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プロローグ

プロローグは飛ばして読み始めても、後から読んでも構いません。

 車に乗り込み、キーに付いたデバイスのボタンを押し、エンジンをかけた。


 昔とは違う。電気自動車はエンジンをかけても唸るような鼓動は無い。ただ、前面のパネルが無機質に赤い光を放つだけだ。…そうだ、もう「エンジン」と呼べるものでもなかったな。


 暗い中、パネルとナビの画面だけが車内をぼんやりと照らし出した。


 ビル地下の駐車場を滑るように出る。


 1つ目の信号でナビを操作して、いつもの音楽をかける。落ち着いた音色が、車内に満ちる。


「ショパンですか? 専務ともなると、聞く曲も違いますね」


 後ろの座席から不愉快な声がする。…「田沼」だ。うちの社のシステムオペレーター。普段なら、会話することもない。


「ベートーヴェンだよ。…ピアノソナタ第8番第二楽章だ」

「へぇ…」


 田沼が興味無さそうに相槌を返した。


 別に、クラシック音楽が趣味とかではない。聞くのは有名どころの同じ曲を繰り返し聞いているだけだ。

 流行りの歌など、追っていたのはいつの頃だったろうか。


 幹線道路に入る。路端に等間隔で設置されたLEDの光が、同じ周期で後部座席から運転席へ流れ、そして後方へ過ぎ去っていく。

 帰宅ラッシュ時間も過ぎた。道路は閑散としていて、速度も順調だ。


「ログイン方法は、ダイブ型でなくてイミグレーション型で、良いのでしたっけ?」


 田沼が後ろの座席から、バックミラー越しに大きな銀色のアタッシュケースを触りながら声をかけてくる。


「いい。…それで、問題ない」


「…珍しいですよ。普通はダイブ型です。イミグレーション型なんて、ただ単にシステム内に複製を作って、あとから記憶をフィードバックするだけですから。リアルタイムで体験できない。…気味悪いですしね」


 こいつは、本当に不愉快だ。…言葉を選べないのか。


「本人を見ればわかるさ。ダイブ型では、なんともならない」


「…佐原専務の娘さんといえば、一時期社内で噂になってましたよね?」


「そうだな」


 触れてほしくない話題だ。本当に、黙って言われたことだけやっていれば、いいのに。


移住者(イミグラント)を収集してた時期にたまたま起きた、クラス全員死亡のバス事故。偶然、その日だけ学校を休んでいた専務の娘…。これで噂が立たないことが、ありえないですよ。…専務は何か、知らないのですか? ここだけの話」


「知らんよ。…たまたまだ」


 知らない。恐らく、本当に可能性の低い偶然だったのだろう。あの事故以来、社内を注意深く観察しながら過ごしてきた。故意に起こされたという痕跡は、まるで見つからなかった。


 命は助かったとはいえ、娘の線路はそこから大きく狂ってしまった。結果が、これだ。これが、こんなことが、「奇跡」などと、呼べるものか。


「…現地には『病気』が無い。これは、間違いないな」


「…いえ、正確にはあるところにはあります。ただ、『126番』に無いことは確認しました」


「…そうか。ありがとう」


「何か、関係が?」


 仕事以外のことを他人に話すなど、本当に、久しぶりだ。


「田沼、『病気』ってなんだと思う?」


「は?」


「『病気』の定義だよ」


「唐突ですね。…ウィルスとか病原菌とか…、理由は色々だと思うんですけど、体が異常な状態になっていることですかね?」


「そうか。…なら、脳内物質の分泌の異常なんかは、病気かね?」


 少しだけ、沈黙が流れる。


「…そういうことに、なるんじゃないですかね」


「そうか。…安心したよ」



 車は自宅のマンションの地下駐車場にたどり着く。


「こんな立地のタワマンですか。…やっぱいいとこ住んでるんすね」


 エンジンを切り車を施錠する。黙って、地下駐車場からエレベーターへ向かう。32階へ。


 無言でエレベーター内の長い時間を過ごす。そして、『3214』と書かれた無機質な扉の前へ。


 指紋認証にて、ドアを開く。藍色の、静謐な空間。電気も、着いていない。物も、必要最小限だ。


 リビングの照明をつける。田沼をリビング脇のベッドルームに案内する。


「こっちだ」


 ここにも電気は点いていない。ただ、カーテンが開いた広い窓から月の光が差し込み、置かれたベッドを薄く照らし出していた。


「ただいま。珠希」


 返事はない。ベッドに力なく座った娘は、少しだけこちらに虚ろな目を向けて、少しだけ、うなずいたように見えた。

 

