………、もうずっと前から、愛してる。離してあげられないほど」
『離したくない』ではなく『離してあげられない』と言うところに、コントロールが効かないほどの、リアムの愛の重さを感じたクロエ。
(もしかして早まったかな………)
クロエの頭に、少しそう過ぎったけれど
「うれしい………どうしよう………うれしい………」
心の声があふれるリアムが、可愛く愛おしいなと思ったので、クロエは良しとすることにした。
「ふふ、私も嬉しいです。
リアム様に幸せな結婚してもらいたかったので、叶いそうで何よりですよ」
「そう………そうだね。
僕は義務だろうがなんだろうが、絶対クロエと結婚する。
それで、クロエを誰よりも愛して、幸せにする。君が隣りにいるんだ、僕には幸せになる道しかない。
他の選択肢なんて元々ないんだ」
リアムはよっぽど嬉しかったのか、喜びに浸っていた。
ここまで喜んでもらえるほど、自身はリアムに愛されているのだと感じたクロエは、微笑ましくリアムを見守っていたのだが………。
あまりに抱擁が長いため、本当に文字通り、リアムから離してもらえないのでは、という危機感をクロエが覚えたのが5分前。
未だにリアムの抱擁から解放してもらえないクロエが、やっぱり早まったと思い直したのが3分前。
我慢の限界が来たクロエが身をよじりリアムの腕から抜け出すのに成功し、声を荒らげ、リアムを嗜めるまで、あと10秒。
-完-