タマキ
<佐原 珠希>
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市場に入ろうと恐る恐る 歩いていた私の左肩に、「どんっ」という重い衝撃が走る。
私はバランスを崩して1,2歩後ずさり、180度回転をするようによろけて座りこむ。拍子に、私のボロボロのショルダーバッグからいくつかアイテムが飛びだして周囲に転がった。
空き瓶が円を描くように離れていく様子が、ぼんやりと視界に映った。
――痛たたたた。
「前はよく見て歩けよこのガキ!」
座り込んだ私の右肩後ろに男の野太い声が突き刺さる。
「すっ、すみません!!」
反射的に私は謝ってしまう。いつもの、いつもの癖だ。いつも、私はこうだ。
「やめときなよ。この子、例の、あの…」
女性の小さな声がして、男が、何かに気づいたように、矛を収めたような、そんな態度となる
「あぁ、あ、そうか。悪かったな。気をつけろよ」
男と女は去っていく。私は太もものあたりを払い、一度立ち上がった後、しゃがみこんで腕を床に沿って動かし、瓶を見つけてバッグに放り込んでまた立ち上がる。
市場には、毎回開催のたびに来ている。もう間取りなんかは頭に入っているんだけど、どうしても人の出入りが多いので、さっきみたいにぶつかるのはしょっちゅうだ。
私みたいなトロい動きの人は、邪魔なんだろう。
壁に沿って進む。目の前のだいたいいつもの位置に居る人を見つけて話しかける。
「こんにちは」
相手はこちらに体を少し向けて答えてくれる。
「こんにちは、タマキ。今日も、いつもの奴を探しに?」
「えぇ。今日は、出てる?」
その人は、黙って少し私から離れていく。おそらく掲示板を見に行ったのだろう。戻ってくると思うので、そのまま少し待つ。
「1個出てた。『あきら』さんって人」
「『あきら』? 新人さん? 聞き慣れない名ね」
この世界に人は少ない。シブヤに居るのはせいぜい数十人だろう。
私は定期的に、シブヤも、ハコネもナガノの名簿も全部、徹底的に確認している。『あきら』という人物は居なかったような気がする。確証はないけど。
「あぁ、最近ここで登録した人らしいよ」
「へぇ……」
「行くんだったら右奥の方。右奥から2番めの柱のたもと。あぁ…、ちょっと待って。タマキ、納税、切れてるから。何か出せる?」
確かにしばらくギルドには何も納品していない。
私はやむを得ずその人にショルダーバッグを開けて渡す。彼が、少し乱暴に、私のバッグをかき回す。気分が悪い。不快……。
「あんまり良い感じのものないけど…、この瓶でいい?」
「……えぇ」
瓶が無いと水が持ち運べない。でも、どうせ遠出できないし、池から直接すくって、飲むしかないな。恥ずかしいけど、今更、しょうがない。
瓶を取り出されて、バッグは私に押し返される。
了解は得たので、市場に入ることはできる。それでも、別に私の手を引いて案内してくれるわけじゃない。
――私とはこの人とは、距離がある。他人だ。「知り合い」とは呼べるのかな。
この市場でいつも声をかけるのは大体この人だけど、顔は知らない。私に見えるのは、いつも、ぼんやりとした輪郭。
「ありがとうございます」
お目当ての出品があるのは10回に1回くらいだ。それでも、私に合うものは少ない。全部、度が、低すぎるんだ。
1,2回あったけど、交渉が成立しなかった。魔石5個+『ご希望』とか、ありえない。払いようがない。
恐る恐るまた歩き出す。人にぶつからないように。商品を、間違っても、踏んだり、蹴ったりしないように。
――右奥から2番めの柱。だいたいこのあたりか。
周囲にはアイテムを並べた人やそれを見ている人で混雑している。
この瞬間は、いつも緊張する。
「あ、あの、『あきら』さんという方は、いらっしゃいますか!!?」
ふっ、と、一瞬周りから音が消える。この瞬間が、いつも嫌だ。
「あぁ、僕です」
良かった。私は声の方に進むと、その人の商品の前でしゃがみ込んでその人と対峙する。
小柄な…人だ。年は結構若そう。今の私と、同じくらいだろうか。
「何か、ご用ですか?」
「えっと、メガネを出品されていると聞きまして、よかったら、見せていただけないかと……」
「あ、ほんとですか? こんなに早く欲しがっている人と会えるとは、思いませんでしたよ!」
眼の前の人が、嬉しそうな反応をする。私が、一文無しだと知ったら、どういう反応をするんだろう。
「あ、でも魔石も、アイテムもいいのなくって、でも、なんとかならないかと…」
――沈黙。相手はどういう反応を取るんだろう。怖い。怖い。
「でも、分割払いとか、あ、あのそれ以外でも、あの、好きなときに『ご希望』にお答えしますから」
……もう、この『ご希望』にも慣れた。…でも、慣れたく、なかった。
――沈黙。
「……そっか、お金大変だもんね。取りあえず、かけてみたら?」
本当に、軽い反応をして、店主は、手を動かして商品をつかみ、私に渡してくる。掴むのが、怖い。この人には、何気ない、なんでもない、ことなんだろうな。
「どうしたの?」
「あの、落としたりとか、怖いんで、よかったら、かけてもらえますか?」
他の人にとって、もしかしたら気持ち悪いお願いなのだろうか。でも、触るのは、怖かった。
私は、腰を落として顔を少し上に向かせる。店主が少し身を乗り出して。両手で丁寧にメガネを広げるような仕草をして、私の頭の両側に手を伸ばす。耳の付け根に当たる、冷たい感触。そして、両手の平で蔓を挟んで、ゆっくりとメガネを目に下ろしていく。丁寧な、人だ。
――世界が、魔法のように、広がった。
両手の手のひらを眼の前に持ってくる。5本の指。運命線。生命線。指紋。30センチも距離があるのに。
そのまま、あふれる涙を手首のあたりで拭う。メガネが、汚れる。汚れる。汚れてしまう。
「……うぅうぅううう……」
「……バッチリ、合ってたのかな…?」
――店主さん、ちょっと引いてる。
「お金、無いんだっけ? いいよ、あげる。よかったら、何かのときにはよろしく。僕も、来たばっかりだから、よくわかんなくてさ」
「うううぅぅうう、うぁあぁああああああああぁああ」
泣き崩れた私に少し気圧されたのか店主さんが私の左肩に手をのせる。
そのまま、少し、乗せたままにされる。……体温が、ほのかに伝わってくる……。
……そして私の顔を覗き込むように、声をかける。
「……落ち着いて、大丈夫?」
――優しい、声だ。こんな声を前に聞いたのは、……いつだっただろう。
私はまた手首のあたりでメガネを少しずりあげながら、店主の顔を見た。
――澄んだ目だ。耳に少しかかった、男子としては少し長めの、茶色みがかった髪。かつて見慣れた制服。
そうだ。この顔には、見覚えがある。どこかで、どこかで……。
遠い記憶を、呼び起こす。……あのクラスの、クラスに居た、1人の、目立たない男子。
名前が……、名前は……なんだったっけ……。話した、話した記憶は…ない。
席が……たしか最初、あの位置で……「た」行……?、「たか」……「たかし…ろ」……!!
「……高城君…?」
彼が、はっとしたような顔をしてこちらを見る。
「佐原、さん……?」
――私に起こる奇跡は、まだ残ってるんだって、今わかったんだ。