「これが、娘さんですか? …可愛いですね」


 …この状態の人間を見て、最初の反応が「可愛い」か。本当に、下衆な男だ。…こいつにとって、女性はただの人形でしかないのか。…吐き気がしそうだ。


「早速で悪いが、準備してくれ」


「了解しました。長居は、しませんよ。…したくもありませんし」


 そういうと田沼は、正座して持ってきたアタッシュケースを開ける。中に入っていた1つの薄いターミナルを取り出して起動をはじめる。


 私は所在なく、娘を見つめた。


 やせ細った手。目は焦点が合っていない。どこを見ているのか。…あるいは、どこも見ていないのか。


 ベッドサイドのテーブルには、朝置いていた食事と、一輪のユリの花。サンドイッチは、少しだけ囓った形跡がある。水も、少しは減っているようだ。娘が生きていることを…、少しだが感じる。


 ユリの花は、こうなってから私が買ってきた造花だ。


 本当に昔、珠希が小さかったころ、妻と3人でハイキングに行って、大きなユリの花を見つけた。

 珠希は「綺麗」と言って、いつまでもそこから離れようとしなかった。


 「気に入ったら、切って持っていこうか?」って言ったら、「切ったら、枯れちゃうでしょ? かわいそう」と言った。

 私が、「ユリの根は食用」と言ったら、「食べてみたい!」とはしゃいだ。


 …後日、ネットでユリの根を買って、それを妻が調理して3人で食べた。大して美味しくは無かったが、珠希は終始、上機嫌だった。


 …本当に遠い、遠い記憶だ。優しく、そして好奇心溢れる子だった。


 今でも、ユリの花は好きなのだろうか。切った花を「可哀想」と言うような子なのだろうか。他には、どんな花が好きなのだろう。

 …私の中に、答えはない。


 でも、切り花のユリを持って帰ったら、娘に叱られるような気がして、結局、造花にした。


 「造花」。私だけが、花はもう枯れてしまっているのに、受け入れられていないような気がする。…皮肉なものだ。


「準備、できました」


 田沼が言う。


「頭のデバイスは、どうします?」


「私が、付けるよ」


 そういって、田沼のアタッシュケースからデバイスを受けとる。


「珠希、少しの辛抱だからな」


 そういって、反応のない娘の頭部に被せる。特に嫌がることもない。 …そもそも、反応がないのだ。


「時間がかかりますから。イミグレーション処理を最初に開始します。設定はそれからで」


 田沼がそういってターミナルのタッチパッドを操作し、ダイアログの「OK」を押下する。画面中央に小さなダイアログが現れ、その真ん中に青色のインジケーターが表示される。


「ざっくり、6時間ってとこですね」


「わかった」


「最終確認ですよ。ログイン先は『126 番』。年齢設定は16歳。ログイン時間は最大でこちらの時間で1週間。現地時間では20年ですね。向こうは20年サイクルですので。終了後に表示されるメンタル評価値を見て、必要ならフィードバック処理を開始してください。イミグレーション処理以降のこちらの世界の記憶は上書きされますから、やるなら早めがいいですね」


「…わかっている」


「しかし…、ほんとに『126』でよろしいので?」


 何度か聞かれた話だ。


「『126』でないと意味がない。…設計書が無いとか、開発段階で開発者がテスト目的で作ったものだから世界の整合性が検証されてない、とかいう話だな。聞き飽きたよ。問題ない。状況次第でフィードバック処理をしなければいいだけだ。今より容態が悪くなることはない」


  ここまで話して、ふと、田沼がキーボードを叩いていた手を止めた。少し、下を向いて息を吐く。そして数秒、黙りこむ。

 

「……そうですか。…そう、ですね。間違って、ないです」


 田沼は、奥歯に物が挟まったような言い方をする。…イライラする。


「単にシミュレーションにかけてポジティブな影響が出るようなら、結果を娘に還元させるだけだ。そうだろ?」


「…専務、娘さんが今こうなっている理由が少しわかったような、そんな気がしますよ」


 …


「…お前に、何がわかる…?」


 私の台詞を無視して、田沼は続ける。


「イミグレーション処理が終了次第、世界へのログインが完了します。 処理が終わったら、頭のデバイスは外してもOKです。ターミナルは電源を入れっぱなしにしといてください。終了すれば通知が入ります。フィードバック処理は画面の指示に従えば問題ないでしょう。…全て終了したら、メッセージでもください。回収に伺います」


 そういって、田沼はそそくさと撤収の準備を始める。



 田沼にタクシー代を渡し、玄関まで送る。


 異物が無くなって静かになったベッドルームに戻る。床に、娘の頭部と繋がったターミナルが四辺形の青白い光を放っていた。インジケーターは3%。残り5時間52分。


 ベッドサイドの小さな椅子に座って、一息をついた。

 

 …娘が、あの事故に区切りをつけて、もう一度歩みだせること。私の願いは、それだけだ。…それ以外のことなど、もう、どうでもいい。


 静止したような空間の中で、ターミナルの画面だけが、時を刻んでいた。


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